後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
「それより、キャンセル料の扱いはどうしましょう?」
 客にせっつかれている男性社員が〈早く決めて欲しい〉というように射るような視線を投げてきた。
 女性社員と役員からも同じ視線を感じた。
 社長がどういう判断を下すのか、それが彼らの最大の関心事に違いなかった。
 男は口から出かかった〈もう少し様子を見よう〉という言葉を飲み込んだ。
 航空会社の無料対応を待つという選択肢もあるのだが、それで本当にいいのか、という心の声が聞こえてきたからだ。
「う~ん」
 腕を組んで目を瞑ると、いきなり四つの文字が浮かび上がってきた。
先義後(せんぎこう)()
〈人として当然あるべき道を優先して利益は後回しにする〉という意味だ。
「う~ん……」
 目を開けると、3人の視線はまだ強く突き刺さっていた。
 それはまるで男の真価を見極めようとするように。
 確かに状況が厳しい時ほどその人の真価が試される。
 特に社長となれば尚更だ。
 状況が混沌としていても進路を指し示さなければならない。
 男は自分の信念に従うことにした。
 困難な道を選ぶことにしたのだ。

「冬の北海道企画に対するキャンセル料は取らない。交通機関やホテルなどから請求された場合はこちらで負担する。その分は取引先と別途交渉することにしよう」
 男が言い終わると同時に男性社員が立ち上がった。
「すぐに連絡を入れます。喜んでいただけると思います」
「ちょっと待て」
 背を向けた彼に次の指示を与えた。
「募集を止めなければならない。募集終了の案内を今すぐホームページに掲載してくれ」
 すると彼は一瞬ビクッと体を震わせたが、大きく頷いてから部屋を出て行った。

 男は女性社員に向き合った。
「沖縄の感染状況が心配だ。いつ急増するかもわからない。感染数だけでなく、首長がどのような判断をするのかによって、観光客の動きが変わってくる。それを見ながら迅速に判断しなければならない。些細な情報でもいいからきめ細かく収集してリアルタイムに報告して欲しい」
「承知いたしました。沖縄県知事だけでなく、市長や町長の発言もフォローして、迅速に報告いたします」
 彼女のこめかみがグッと締まった。そして、ノートを閉じて一礼をし、部屋から出て行った。

< 87 / 373 >

この作品をシェア

pagetop