後姿のピアニスト ♪ 新編集版 ♪
          ♫ 女 ♫

 ミモザが満開の時を迎えていた。
 緑の葉を覆い尽くすように咲く黄色の小花が甘い香りを漂わせていた。
 ただ、自分の感覚では例年より1週間ほど早いように感じた。
 そのことをご主人に訊いてみようと思っていたが、満開の間は一度も顔を合わすことがなかった。
 
 もうすぐ『ミモザの日』がやってくる。
 3月8日のイタリアの記念日がミモザの日だ。
 正式には『女性の日』なのだが、日頃の感謝を込めて男性が女性にミモザを贈るのが習わしになっていることからミモザの日と呼ばれている。
 その日ミモザを贈られた女性たちは家事や育児から解放され、女性同士で食事をしたり、おしゃべりに花を咲かせて、束の間の自由を満喫するらしい。
 イタリアの男性は粋なことをするものなのだなと思う。
 国民性は違うが、日本でもこんな習慣があればいいのになと思う。

 この花屋敷のご主人はどうだろう? 
 奥さんにミモザを贈って自由な1日をプレゼントするのだろうか? 
 もしそうなら素敵だなと思うと、満開を迎えたミモザを切って花束にして奥さんにプレゼントしているご主人の姿が思い浮かんだ。
 すると、父の顔が蘇ってきた。
 父が母にそのようなことをしていたことは記憶にないが、恋人同士の時や新婚の時はどうだったのだろう? 
 そんなことが頭に過ると、母に花束を贈って愛の歌をピアノで弾いている父の姿が浮かび上がってきた。
 優しい横顔だった。
 優しい眼差しだった。
 そして、優しい指の動きだった。
 
 その時、ふっと柔らかな風が頬を撫で、ミモザの香りと共にメロディを運んできた。
 バーブラ・ストライサンドの『The way we were(追憶)』だった。
 その歌声に耳を澄ますと美しい思い出が蘇ってきたが、それはすぐに痛みに変わった。
 戻ることのない幸せな日々に唇を噛んだ。

< 89 / 373 >

この作品をシェア

pagetop