ペアリングの日2024
右手の薬指が気触れて痒くなった。疣みたいになっている。虫刺されか、将又、何かの草木に触れたか。どちらでも同じことだった。
痒い。気になった。掻くと痛む。何故この指なのか。皮肉なものだ。指輪が邪魔をして冷感の塗り薬も塗れない。
夏休みのために田舎に帰ってきていた俺は所在なく裏庭に立っていた。畑が見渡せる。都会の喧騒とは離れたこののどかな土地にも、見えない柵がないとはいえないけれど。
サンダルの先には一面の緑。雑草だ。都会と同じ。人は多いがどこの誰かなんて知れたものではなくて。この草ひとつひとつに学名があって、食えるか食えぬか調べた奴等がいる。けれど俺にとっては雑草。望んで生えたものではないから。けれどこいつ等も、望んでここに生えたのではないだろう。望んで生えたのでも。
緑の中に一点、懸命に走っているのがいる。赤い丸が目立つ。テントウムシ。
無邪気だと思った。無垢だと思った。可憐だと思った。弱々しいと思った。
テントウムシのなかでは活きがいい。俺のサンダルの先を急ぎ足で駆けていく。草から草へ、茎を登り、葉へ渡って、潜っては現れて。
あのテントウムシの平穏を祈った。いや、天敵に食われるか、知らず知らずのうちに踏まれるのがオチだ。
人間のように頑丈には生きられまい。
俺は踵を返した。空が唸っている。一面の葉を見回す。あのテントウムシは水で死ぬのか。
やっと成虫になれたのに。
けれどそれは、今まさにジージーミンミン鳴いているセミにもかけてやるべき同情だった。
空が暗くなる。
雷は紫色なのだと知ったとは今から2年前。季節は今と同じ頃。
稲光は金属に落ちるものだというのは思い込み。けれど雷鳴を聞くたびに俺の指にも落ちないかと思った。俺のこの指に落ちてくれ。そして真っ赤な痕を残してくれないか。刻みついてもう消えない痕を。
空が光る。
ああ、落ちないか。こんな安物じゃ。
大好きな人がいた。将来を考えた相手だけれど、2年前に死んでしまった。大雨の日。ドラマや映画で観た。悲劇は雨の日に起こるのだと、呆然と考えていた。
人工呼吸器を曇らせて、何か言っていた。俺の指輪を引っ掻いて、引っ掻いて、引っ掻いて。
何と言ったのか結局聞き取れもしなかった。願いだったなら叶えてやることもできずに、俺はのうのうと生きている。
けれどそれでいいのかもしれない。
俺はフられたから。彼女を守ってやれなかった。一番の危機に駆けつけることもできなかった。
見限られた。その証拠に、彼女は揃いの指輪を外した。最期の最期。大きな擦り傷を負った手で。
空が唸っている。年々暑くなっていく。雷が日常のときもくるのだろうか。
「今日は誰の悲劇に寄り添っているんだ?」なんてばからしい。ただの自然現象だ。ある意味では人為的でもあるけれど。
雷鳴。
こんなことはこんな田舎でなくても思い出せるのに。
空が光って、そのうち土砂降り。手の内は分かってる。そしていきなり静かになるんだろう? 何も知らないカオをして明日には快晴。
あの子がそんな目に遭った次の日もよく晴れていた。嘘みたいに。昨日の水溜りも雲も消して。
俺はまだ彼女のペアリングが俺の手の中にあるのが信じられなかった。
ああ、落ちないか。こんな安物じゃ。
彼女を守れなかったし、彼女に相応しい男じゃなかった。
ああ、落ちないか、こんな安物じゃ。
こんな安物じゃ、彼女を落とせない。
何も信じられなくて受け入れられなくて、ただ呆然とそんなことばかり考えていた。あの子が必死に差し出した手を握り返すのも忘れていた。
自分のことしか考えていなかった。彼女のことなんて何ひとつ思いやってやれなかった。今の際にさえ。
近くに雷が落ちる。所詮は外のことだった。夏のことだ。何の意味合いもない。
指が痒かった。薬を塗る。それが理由だ。指輪を外す。ほんの一瞬でも彼女を忘れるみたいで嫌だった。彼女がいなくなったみたいで悲しくなった。彼女を裏切ったみたいでツラくなった。もっと昔に清算されるべきことだったのに。
【完】
痒い。気になった。掻くと痛む。何故この指なのか。皮肉なものだ。指輪が邪魔をして冷感の塗り薬も塗れない。
夏休みのために田舎に帰ってきていた俺は所在なく裏庭に立っていた。畑が見渡せる。都会の喧騒とは離れたこののどかな土地にも、見えない柵がないとはいえないけれど。
サンダルの先には一面の緑。雑草だ。都会と同じ。人は多いがどこの誰かなんて知れたものではなくて。この草ひとつひとつに学名があって、食えるか食えぬか調べた奴等がいる。けれど俺にとっては雑草。望んで生えたものではないから。けれどこいつ等も、望んでここに生えたのではないだろう。望んで生えたのでも。
緑の中に一点、懸命に走っているのがいる。赤い丸が目立つ。テントウムシ。
無邪気だと思った。無垢だと思った。可憐だと思った。弱々しいと思った。
テントウムシのなかでは活きがいい。俺のサンダルの先を急ぎ足で駆けていく。草から草へ、茎を登り、葉へ渡って、潜っては現れて。
あのテントウムシの平穏を祈った。いや、天敵に食われるか、知らず知らずのうちに踏まれるのがオチだ。
人間のように頑丈には生きられまい。
俺は踵を返した。空が唸っている。一面の葉を見回す。あのテントウムシは水で死ぬのか。
やっと成虫になれたのに。
けれどそれは、今まさにジージーミンミン鳴いているセミにもかけてやるべき同情だった。
空が暗くなる。
雷は紫色なのだと知ったとは今から2年前。季節は今と同じ頃。
稲光は金属に落ちるものだというのは思い込み。けれど雷鳴を聞くたびに俺の指にも落ちないかと思った。俺のこの指に落ちてくれ。そして真っ赤な痕を残してくれないか。刻みついてもう消えない痕を。
空が光る。
ああ、落ちないか。こんな安物じゃ。
大好きな人がいた。将来を考えた相手だけれど、2年前に死んでしまった。大雨の日。ドラマや映画で観た。悲劇は雨の日に起こるのだと、呆然と考えていた。
人工呼吸器を曇らせて、何か言っていた。俺の指輪を引っ掻いて、引っ掻いて、引っ掻いて。
何と言ったのか結局聞き取れもしなかった。願いだったなら叶えてやることもできずに、俺はのうのうと生きている。
けれどそれでいいのかもしれない。
俺はフられたから。彼女を守ってやれなかった。一番の危機に駆けつけることもできなかった。
見限られた。その証拠に、彼女は揃いの指輪を外した。最期の最期。大きな擦り傷を負った手で。
空が唸っている。年々暑くなっていく。雷が日常のときもくるのだろうか。
「今日は誰の悲劇に寄り添っているんだ?」なんてばからしい。ただの自然現象だ。ある意味では人為的でもあるけれど。
雷鳴。
こんなことはこんな田舎でなくても思い出せるのに。
空が光って、そのうち土砂降り。手の内は分かってる。そしていきなり静かになるんだろう? 何も知らないカオをして明日には快晴。
あの子がそんな目に遭った次の日もよく晴れていた。嘘みたいに。昨日の水溜りも雲も消して。
俺はまだ彼女のペアリングが俺の手の中にあるのが信じられなかった。
ああ、落ちないか。こんな安物じゃ。
彼女を守れなかったし、彼女に相応しい男じゃなかった。
ああ、落ちないか、こんな安物じゃ。
こんな安物じゃ、彼女を落とせない。
何も信じられなくて受け入れられなくて、ただ呆然とそんなことばかり考えていた。あの子が必死に差し出した手を握り返すのも忘れていた。
自分のことしか考えていなかった。彼女のことなんて何ひとつ思いやってやれなかった。今の際にさえ。
近くに雷が落ちる。所詮は外のことだった。夏のことだ。何の意味合いもない。
指が痒かった。薬を塗る。それが理由だ。指輪を外す。ほんの一瞬でも彼女を忘れるみたいで嫌だった。彼女がいなくなったみたいで悲しくなった。彼女を裏切ったみたいでツラくなった。もっと昔に清算されるべきことだったのに。
【完】