サハラ砂漠でお茶を
住まい編 その2
ドアノブを引くと、鐘というよりも鈴のように、チリンとドアベルが鳴った。
「あ…いらっしゃいませ」
カウンターの向こうには、男前だが少し強面のマスターらしき人が、ダンガリ―シャツの上から、ベージュに黒い筆記体で「Sahara」と書かれたエプロンをつけ、なぜかきまり悪そうに私の顔を見た。30代半ばくらい?しゃがれた声に特徴がある。
「まいったな…まさかこのタイミングでお客か…」
自分でいうのも何だけど、お客様に向かってなんて言いぐさ!と思わないでもないが、不思議と腹が立たなかった。
ここで私の「悪い癖」が出て、「あの、出直した方が…」と言いかけたら、「あー、違う違う。その…ええと…これがね…」
マスターらしき男は、トングで銀色のパウチをつまんで見せた。パスタソースらしい。
「うち軽食もないわけじゃないんだけど、ランチやってないから、逆にこの時間ってあまりお客さん来ないんだよね」
そこで無人になったすきをみて、スパゲティを食べようとしていたらしい。
「あの、お構いなく。私、食べ終わるまで待ちますから…」
私も私だ。本当に帰ってしまえばよかったのに、何言ってんだろ。
それを聞いてマスターが急に笑い出し、「ひょっとしてお客さん、血液型A型?」と言った。
「え?何でわかったんですか?」とまともに返してしまったら、さらに笑ってこう続けた。
「少し前のテレビCMであったでしょ?お菓子の」
「ああ、アレですか」
それは大手メーカーのソフトキャンディのコマーシャルで、サラリーマン兼ミュージシャンとして人気だった2人組が出演していたのだが、「血液型別ソフティー(商品名)の買い方」というコントが面白かった。
A型は「自分が客だということを忘れているかのような遠慮っぽい態度」だったはず。
◇◇◇
「ごめんね、いろいろ失礼しちゃったね」
ひとしきり笑った後、しかし皿を用意したり、パスタのゆで時間を気にしたりしながら、「食べ物は卵サンドくらいなんだけど…飲み物はそのメニューから選んでもらえば」と言うので、「卵サンドとブレンド」を注文した。
ご本人の食事であるパスタのアルデンテとか、ソースの温め時間とか、いろいろ気にしてしまったけれど、「レトルトのソースで満足する男が、そこまでご大層なのは要求しないよ」とまた笑われ、手際よくサンドイッチとコーヒーを出してくれた。
「では、遠慮なく…いただきます」
卵サンドは「卵焼きサンド」だった。内側に薄く塗られた和辛子(多分)もいいアクセントで、軽くトーストしてあるから、香ばしくておいしい。コーヒーも香り高く、優しい味だった。
「おいし…」
小声のつもりだったけど、マスターは私の声をしっかり拾い、あの独特の強面をまた崩して「それは光栄です」と笑った。
ちょっと――この人「すごく良い」。
私には、聞かれたときに「こういうタイプが好き」ときっちり言語化できる異性のタイプ(特にルックス)がない。なのに、マスターとの短い間のやりとりの中で、「この人、“ど真ん中”だ」と思ってしまった。
要するに、ある種の一目惚れである。
「お客さん、今日はお仕事は休みなんですか?」
「あー…引っ越しを考えていて。有休まで取ったのに、不動産屋さんが休みだったんです」
「あ、まつばらさんかな。それは残念だったね」
「でも、この周辺お散歩して、ちょっと住んでみたいなと思ったので、明日出直して探そうと思いました」
「そうなんだ?じゃ、この店の隣とかどう?」
「へっ?」
「お隣に二軒長屋があるんだよ。片袖は一応人が住んでるけど、もう片方は空きがあったはずだから」
「二軒長屋、ですか」
「でも、古いし若い女の子が住むようなところじゃないかもしれないね。ごめん。忘れて…」
「そこ、見たいです」
「あ、そ?大家さんここと同じ人だから、ちょっと聞いてみようか?」
ちょっとちょっと。何かいろいろ軽やかに進み過ぎじゃないの?
◇◇◇
マスターはすぐさま「大家さん」に電話をしたが、第一声が「あ、おかあさん?」だった。
そして要領よく事情を説明し、メモを取ったかと思うと、私に向かって、
「まだ決まっていないみたいだから、明日内覧できるようにする?」
と言った。
「あ、はい。では…」
私は勢いに押されて返事をした。これも何かの縁だったのだろう。
「これで決まったら、俺たち店子仲間だね」
そう言う笑顔がまぶしい。大柄で強面系ではあるけれど、やっぱり客商売の人って感じがする。何というか、如才ない。
「あの、大家さんってマスターのお母さま…なんですか?」
「えっとね、別れた妻の両親なんだ。離婚後も俺がこうやってのうのうと商売して、ここの2階で寝起きいるくらいだから、お付き合いしやすい人だっていうのは保証するよ」
そこでふと、大した意味のない会話の切れ目というか「間」ができたので、私は名刺を取り出した。
「あの、私…小塚美由っていいます。ここに勤めていて…」
入ったばかりの頃、200枚作ったけれど、出張先で渡すくらいしか使い道がないため、何となく#はけ__・__#ないでいるやつだ。
「市議会事務局ね。なかなか堅そうなお勤めだ」
「年度末には退職が決まっているんですけど…それで在宅の仕事を始めることになっていて、ついでに引っ越そうかと」
「そうなんだ。俺は名刺はないから、ショップカードでいいかな?」
「あ、はい」
マスターはベージュの名刺大の紙の余白に、「佐原創」と書き込んで「俺は『さはらはじめ』っていうんだ」と自己紹介した。
「あ、それでお店の名前とか、エプロンとか…」
「店の名前は確かにそうだけど、実はエプロンはもともとこういうデザインのを買ってきたんだ」
「え?」
「Theはついてないけど、多分いわゆる「サハラ砂漠」のことなんじゃないかな?色も割と好みだったから、ホムセン1,000円で買った」
「はあ…」
「まあ、スズキさんやカワサキさんが、バイクショックで売っているステッカーを買うのと一緒だよ」だそうだ。
◇◇◇
これが、マスター改め創さんとの、短時間内で異常に情報量の多い最初の出会いだった。
私はその翌日再び行って部屋を見せてもらい、さらには「付き合いやすい大家さんご夫婦」とも顔を合わせた。なるほど、温厚で感じのいいお二人だ。
洗濯物干し場には大きな布団も干せそう。6畳二間に小さな台所、お風呂とトイレは別々。郊外なのと古いこともあり、家賃は今までのところの7掛けぐらいになるようだ。
家の中の収納はイマイチだが、外に物置もあるし、車を持つようになったら、別途駐車場代として3,000円上乗せになるらしい。
博次が見たら、「いい部屋だけど、アンペア数低いね。すぐブレーカー落ちそう」とか言いそうな気がするが、あいつがここに来ることはないので。それはどうでもよろしい。
博次とのいい思い出もあったはずなのに、地味にイラッとする言動などが思い出されたり想像されたりするあたり、私の中ではまだ完全には終わっていない、強いて言えば「末期の男」ということなのだろうか。
反面、意外に笑い上戸の創さんの笑顔は、何度も思い出される。
博次のことが心からどうでもよくなり、思い出すことすらなくなったとき、創さんは私の中で、どんなに存在になっているのだろうか。