サハラ砂漠でお茶を
第5章 新居

少しずつ


 私はラップトップのワープロは持っていたが、テープ音源を聞くためのカセットデッキは持っていなかった。

 厳密に言うと、CDラジカセは持っていたものの、卓上に置いて手で操作するには大き過ぎるし、職場で使っていたようなポータブルなタイプを買おうと思ったら、結構値が張る上に、割といろいろ種類が出ていて、どれを買ったらいいか分からない。

 ――と、本格的な作業を請け負う前に山科さんに相談したら、「あー、肝心なことを忘れていたわ!」と、両手を胸の前で合わせながら言い、「ちょっと待っててね」と言いつつどこかに行ったかと思うと、5分ほどで、「ちょうどストックがあってよかったわ」と、そこそこ大きな箱を持って戻ってきた。
 箱の側面には、中に入っているものらしき簡単なイラストと、TRANSCRIBERという商品名?と型番?が印刷されていた(※)

「これが私たち作業者の秘密兵器よ」

 それはカセットデッキが一つあり、「→LISTEN(再生)」「■STOP(停止)」「←←REW(巻き戻し)」「→→FF(早送り)」のボタン、ほかにトーンやスピードをコントロールするためのつまみがある。

***
※フリー素材もなく、私物も10年以上前に処分し、写真も残っていなかったので、画像を貼るのを諦めました。
どのような形状のものかお知りになりたい方は、「SONY BM-76 ステレオトランスクライバー」で画像検索してみてください。型番だけでも出ると思います。

◇◇◇

「さてさて、普通のカセットデッキにあって、コレにないものは何でしょーかっ?」

 山科さんが、少しおどけた調子で言った。

 そういえば、ボタンにプリントされている表示が全体に黒ばかりだ。
 普通なら赤い…

「あ、録音ボタンがない!」
「ご名答!このマシンは録音機能が必要ない…というより、間違って押しちゃったら事故案件だからね。お客様から預かったテープの音声を消しちゃったら大変でしょ?」
「なるほど…」

「そして、さらにこれっ」
 山科さんは、太いケーブルのついた黒い長方形――というには少し丸みと曲線のある、扇状のものを示した。
「これはフットスイッチ。本体のここに接続して、マシンを足で操作するときに使うのよ。ここで「再生/停止」ね。軽く踏むと「一時停止」になって…」

 停止と一時停止の何が違うかといえば、

「“一時停止”が「だるまさんがころんだ」の末尾の「だ」の瞬間で止まると仮定すると、“停止“は数秒巻き戻った地点で止まるから、先頭の「だ」のところから再生されるイメージね」と、“山科語録”と言いたくなるような親しみやすくて明快な説明をしてくださったのだけど、「ま、これは使ってみた方が早いわね」と、電源を入れて、私に踏むように促した。

 山科さんがセットしたテープには、なぜかエルトン・ジョンの“Goodbye Yellow Brick Road”という曲が入っていて、私が踏むたびに、エルトンの高音が行きつ戻りつした。

 マシンやフット自体の作動音は結構ガチャガチャとうるさく感じたけれど、ヘッドフォンを通して聞く分には、再生音の邪魔をするわけでもない。
 足で操作することで、当然両手が空く。操作に慣れるまではそれなりに時間を要するが、効率化には絶対必要な専用機だと力説された。
 
「そういえば、以前やってもらった講演録って、どうやって再生したの?」
「あー、職場で使ってるのを一時的に持ち帰ってました」

 そういえば録音ボタンを押しかけてしまうというヒヤリハットもなくはなかった。

「ごめんなさいねー。あなたはとっても優秀だから、何も考えないでお任せしちゃって。何事もなくてよかったわ」
「いや、ホントに…」

 ということで、その再生専用機を貸してもらうことになった。
 結構値の張る(7万円くらい)ものなので、作業者の買い取りは負担が大きいだろうと、山科さんが調達したものをレンタルしているのだそうだが、「これは中古品だから、とりあえず無料で貸すわ」と言われ、お言葉に甘えた。

 これをちょろい甘やかしと取るか、「期待されているからよくしてもらっているんだ」と取るかで、仕事の姿勢も当然変わる。
 ただ、割と大き目だったので、「運ぶの手伝うわ」と、車を出してもらったことは、さすがに甘やかしだった気がする。

「コヅカ ハ サイセイセンヨウキ ヲ テニ イレタ」

さーて、やるぞーっ。

◇◇◇

 そして家に帰ってから気付いたのだが。

 私は「机とイス」というものを持っていなかった。
 物を書いたりするときは、こたつやローテーブルだったりするから気付かなかったが、フットを操作するには、椅子に座って行うしかない。

 そういえば(内職詐欺も含めて)「テープ反訳者」とか「テープライター」養成のための講座とか、新聞折り込みや雑誌広告で結構見るけれど、大抵ぼやっとしたビジュアルイメージだなと気付いた。
 何かヘッドフォンつけてワープロらしきものを打っているような作業スタイル(音はどこから出ているのよ、これ…)。ラジカセが写っていたとしても手で操作しているし、下手したらフットコントールできるマシンなんて、ミシンくらいしか知らない人が作った絵面(えづら)っぽい。

 かくいう私も、恥ずかしながらフットスイッチというものを今日初めて知ったし、とある漫画(※)で保険計算の内職をしている女性が、足で操作する加算機を使っているのを見て「ほえー」と感心したのも割と最近のことだ。自分の身の回りにないものは、知らなくても当然ちゃ当然だけど。

***
※高野文子さんの『るきさん』1988年~92年、雑誌『Hanako』に掲載の後、1993年に単行本化。オススメの名作です。

◇◇◇

 頼れるお隣さん・創さんに相談したら、行きつけのリサイクルショップや家具屋さんを教えてくれた。
 で、「一緒に買いにいこうか?折り畳みのやつなら車で持ち帰れるかも」まで言ってくれたのだが、それは辞退した。
 ここでためらいなく「えー、いーんですかー♪」と乗っかれる性格だったら、何かと捗るのだろうが、2、3回強引にぐいぐい来てもらって、「じゃ、お言葉に甘えて…」が私のスタイルなので、我ながら面倒くさい。

▽▽

 創さんの店に近所の大学生グループが来たのをしおに退散し、いったん家に戻ってから、自転車でリサイクルショップに向かった。
 どこかの事務所の払い下げ品だというスチール机がびっくりするほど安く、ソレと高さ的にちょうどいいイスと合わせて5,000円。
 配達もしてくれるというので、その場で買って、翌日届けてもらうことになった。

 帰りはコンビニエンスストアに寄り、創さんのお気に入りのパスタソースを二つ買って、「助かりました、情報料です」と言って渡した。

「うわー、これ切らしてたんだ。ありがとうねー」
 と言いながら、いつものあの強面を少し崩した。よっぽど好きなんだなあ。

 (私こう見えて、ボロネーゼは結構得意なんだけど…ちゃんとトマトから作るし…)

 食べて褒めてくれたのは、「うまくいっていたころ」の博次――じゃない、萱間さんだけど、自分でも、いつもいい出来栄えだと思っていた。
 創さんにも食べてほしいなあ。厚かましいかなあ…。

「ミヨシちゃん、どうかした?」
「あ…はは。スパゲティっておいしいですよね」
「そうだね…?」

 いつかは――せめて地球が滅亡する前には、「特製ソースでご馳走しますよ」って言いたい。
< 14 / 30 >

この作品をシェア

pagetop