サハラ砂漠でお茶を
第6章 困った男

現場 その1


 山科さんからは割とコンスタントに反訳の仕事をもらっていたが、このたび、初めて現場に入ることになった。
「環境審議会、ですか」
「そう、再来週の水曜日。2時からだから、1時間前には入ってほしいの」
「それ、場所は…」
「…市役所なんだよね…」
「デスヨネー…」

 退職から半年、特に用事もないのでそもそもそちら方面に行くこともあまりなかった。
 10階建てのそこそこでっかい箱だし、行ったからって必ず博次(あいつ)とばったり会うってこともないだろうし、そもそも今どこの部署にいるのかすら知らない。
 市役所の事務職は、「10年の間に3回」くらいの間隔というか感覚で異動になったりする。
 扱う分野の異なるさまざまな部署を経験させて、総合職(ゼネラリスト)を育成するという意図らしいけど、よく分からん。

 録音設備の整った会議室で開かれるので、補助的に1台だけレコーダーを持っていくことになった。
「ちょっと重いけど、これ結構便利なのよ。電池も使えるしね」

 それは、紙でいえばB5判?ぐらいの大きさのものを横使いしたようなサイズ感で、ダブルカセットになっている。「XXX-8000」という機種名なので、山科さんは「ハッセン」と呼んでいるそうだ。

「リレー録音っていって、Aデッキが終わる5分前に…あ、時間は自分で設定もできるけど、Bデッキの録音が始まるから、途切れずに録音できるのよ」
「へー、お利口さんですね」
「で、BデッキのA面の録音が終わったら、今度はAデッキがオートリバースになって、B面から録音が始まるのね」

 つまり、A→B A→B A←B A←B というイメージらしい。
「なるほど」
「90分テープを2本セットしておけば、3時間何もしなくても途切れず録れるから、速記の方に集中できるでしょ」
「ですね――あ、でも、それ以上の長さになったら?」
「いや、さすがにそれ以上になったら休憩入るでしょ。そもそもミヨシちゃん、3時間もしゃかしゃか手動かすの平気?」
「ムリっす…」
「だよね。会議時間自体は3時間取ってあるけど、2時間くらいで終わる可能性も高いし、長くなりそうなら1時間半ぐらいで1回休憩入るから、心配ならそのとき1回テープ交換しちゃってもいいよ」
「あ、そうか」
「委員は全員で15人らしいから、2人に一つくらいの感じでこれ置いて、機械に接続してね」
「これは?」
「集音マイクだよ」
「これがマイクですか…」
 それは、縦10センチ、横5センチ(数値はテキトー)くらいの大きさの薄型のもので、ハッセンに接続して使うらしい。

「本当はテレビに出る人みたいなピンマイクをお一人お一人に付けるのが間違いないんだけど、金額もハードルも高いのよ」
 要するに、お一人お一人に「説明して」「ご理解いただいて」「付けていただく」というのが大変ということらしい。
「このマイクだって、割と性能がいいから、結構きれいに録れるんだよ。お茶の湯飲みをがちゃっと置いたり、資料をガサガサってやったりする音まで拾っちゃうのが玉に瑕だけどね」
「あー、ありますねー」
「あと、ブツブツ独り言言っている人がいたりね」
「ははは…」

 機材の扱い方を覚えるのも楽しい。
 たしか会議室の録音は、テーブルの内側に何本かスタンドマイクを置いて、そこから音を拾っていたはずだけど、あれよりもさらにきめ細かく音を拾ってくれそうで、期待大だ。

「このセッティング自体はそんなに時間要らないと思うけど、会議が始まる前にマイクテストと、あとは発言者の座り位置を確認しておくと、後の作業が楽だからね」
「それで1時間前ですか」
「そういうこと」

 この手の会議は勤めていた時代にも経験があり、慣れていたつもりだったけれど、考えてみたら、全く初めての人たちの顔と名前と声を完璧に見分け・聞き分けするのは難しいし、速記者席の場所によっては、背中しか見えない委員さんもいるかもしれないと言われ、さすがにビビってしまった。

「そういうのはちょっとした工夫でどうにかなるし、15人いても活発に発言する人はそのうち3、4人ってことが多いから、聞いているうちに声は覚えるかもね」
「そういうもんですか」

 まあ何事も経験と思うしかない。
 現場に出て書けば、反訳料以外に速記手当も出るのでおいしい。
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