サハラ砂漠でお茶を

或る夜の出来事 創視点


 小塚美由ちゃんの第一印象は「真面目すぎて面白い子」だった。

 昼飯用のパスタソースを温めている途中の来店だったため、俺がついつい「まいったな」なんて本音を言っちまったのに、嫌な顔一つせず、「食べ終わるまで待っています」ときたもんだ。

 もともと役所に勤めていたが、今は辞めて速記や会議録を作る仕事をしているらしい。
 俺にもサラリーマン経験はなくはないけれど、今は大分柔らかい仕事をしている。だから何となく住む世界が違うような気がしていたけれど、「できるだけ稼ぎたいから、空いた時間にバイトもしたい」ような話をしていた。

 自分のことをあれこれ話すタイプではないので、どんな事情があるのかは知らないけれど、何かお金が必要なのかと思ったら、「今後はひとりで頑張らなきゃいけないし」という気になることを言った。
 とてもいい子なのに、休みの日は近所の海岸を散歩したり、図書館に行ったりを楽しみにしていて、恋人らしき影が見えない。
(見える範囲での分析だから、見落としも大いにあるかもしれないが)

 別れた妻の両親で、今は自分の大家にも当たる吉田夫妻に相談したら、ミヨシちゃんにさりげなく単発の仕事を依頼するようになった。
 速記とか、ワープロを使ったりする「本職」は少ないが、「何でもまじめに一生懸命やってくれるから、お金を払うのが惜しくない」と、評判も上々のようだ。

 俺の娘のれいらの世話を頼んだときも、優しく誠実に対応してくれたようで、「れいらが“シッターさん”を大分気に入ったみたいだから、またお願いするかも」と、珍しく元妻直々に電話があった。

『ママたちからも聞いているわ。若くてかわいくて真面目な女の子ですって?』
「そうだな、とてもいい子だ」
『へええ。ま、いいけど』

 元妻は含みありげに電話を切った。

 確かに若い――俺より8歳も年下で――が、ちゃんと自立している大人の女性でもある。
 そして当店の卵サンドとコーヒーのファンだ。
 気の合う常連客程度の認識だった――はずだ。

◇◇◇

 そんな美由ちゃんが、ざっくり言うとストーカー被害に遭った。

 仕事で市役所に行ったとき、元同僚――というか付き合っていた男に後をつけられ、住んでいるところを特定されたらしい。

 そいつの勝手な言い分は、狭い店内で俺の耳にも入ってきた。
 美由ちゃんに「ひとりで生きていく」と言わせたのは、恐らくこの男だ。
 客でなければつまみ出したいくらいだったが、あのおっとりした美由ちゃんがさすがにキレて、コップの水をかけるという手段に出た。
 そんな修羅場、初めて見たので声が出そうになった。

 俺はテーブルをふきがてら、美由ちゃんの様子をうかがいに行ったら、彼女が泣き顔を隠そうとしているのが分かった。
 それを見ると、俺としたことが取り乱してしまい、つい胸元にぎゅっと抱きしめた。
 犬を怖がるれいらを「大丈夫だよ、怖くないよ」となだめる感覚だったと思う。美由ちゃんがひどく縮こまって見えたせいもある。

(うわ、やっちまった…)と思ったものの、今さら手を離すのも不自然に思え、それでいて何も言えない。

 美由ちゃんが「今晩だけでいいんです。私と一緒にいてくれませんか?」と、俺を見上げて言った。

◇◇◇

 あるいは美由ちゃんは気が動転して、自分の言っていることの重さが分からないのかもしれない。

「自分で言ってる意味分かる?どうなっても知らないよ?」

 からかうつもりで言った。
 それを聞いたら冷静になるかもしれない、と思ったのだ。
 しかし、その次の瞬間に、俺はそんな発言をしたことを死ぬほど後悔した。

「抱いてください…一回でいいです…」

 彼女は今、適正な判断ができていない。破れかぶれなのかもしれない。
 俺のからかいのせいで、こんな健気な子に、こんなことを言わせてしまった。

 今拒否したら、傷ついた彼女をさらに傷つけるかもしれない。
 からかった責任を取るため、俺は応じた。

「わかった――覚悟しろよ」

◇◇◇

 今夜だけはそばにいて、この子を一晩中抱いていなければならないという使命感のようなものを覚えた。

 いや、嫌らしい言い訳はもうやめよう。

 俺は彼女と寝た。
 添い寝程度の話ではない。あくまで男として、女である美由ちゃんを抱いた。

 彼女の部屋の同じべッドで寝入り、どちらが先か分からない状態で目を覚ましたとき、目が合った美由ちゃんは、照れ笑いを浮かべながら「おはようございます…」と言った。

 もともと好感を持っていた子とベッドを共にし、当然「思うところがない」と言ったらうそになる。

 俺は――美由ちゃんを「いとおしい」と思ってしまった。
 柄でもないから使うのをためらうが、恋に落ちたのかもしれない。

 ただ、そこに至るプロセスに難があり過ぎる。
 美由ちゃんにとってみたら、寂しさや不安を埋めるためだけの行為だったのかもしれない。
 要するに、相手は俺でなくてもよかったのではないか?

 睦言(むつごと)としての「好き」「すてき」みたいな言葉は交わし合った。
 しかしそんな言葉に実は大した意味はない場合もある。
 実際、結婚前や離婚後、割り切った関係の女性と寝たこともないわけではないが、行為に夢中になると割と出てきがちな言葉だ。

◇◇◇

 ふと初体験を思い出していた。
 思い通りにスマートには進まなかったが、大好きだった女の子と、言葉と行為でお互いをむさぼり合った、あの初めての経験。
 その女の子に、美由ちゃんの姿がかぶる。

 訳あって、彼女とはそれ一度きりだった。
 その後、元妻である理美と、友達付き合いの延長で男女の仲になり、結局訳あって別れ――今に至る。

 一夜明けた今、俺は…。
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