サハラ砂漠でお茶を
第8章 佐原の前妻

電話


携帯(スマホ)が当たり前。家電(いえでん)?何それおいしいの?」というタイプの若い方にはいま一つ通じにくい描写がありますが、「そういうもの」と思って読んでいただけますでしょうか(筆者より)

◇◇◇

 私は自宅では、電話に出ても決して自分からは名乗らない。
 一応ひとり暮らしの女なので、ちょっとした防犯対策のつもりで、だ。
 私に用事があるなら、「小塚さんのお宅ですか?」とそっちが聞けやって話である。

 いつだったか、名乗ろうとした矢先に『おい、おかめうどんさっさと持ってこい!』と怒鳴られたことがあった。
 すぐに間違い電話だと分かったけれど、とりあえず「どちらにおかけですか?」と聞くと、『はあ?ハマカゼ(浜風?)にきまってんだろっ。すっとぼけんのも大概にしろ!』とさらに怒鳴られた。
 おっかいなあ、話の通じにくそうな人だなあと思いつつ、「こちらは“ハマカゼ”ではございません」と言ったら、『だからとぼけんなって!』とさらに“追い罵倒”された。

 よほどそこで切ろうかと思ったけれど、またかかってきたら嫌だし…と考えてから、はっとしてこう尋ねた。

「あの、何番におかけですか?」
『だからっ、ハマカゼだって…』
「――ではなくて、番号です」
『あん?3・3・×の…』
 先方はお店のお品書きか何かを読み上げているらしく、「1・2・3・4」というふうに、電話番号を拾い読みした。市内局番(上3ケタ)の最後が1番違いだった。

「でしたら、うちとは番号違いですね。うちは…」
 と、うっかり言いそうになったんだけど、危ない危ない。こんなキレやすい人に番号を知られたらたまらない。
「とにかく、もう一度冷静におかけ直しになったください」
『は、お前何言って…』
 そこでガチャ切りしたので、その後どうなったかは分からないけれど、5分放置してもウチの電話は鳴る気配がなかったから、「ハマカゼ」さんに正しくかけられたのだと思う。
 電話のリダイヤル機能を使われて、もう一回罵倒されることも覚悟したので、とりあえず胸をなでおろした。

 間違い電話のほかに、どうやら私の番号は、割と最近まで別の業者(ひと)が使っていたもののようで、そちらでのミス電話もあったけれど、『じゃ、正しい番号教えてくださいよ』と言われたときは面食らった。関係者でもないのに知るかっ。

 ここに引っ越すとき、電話会社で「市内局番は3・3・yになります。4ケタの方はこちらから選んでください」って五つぐらい提示されて、個人的に覚えやすいと感じるものを選んだっけ。

 その番号が空いているから使えってことだったんだろうけど、それが空いてからどのくらい経っているかまでは考慮していないのかな?
 電話はまだいいとして、FAXで漬物の発注書が送られてきたときは、本当にどうしたものかと思い、「現在、この番号は個人が使っております。もう一度ご確認ください」と書いて返信したけれど、どっちみちこっちから送ったって履歴は残っちゃうんだよな…。

 結局、そこからの間違いFAXは来ないようになったけど、普通おわびぐらいしない?ま、もう関わりたくないからいいけどさ。

 何にしても、私は電話が苦手というか嫌いだ。
 最近は携帯電話も少しずつ持つ人が増えてきたけれど、まだまだ高いし、家にいることが多いので、あまり考えていない。

◇◇◇

 余談だけど。

 その電話の直後、創さんに「ハマカゼって知ってますか?食堂みたいなんですけど」と聞いたら、「ああ、知ってる知ってる。青林大学の近くにある食堂だよ」と教えてくれた。やっぱり近所だったようだ。
「濱かぜ」と書くらしい。
 文字起こし人の(さが)で、どんな固有名詞でも表記が気になっちゃうので確認した。

「安いし品数多いし、店主さんも気のいい人だ。学生にも人気あるらしいよ」
「なるほど…」
「で、濱かぜがどうかした?」
「あー、それがですね…」

 経緯を話したら、「美由ちゃんには悪いけど、ちょっと笑っちゃうね。前しか見えてないオッサンって結構いるからなあ…」だって。
 私も創さんに話したことで、少し心が軽くなった。

「多分買い物とか食事とかしたとき、値段聞かないでマン札出すタイプだな」
「あ、そういうのって“あるある”なんですか?」
「釣りは取っておいてくれたまえ、って言ってくれるお客なら大歓迎なんだけどね」
「ふふ」
「近所だし、今度一緒に食いにいこうか?夜は少し飲めるよ。刺身もうまいし」
「へえ、いいですねえ」

◇◇◇

 そして、今現在。
 私はそんな会話を楽しんだはずの創さんの顔を見られずにいる。

(ヤッチマッタ…)下品な言い方だけど、もうこの一言。

 萱間との修羅場を見られた恥ずかしさとか情けなさとか、いろいろで混乱していた私を、創さんは抱いてくれた。
 控え目に言って――もう死んでもいいってくらい幸せな気持ちになった。

 彼は大人で優しいから、私に同情してなだめようとしてくれたことは分かっている。

 同情からは新しい関係は生まれない。つまり、寝たからって恋人同士になれるわけではない。
(自分のためにも、「ないわけではない」って余地は残したいけど)

 それどころか、ここ数日は店に寄り付くのもはばかられるし、お店を閉めた後の創さんからの、「食事や飲みのお誘い」とかもない。

 いっそ行きずりの相手だったら、美しい思い出だけお守り袋に入れて持っていられるのに。
 すぐそばにいる大好きな人を避けている。
 いや、ひょっとして「避けられている?」

「ああ…もうっ」

 自分の軽率さが恨めしい。
 一夜の「慰め」と引き換えに、私は大切なものを失ってしまったのかもしれない。

◇◇◇

 金曜日の夜、そう深くない時間に電話が鳴った。
 まだ創さんのお店は閉店していないので、彼からではないだろう。

 大家さんからの土日の緊急バイトの要請かもしれない。
 幸い今のところ、きつい納期の仕事もないし、お手伝いできるかな…などと思いつつ、3コールで電話を取った。

「もしもし…」
『小塚美由さんですね?』
聞き覚えのない、高目の女性の声がした。
「はい、そうです」
『私は朝倉といいます』
「アサクラさん?」
名前にも覚えが――あれ、いや、あるな?

『れいらの母です』
「あ、はい。は、じめまして」
『ごめんなさいね、突然』
「い、え…」
『実は明日、主人と一緒に出掛けなくちゃいけなくなったんだけど――れいらを預かっていただけるかしら?』
「あ、あの…」

『両親たちからあなたのお話は聞いているし、れいらもあなたが大好きみたいだし、ぜひお会いしてみたいなと思ったのよ』
「あ、はい…」
『サハラのお隣の家に住んでいるのよね』
「…はい」
『急で悪いんだけど、明日の朝10時頃、れいらをそちらに連れていったらまずいかしら?』
「いえっ、あの――どうぞ」
『では、また改めて…』

 電話は「多分、かなり丁寧に受話器を置いたんだろうな…」ということが分かるような切れ方をした。美人の所作って感じ。

 創さんとのことで悶々と悩んでいるところに、創さんの元奥様から電話!
 いったい何の試練ですか? 神様。
 れいらちゃんを預かるのはもちろん大歓迎だけど、「パパのところに行こう?」って言われたら、どの面下げていけばいいんだよおっ。

 まあ、れいらちゃんがいた方が行きやすい、とも言えるけど。

 会ったら気まずいことは分かっているけれど、創さんに会いたくないわけではない。これも一つのチャンスかもしれない。

 そんなふうに前向きに考え直したら、「アサクラさん」が言った「サハラ」というのが、お店の名前なのか、それとも創さんをそう呼んでいるのか――そんな些末なことが気になり出した。
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