サハラ砂漠でお茶を

退職理由「失恋」


 ある日の昼休み、地下の売店で飲み物を買って帰ろうとしたら、長椅子のある休憩スペースで、博次が現在の部署の人たちと談笑していた。
 現職場の同僚の人たちにからかわれている中で、「萱間さんの奥さん、すっごくかわいいマタニティ服着てた」と後輩の女の子に言われて、「ああ――出産を終えた友達が譲ってくれたらしくて…」とか言って、顔をデレッと緩ませていた。

 何しろクリスマスケーキ(※ページ下部参照)なんて言葉が平気で使われていた時代でもあるから、20代後半の「お嫁さん」が、年齢的に少し焦っていたことがうかがわれる。
 というか、「このご時世、高卒で就職とかあり得ない」と、彼は卒業のタイミングに一度振られているとか言ってたもんな。バブルがはじけ、景気が冷え込み、高卒でも安定職についていたのは魅力的だったろう。

 まあ全部私の想像というか被害妄想みたいなもので、たしかなものは一つもないんだけど、「そんな女にあっさりひっかかった上、一度の過ちで済まなかった男」という目で彼を見てしまったら、さーっと熱が引き、本当にどうでもよくなったんだった。

 よし、では退職しよう。うん、そうしよう。

 職種が特殊なこともあるので、人事計画的にすぐ辞めるのもアレかと思い、年度末までは勤める前提で、上司に相談した。
 当然、説得されたし、「田舎に帰るのかい?」とも言われたが、言葉のあやとは思いつつ、瀬瑞だって田舎じゃんと、少しだけムッとした。
 私は「田舎」にはもう帰る家はない状態だったので、このまま残るか、再び上京するかだが、実際そこまで深く考えていなかった。
 ただ、あのしょーもない男が視界に入りがちなこの環境で働くのがキツいなと思っただけだ。

 こういうときって何と言ったらいいんだっけ?

「あの…詳しくは言えないのですが、ほかにやりたいことがあって…」

こうして私の翌年3月31日付での退職が決定した。

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クリスマスケーキ
12月25日(クリスマス)を過ぎたとたんケーキの価値が落ちることから、
婚活市場での「価値」の境目の年齢を「25歳」とする考え方。
25歳を過ぎて結婚しない女性を侮辱したり、
26歳以降、条件的に妥協する女性を揶揄したり、控え目に言ってろくでもない俗語。
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