サハラ砂漠でお茶を
第2章 議会のお仕事
初任者研修【前期】
私は一応、平静なつもりだったけれど、「失恋ハイ」っぽい状態だったことは否めない。
勢いで退職を決め、実際に職場を去るまでの半年の間に、「早まったかな」と軽く後悔したことが、全くないと言えばうそになる。
それなりにまあ、いいことも悪いこともあった、つまりよくある6年間の公務員生活だった。
◇◇◇
速記学校は実質的に2月に卒業した。
寮に置いてあった私物はしばらく学校で預かってもらい、体1つでいったん郷里に帰ったが、3月の初めには、瀬瑞市役所の初任者研修に参加するために転居することになっていた。
1カ月足らずしかなかったので、アルバイトで稼ぐにも、運転免許を取るにもいま一つ時間が足りない。
だから母のつくったご飯を食べ、洗濯をしてもらい、時には昼過ぎまで眠った。
時々は、地元に残った友人と会ったり、地方特有の2本立て上映館で映画を見たりと、「人生の春休み」を満喫した格好だった。
◇◇◇
学校のOBに当たる森山さんという30代の男性が、部屋探しを手伝ってくれた。
「職場から近い、若い女の子にぴったりのワンルーム」という基準だったようで、東京ほどではないにしろ、やや家賃が高目に思えたが、人任せにした手前、文句も言えない。
本来なら森山さんが採用後の教育係になるはずだったのだろうが、4月以降は国民健康保険の部署へ異動になってしまった。
速記士として議会事務局に10年以上勤めたが、何だかんだあって、速記の仕事を離れて他部署に行くことを、少し前から希望していたのだそうだ。
「まさか希望が通ると思っていなかったんだけど…そういうわけでね」
太い黒縁の眼鏡をかけ、色白で天然パーマで穏やかな雰囲気の森山さんが、申し訳なさそうな、しかしうれしさを隠し切れないような調子でそう言った。
実際、速記士を専任職員として雇う地方議会じたいが全国的に減っていたようだ。
さらに大先輩になると、全く違う部署で要職に就いている人も珍しくない。
私もいずれはそんなふうになるのかなと想像しつつ、その職として一銭もお金を得ていない段階なので、全くピンと来ていなかった。
◇◇◇
森山さんは、議会事務局での最後の仕事って感じで、部屋に案内してくれたり、引っ越し荷物の搬入を手伝ってくれたり、何かと親切にしてくださった。
荷物の搬入のとき、森山さんが「職場の後輩」ということで連れてきたのが博次だった。
「どうも。萱間博次です。4月からよろしくね」
博次は一般事務職で採用されていたので、入庁4年目となると、森山さん同様に異動する可能性もあったわけだけれど、運よく4月以降も続投だった。
全く初めての職場なので、やっぱり顔見知りが1人でもいると心強い。
中肉中背、男前過ぎず、真面目そうで、悪い印象はない。
恋愛感情とかそういうのはなく、「感じがいい人」だなと思った。
そもそも私は、それまで男性とお付き合いをしたことがなかった。
博次を男性として値踏みするとか、「アリかナシ」かをジャッジできるほどの経験値はなかったのだ。ただ、仕事仲間としていい関係が築ければいいなと、漠然と思ったにすぎない。
◇◇◇
初任者研修は2週間に亘り、市役所8階の研修室にて行われた。
座学中心だが、ホームヘルパーさんの仕事の補助、「ヘルパーさんのヘルパー」みたいなものもあったし、市内の施設をバスで回るという、小学生の遠足みたいな「授業」もあった。
地元の大学の先生が、瀬瑞の歴史や地名の裏話などについて話してくれた。
「あんまりおしゃれでキレイな地名のところは、実はもともとは埋立地だった――なんてところは珍しくありません。この辺だとあそこがどうとか具体的には言えないですが…まあ、察してください」
土砂崩れとか液状化とか、いざとなったら大変なことになるので、「将来おうちを建てるとき、ちょっと思い出してね」程度の、ぼかした感じの警告だった。
「どこがどうとは言わない」と言われても、もともと地元出身者がほとんどの研修生の口からは「うちのあたりやべえかも」とか「絶対あそこだよな」と、具体的な地名が飛び出していた。
私としては、音で言われても全く字が浮かばなかったので、帰りに書店でロードマップを買って、地図上から地名の漢字を拾い読みした。
そんなふうに休憩時間を過ごしていたら、「ドライブでも行くの?」と、気安い雰囲気の人たちに声をかけられた。中には採用試験のとき、控室で雑談を交わした人もいる。
そういえばあのときは、面接を終えて控室に荷物を取りにきたとき、「いや、あんなこと聞かれるなんて思ってなかったよ」と、やれやれという調子で話していた人がいた。
時は1988年10月。アメリカ第51代大統領選挙の目前だった。
「『ブッシュとデュカキス、どちらを支持しますか?』だってさ。考えたこともないっつうの」
ちなみに彼は「デュカキス」と答えたという。どう考えてもブッシュ優勢だからあえてそうしたらしい。
当時は株でもやっていない限り一般的ではない言い方だったろうが、いわゆる「逆張り」というやつだろう。
その答えが有利に働いたかどうかはともかく、とにかく彼は合格し、研修の場で、相変わらず明るく軽い調子で仲間たちとじゃれ合い、田舎から(東京を経由して)出てきた私を不愉快のない程度にいじっていた。
(すこーし時空を超えた言い回しになっちゃうけれど、「陽キャリア充大勝利」は世の習いなんだよね)
私はどちらかというと、大学新卒の年齢が近い人よりも、少し年上の社会人経験のあるような人と仲良くなった。
一般事務の人もいたし、現業職の人もいる。学歴も今までの経緯もさまざまで、お弁当の時間に楽しく雑談した。
自分の地元のことを聞かれると、「お米がおいしいところだよね?うらやましい」と食いついたのは、幼稚園児のお子さんがいるというK子さん。
ふっくらした人懐っこい笑顔の20代後半の女性で、春からは小学校の給食調理員として働くらしい。
給食センターも普及していたものの、自前の調理室で給食をつくる方式も健在だったし、調理員も市職として雇用されていた。
何となくだが、K子さんがつくる給食はおいしそうだなあと思った。
◇◇◇
研修は平日だけなので、実質10日間。わずかながら日当も出た。
それも4月の給料日より前に、人事課の女性職員が直々に封筒を持ってきて手渡ししてくれたので、思わぬ臨時収入に少し高揚した。
先輩職員や上司から、
「いいなあ。何かおごってよ」
「飲兵衛の主任が言うとシャレになんないっすよ。俺はパフェとかケーキでいいよ」
などと言っていじられた。
3月議会の残務処理をボチボチこなしている時期だし、入ったばかりの新人を受け入れようという和やかムードで、ひとしきりわっと盛り上がった後、いつの間にかみんな持ち場に戻り、少しずつ静かになって、何事もなかったかのような空気になる。
職場の雰囲気が明るいのは悪いことではないけれど、自分が話題の中心になるような空気は、気恥ずかしくて気まずい。
そして、そのぱぱっという切り替えには、さすがは社会人だと感心した。