サハラ砂漠でお茶を
初任者研修【後期】
初任者の後期研修は、入庁した年の10月に行われた。
山間部にある「青少年の家」で2泊3日。
研修室のいすと机は学校で使われるタイプのもので、大きな黒板が部屋の前と後ろにあり、どこか町の分校(にしては広いけれど)みたいな雰囲気だ。
2段ベッドが壁際にしつらえられた寝室は、当然のように男女別に割り振られたけれど、学校の修学旅行と違って、そこまで「監視の目」がきついわけではない。
「M子さん、男子部屋に行って、N君のベッドに潜り込んだって?」
「うわ、それはないわあ。あの子って男にモテてるってより、ただの男っかまいだよね」
「ああ、高校時代もそういう子っていたなあ…」
M子さんがいない朝食のテーブルで、ひそひそ噂話をする人がいる。
食堂フロアは意外と広いので、本人はよほど近くにいない限り多分聞こえてはないだろうが、あんまりそういう話は人前でしない方が…と思いながらも、面倒なので黙って聞いていた。
M子さんは四年制大新卒でN君は高卒。年齢は4歳ほど差があるが、同期の飲み会で楽しそうに盛り上がっているのはよく見かけるので、仲がいいのはみんな知っていた。
ほかの人の目もあるところで「ベッドに潜り込んだ」らしいから、ちょっとしたおふざけでしかなく、特に色っぽい展開になったわけではないのだろう。
どちらにしても、全く興味がなかった。
というよりも、この研修の日程自体を割と恨めしく思っていたので、(あー、早く終わんないかなあ)としか考えていなかった。
むしろ、たまたま同時期に研修合宿をしていたとある民間企業の人たちの目が痛かった。
男性ばかりのその職場では、我々の温い活動を後目に、結構な「肉体と精神の鍛練」を施されていたようで、「市役所の連中、調子乗りやがって。やつら酒まで持ち込んでんぞ?」という声がそれとなく耳に入ったのだ。
少なくとも私の同室は地味でおとなしい人ばかりだったし、そんな事例はなかったから、真相は分からないけれど、学生ノリでキャッキャウフフとはしゃいでいる(ように見える)さまが、目障りであることは間違いなかったようだ。
◇◇◇
私はそのとき、もう博次と付き合い始めて半年近く経っていた。
その頃博次は、地方議会事務局職員の研修のために東京にいた。
私も本当は、その研修に参加する予定だった。
議会職員研修の方が、より自分の専門分野には役に立つし、最終日には建設途中だった新宿の東京都庁の見学も予定されていた。
とはいえ、まあいろいろとしがらみがあるようで、「初任者研修に出るように」という上司命令で、私は青少年の家行きとなった。
あと2日日程がずれていたら、両方参加できていたのにと思うと、本当に悔しくてたまらない。
できかけの都庁の見学も楽しみだったし、(別に風紀を乱すようなことをするつもりはなかったけれど)博次と一緒に出張できたのに。
しかも携帯電話もろくに普及していない時代だから、研修期間中は連絡を取ることもままならなかった。
お互いの研修が終わった後の週末、甘党の博次がお土産に買ってきた都会のおいしいお菓子を食べながら、茶飲み話で思い切り愚痴ったのは言うまでもない。
「大変だったね。こっちは結構面白かったよ」
「あーあ、やっぱり行きたかったなーっ」
「それこそ完成してから東京に旅行しない?」
「都庁っていうより、完成する前っていうのが見たかったんだよね」
「そういうもんかね……。ま、気を取り直して。こっちのガレットもイケるよ」
新宿の都庁開庁は1991年4月だった。
そのときは、「少なくとも彼は、そのときも私と一緒にいてくれるつもりなのね」などという卑屈な乙女発想すらなく、ずっと彼と一緒に過ごすのを、食事や日々の業務レベルの当たり前だと思っていた――ような気がする。
博次はその後、1990年4月1日付で他部署に異動になったけれど、私のひとり暮らしの部屋は、彼のもう1つの家的な存在にもなっていたので、職場が別々になり、生活時間が微妙に違っても、そこまでの不都合はなかった。