🕊 平和の子 、ミール🕊  ~新編集版~
「不曲さん」
「えっ?」
 同僚の声で今に戻った。
「今夜空いてる?」
 夕食というか、飲み会の誘いだった。
「もちろん」
 酒を愛する不曲に断る理由はなかった。
 それに、飲まずにはいられなかった。
 ロシアのウクライナ侵攻以来、イライラが続いているのだ。
 睡眠を得るためには酒の助けを借りるしかなかった。
 
 不曲と同じ30代半ばで総務を担当する女性職員が連れて行ってくれたのはお洒落なイタリアンレストランだった。
 スプマンテ(イタリアのスパークリングワイン)で乾杯したあと、アンティパスタ(前菜)の盛り合わせに舌鼓を打った。
 カプレーゼ、魚のカルパッチョ、タコとセロリのサラダ、プロシュットを巻いたグリッシーニ、ブルスケッタ、フォルマッジョ(チーズ)、野菜のトマト煮込みなど、お馴染みのものばかりだったが、スプマンテとの相性が抜群で、あっという間に1本が開いた。
 
「どうする? 同じものにする、それとも」
「赤にしましょ」
 不曲は迷わずトスカーナ地方のワインを選んだ。
 滑らかな舌触りにもかかわらず、ピュアな果実感があるのが気に入っているワインだ。
 それにリーズナブルというのも大きなポイントだった。
 高いものがおいしいのは当たり前だが、そんなものを飲むのは富裕層に任せておけばいい。
 庶民にとって大事なのは、いかに安くてうまいものを探し出して飲むかなのだ。
 
 などと考えていると、ワインを運んできたソムリエが優雅な仕草でグラスに注いだ。
 それをスワリングして鼻に近づけると、なんとも言えないフルーティーで甘い香りに包まれた。
 口に運ぶと想像以上のコクを感じられたので、思わず「う~ん」と声を出してしまった。
 ソムリエに笑みを返して軽く顎を引いてからグラスを置いた。
 
「おいしいわね」
 同僚も気に入ってくれたようだ。
 しかし、お酒と料理を楽しんだのはそこまでだった。
「ところで事務総長のこと、どう思う?」
 不曲と似たところのある同僚が不満を口にした。
 それは国連で働く者にとって避けられない話題であり、黙っているのが難しいものであった。
「うん、私もがっかりしているの。どうしてモスクワへ行かないのかしらね」
 体を張ってプーチンと対峙(たいじ)しなければならないのに、国連ビルから出ようとしない事務総長にイライラしていた。
 フランスの大統領やドイツの首相がモスクワへ何度も足を運んでいたが、事務総長が国連ビルを出ることはないのだ。
「ニューヨークでいくら叫んでもプーチンには届かないのにね」
 同僚の苦々しい声を聞きながら、3月14日に発した事務総長のメッセージを思い浮かべた。

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