🕊 平和の子 、ミール 🕊 【新編集版】
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 深い森の中に濃い(もや)が立ち込めていた。
 静寂が支配し、生き物の気配は感じられなかった。
 葉音すら聞こえなかった。
 
 突然、音が響いた。
 甲高い音だった。
 その音に導かれるように靄が動き出し、モーセが海を開いたように一本の道が現れた。
 
 その道の先に草むらがあり、そこに小さな体が横たわっていた。
 生まれたばかりだろうか、裸の赤ん坊が泣いていた。
 その傍には白い髭を長く伸ばした老人が立っていた。
 その人はしばらく赤ん坊を見つめていたが、あやすためか、腰を落として手を差しのべた。
 抱き上げると、その子に向かって語り始めた。
 
「赤子よ、父と同じウラジミールという名を持つ赤子よ、今から話すことをよく聞きなさい。
 例えそれがどんなものであろうと耳を背けてはなりません。
 なにしろ、今から話すのはお前の人生そのものだからです」
 すると、赤ん坊は泣き止み、小さな両の手を伸ばして老人の(ひげ)に触れた。
 その途端、愛らしい笑みがこぼれた。
 両頬にはえくぼが浮かんでいた。
「赤子よ、お前が生まれた日のことを教えてあげよう。
 1952年10月7日という日を覚えておきなさい。
 それがお前の生まれた日だからだ。
 場所はレニングラード。
 そのとき両親は共に41歳だった。
 お前は第3子だったが、2人の兄はこの世に存在していなかった。
 一人は生後わずか数か月で、もう一人はジフテリアに(かか)って天に召された。
 そのためお前は一人っ子として育つことになった。

 お前の家は貧乏だった。
 酷いアパートで暮らしていた。
 お湯も出ず、風呂もなく、ネズミが走り回るようなところだった。
 だから家の中に居場所はなかった。
 通りに出て遊ぶしかなかった。
 しかしそこは力が支配する世界だった。
 常にもめ事があり、つかみ合いの喧嘩(けんか)があり、最後に勝つのは力の強い者だった。
 弱い者は虐められるだけだった。
 そんな中、体が小さかったお前は通りで大きな顔をするためにはどうすればいいか考えた。
 考え続けた。
 その結果、格闘技を習得する必要があることに思い至った。
 一番になるにはそれしか道がなかったからだ。
 早速ボクシングを習い始めた。
 しかし、すぐに鼻を折られてしまって続けることができなくなった。
 次はサンボを習い始めたが、最終的に辿り着いた柔道こそが自分に合っていると確信した。
 相手の力を利用して投げ飛ばせる技の魅力に惚れ込んだのだ。
〈柔よく剛を制す〉という考え方は自分に合っているし、〈力こそが正義〉という環境の中で生き残っていくにはこれを習得するしかないと思い込んだのだ。

 ストリートファイトと柔道から学んだのは3つのことだった。
〈力が強くなければならない〉
〈何がなんでも勝つ〉
〈相手を徹底的にやっつける〉
 それは生涯を通じてお前の指針となった。

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