瞳の向こうに
このままでいい
彼が、彼女の前から走り去ってから数日が過ぎた。
キャンパスに向かう絵筆の手を止めた彼女は、
時計の針を確認するとおもむろに窓を開けた。
ガラガラガラ……。
少し湿ったアスファルトから視線の先をゆっくりと花壇に向けると、鞄をさげた彼が
彼女の部屋を見上げていた。
彼女は、驚きより先に彼に声をかけた。
「どうしたの?」
「この前は……置き去りにしてしまってごめん……」
彼がすまなさそうに言った。
「別に……いいよ。気にしてないから。
それより……あなた……」彼女が呟いた。
「バレちゃったかな……俺のこと」
「うん、ホストじゃなかった……」
彼女が微笑んだ。
「ねぇ、珈琲……」
「珈琲?」
「以前、たまに珈琲飲みに来ていいって」
「あ、そうだったけど……」
「いいかな?」
「え? 今?」
「うん……」
「油絵の具の匂いが充満してるけど」
「知ってる……」
二人は互いに微笑んだ。
彼女が二階の窓辺から姿を消すのが見えると、
彼は嬉しそうにはにかんだ表情を浮かべ建物の中に入って行った。
コト……。
彼の目の前にマグカップに注がれた珈琲が置かれた。
「どうぞ……」
「ありがとう、いただきます」
部屋の中央に置かれた丸テーブルに向き合って座るふたり。
何を話していいか、わからないような表情をする彼と彼女間に流れる沈黙。
「あ、あのさ……」
最初に彼が言葉を発した。
「え? 何?」
「俺……俺の職業、俳優……なんだ。まだ駆け出しの新人だけど……」
「知ってる。今、雑誌やCM、映画、ドラマにひっぱりだこの超売れっ子……」
「隠してるつもりはなかったんだ。君、本当に俺のこと知らないみたいだったから」
「そうだね……この部屋テレビないし、私も普段あんまり雑誌とか読まないから、
正直、あの夜まであなたのこと知らなかった」
「そうか、だからか……」
彼が呟いた。
「何?」
「俺は、君とこうして過ごす少しの時間に安心と安らぎを感じていたんだ。
ほら……今、この瞬間(とき)も……俺のことを知らない君とだから、本当の自分で
いられるんだって。
それが、今の自分にとって最高の癒しで、唯一、
素の自分でいられる場所がここなんだろうなって。
互いの名前も職業も何も知らない者同士だから、
いいのかなって……」
彼の言葉を聞いた彼女も、
「そうだね、互いのことを知らないからこそ、
目の前の時間だけを共有できて、
一喜一憂することもできるのかもしれないね。
いいんじゃないのかな、互いのことを
知らない関係でも……このままでいいんじゃないかな」
「互いのことを知らない関係でも?」
「そう、私はこれでいい、このままでいいって思う」
「それは、特別な関係ではないってこと?」
「そういうことになるかもね。特別な関係は、
私にとってもあなたにとってもいつか重荷になる日がくるかもしれないでしょ?」
「そんなことないよ」
「ふふふ、そうかな?」
彼女が微笑んだ。
その夜、彼女は俺の名前を一度も呼ぶことはなかった。
そして、俺も彼女の名前を聞くことはなかった。
このままでいい……
今のままがいい……
そして、俺たちは……
『今を満足しようとする』だけの、
互いのことを知ることをしようとしない関係を続けていった。
キャンパスに向かう絵筆の手を止めた彼女は、
時計の針を確認するとおもむろに窓を開けた。
ガラガラガラ……。
少し湿ったアスファルトから視線の先をゆっくりと花壇に向けると、鞄をさげた彼が
彼女の部屋を見上げていた。
彼女は、驚きより先に彼に声をかけた。
「どうしたの?」
「この前は……置き去りにしてしまってごめん……」
彼がすまなさそうに言った。
「別に……いいよ。気にしてないから。
それより……あなた……」彼女が呟いた。
「バレちゃったかな……俺のこと」
「うん、ホストじゃなかった……」
彼女が微笑んだ。
「ねぇ、珈琲……」
「珈琲?」
「以前、たまに珈琲飲みに来ていいって」
「あ、そうだったけど……」
「いいかな?」
「え? 今?」
「うん……」
「油絵の具の匂いが充満してるけど」
「知ってる……」
二人は互いに微笑んだ。
彼女が二階の窓辺から姿を消すのが見えると、
彼は嬉しそうにはにかんだ表情を浮かべ建物の中に入って行った。
コト……。
彼の目の前にマグカップに注がれた珈琲が置かれた。
「どうぞ……」
「ありがとう、いただきます」
部屋の中央に置かれた丸テーブルに向き合って座るふたり。
何を話していいか、わからないような表情をする彼と彼女間に流れる沈黙。
「あ、あのさ……」
最初に彼が言葉を発した。
「え? 何?」
「俺……俺の職業、俳優……なんだ。まだ駆け出しの新人だけど……」
「知ってる。今、雑誌やCM、映画、ドラマにひっぱりだこの超売れっ子……」
「隠してるつもりはなかったんだ。君、本当に俺のこと知らないみたいだったから」
「そうだね……この部屋テレビないし、私も普段あんまり雑誌とか読まないから、
正直、あの夜まであなたのこと知らなかった」
「そうか、だからか……」
彼が呟いた。
「何?」
「俺は、君とこうして過ごす少しの時間に安心と安らぎを感じていたんだ。
ほら……今、この瞬間(とき)も……俺のことを知らない君とだから、本当の自分で
いられるんだって。
それが、今の自分にとって最高の癒しで、唯一、
素の自分でいられる場所がここなんだろうなって。
互いの名前も職業も何も知らない者同士だから、
いいのかなって……」
彼の言葉を聞いた彼女も、
「そうだね、互いのことを知らないからこそ、
目の前の時間だけを共有できて、
一喜一憂することもできるのかもしれないね。
いいんじゃないのかな、互いのことを
知らない関係でも……このままでいいんじゃないかな」
「互いのことを知らない関係でも?」
「そう、私はこれでいい、このままでいいって思う」
「それは、特別な関係ではないってこと?」
「そういうことになるかもね。特別な関係は、
私にとってもあなたにとってもいつか重荷になる日がくるかもしれないでしょ?」
「そんなことないよ」
「ふふふ、そうかな?」
彼女が微笑んだ。
その夜、彼女は俺の名前を一度も呼ぶことはなかった。
そして、俺も彼女の名前を聞くことはなかった。
このままでいい……
今のままがいい……
そして、俺たちは……
『今を満足しようとする』だけの、
互いのことを知ることをしようとしない関係を続けていった。