瞳の向こうに

ふたりの時間

 いつからだろう?
 小さな夢が現実となり……
 大きな夢が叶った瞬間……
 人は、その向こうに何をみるのだろう。

 いつからだろう?
 小さな夢だけを追い、
 それだけで満足する日々。
 大きな夢から目を背けるようになったのは。
  俺の……私の……瞳には今、
何が映っているのだろう?
 サラサラサラ……とスケッチブックをなぞるクロッキー鉛筆の音。
 その音にハッとする彼……。
 「しっ、そのまま……動かないで」
 スケッチブックに視線を注いだままの彼女が呟いた。

 「俺を、描いてるの?」
 「そう……」
 鉛筆の動く音の規則性に彼は、そっと耳を傾ける。
 「人物画は描かないんじゃなかったの?」
 「うん、そうだけど……」
 「どういう風の吹き回し?」
 「たまにはいいかな……って思って」
 「そうか……」
 「あ……ほら動かないで」
 「ごめん、ごめん。モデルって難しいな」
 「モデルもやってるんじゃないの?」
 「俺のは、動くモデルね。静止じゃないの」
 「そう……」
 「本当に、その辺興味ないんだね」
  彼が呟いた。
 「できた……」
 満足そうな笑みを浮かべた彼女が言った。

 彼の目の前に差し出されたスケッチブックには、
頬杖をついた彼と窓の向こうに微かに見える通り沿いの
ビルの断片。
 澄んだ瞳が印象的な人物画、その瞳には何かが映し出されているような感じがした。

 「ねぇ、俺の瞳の中に何か映ってる気が
するんだけど……」
 彼が彼女に質問をすると、彼女は微笑みながら、
 「これはね、観た人が想像できるように描いたの。
 観る人が想像したありとあらゆることが映ってるの
かもね……」
 「おお~、流石、芸術家」
 「ちょっと、茶化さないでよ」
 「茶化してなんかないよ。ね、この絵貰っていい?」
 「デッサン画だよ」
 「いいんだよ。これで。サインして……」
 彼は、スケッチブックからデッサン画を外すと彼女の前に差し出した。

 2024・4.15……と右下に書き込まれた用紙を大事そうに鞄の中に入れた彼が優しく微笑むと、
 「ありがとう。一生、大事にするよ」
 と呟いた。
 「ふふふ、大袈裟……」
 彼女が微笑んだ。

 夜も更け、彼が建物から出て来ると、二階の窓際に立つ彼女に向かって手を振り、
 「おやすみ」と言った。
 「おやすみなさい」
 彼女も片手を振りそう答えた。

「最近、調子いいみたいね。なにか変わったことでも
あったのかしら?」
 スーツ姿のマネージャーが彼に声をかけた。
 「そうですか? そうかもしれないですね」
 優しく微笑む彼がそう呟いた。

 「まぁ、公私ともに気持ちが安定しているのならそれでいいわ。最近のあなたを見てると
こっちまで頑張ろうって気持ちにさせられる。
 あなたのその魅力の原動力は何なのかしらね?」

 「さぁ、なんでしょうかね?」
 と彼が微笑んだ。

 「オーナー、それ本当ですか?」
 彼女の顔が綻んだ。
 「ああ、本当だよ。新人賞おめでとう。今の君なら胸を張って何にでも挑戦できるんじゃ
ないか? どうだ? 思い切って師匠のもとに飛んで行くのは……どうせ、今住んでる
建物老朽化が進んでもうすぐ取り壊されるんだろ? 
 いい機会だと思うんだけどな……」
 嬉しそうな顔のオーナーが彼女に告げた。

 「決まったわよ! 決まった! おめでとう。長編映画のキャストに、新人から異例の大抜擢! 
 全編海外ロケだって。長期海外ロケになるから、
英会話とか稽古もろもろでまた忙しくなって、しばらく
日本を離れることになるけど……
よくこここまで頑張ったわね」
 マネージャ―をはじめ彼を支えてきたスタッフが
彼の今までの努力に涙を浮かべていた。
 「ありがとう……ございます。マネージャ―さんや皆さんのお陰です。俺、これからも頑張ります」
 彼は深々と頭を下げた。

 カチカチカチ。
 時計の針が午前零時をさした。

 彼女が窓際に歩み寄ると、窓を見上げる彼の姿に彼女は窓を開ける。
 ガラガラガラ……と辺りに響き渡る音。

 「こんばんは、久しぶり。今帰り?」
 「ああ、やっと解放されたよ」
 「流石、有名人、お忙しいですね」
 彼女が笑った。
 「茶化すなよ……珈琲飲みに来た」
 彼がそう呟いた。
 彼の言葉に彼女は無言で頷くと、ニコッと微笑んだ。

 コト……。
 いつものように、彼の前に差し出される珈琲が注がれたマグカップを手に取ると、
美味しそうに口にする彼。
 「あ~、旨いな」
 と呟き安堵の表情を浮かべる。

 そんな彼の表情を見つめる彼女も、不思議と安らぎを感じていた。

 誰も知らない、彼と彼女のふたりだけの束の間の時間が、今夜も都会の片隅でゆっくりと
流れていく。

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