揺れる心静かな夜

病魔1

病魔1

還暦を目前に控えた足立郁人は、書斎の窓から見える夕焼けをぼんやりと眺めていた。妻の瑠美とは結婚して二十年が経つが、何故か彼女との思い出が霧の中に消えてしまったかのように、ぼんやりとしている。思い返しても、かつての彼らにあった情熱や笑顔は、すでに郁人の中から消え去ってしまっているのだろうか。代わりに、ふと頭に浮かぶのは半年前に食事を共にした田所優香の顔だった。彼女と交わした何気ない会話、そしてその時感じた何とも言えない感覚が、しつこく彼の心に居座っている。その夜、リビングから妻の苦しげな声が聞こえてきた時、郁人は思いがけない感情に襲われることになる。瑠美の顔が真っ赤に染まり、まるで閻魔様のような厳しい表情で郁人を見つめた。普段なら、その形相にどこか怖さを覚えそうなものだが、今日は違った。彼女の声はかすれ、明らかに熱があるようだった。
「どうしたんだ?大丈夫か?」郁人が問いかけると、瑠美は弱々しく首を振り、ソファに崩れるように座り込んだ。郁人が慌てて体温計を手に取ると、数値は38度を軽く超えていた。瑠美は元々丈夫な体質で、滅多に熱を出すことはなかったはずだが、ここ一年ほどで体調を崩すことが増えたのが気にかかる。
「病院に行こう」と、郁人は決意したように言い、急いで車のエンジンをかけた。瑠美を抱き上げ、できるだけ優しく助手席に座らせる。彼女の体は驚くほど熱く、いつも冷静だった郁人の心にも、じわじわと不安が広がっていく。車内の静寂の中、瑠美の浅い呼吸の音が響いていた。郁人は無言でハンドルを握り締めながら、胸の奥で何かが揺れ動くのを感じていた。それは、忘れかけていた過去の記憶と、今この瞬間の現実が交錯する瞬間だった。
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