揺れる心静かな夜

病魔3

病魔3

瑠美の診断結果はすぐに出た。医師から「コロナ感染です」と告げられると、郁人はしばらく言葉を失った。事態は想像以上に深刻で、彼女はすぐに集中治療室へと移されることになった。看護師たちがテキパキと準備を進める中、郁人はその場に立ち尽くしていた。集中治療室に運ばれる瑠美の背中を見送りながら、郁人は重苦しい胸の内をどう整理していいのか分からなかった。妻が命の危機にさらされている今、自分が本当にすべきことは何なのか。そんな状況でふと頭に浮かんだのは、先ほどの電話――田所優香の存在だった。
「こんな時に…優香に連絡を取るべきだろうか?」郁人は心の中で問いかけた。彼女の声を聞いたことで、一瞬だけでも現実から逃れたいという気持ちが湧き上がったのは事実だ。しかし、その考えが同時に、深い後悔を伴って彼を苦しめた。今、瑠美は命の危険と向き合っている。それなのに、自分は他の女性の存在に心を揺さぶられている。そんな自分が許せないような気がした。だが、優香との関係が、郁人にとってただの逃避ではないという思いも、どこかに残っていた。郁人はスマホを手に取り、優香の名前をタップしようとしたが、結局そのまま画面を閉じた。今、優香に連絡を取ることは違う――そう自分に言い聞かせたのだ。
「まずは瑠美だ」と、郁人は決意したように息をついた。彼女が目を覚ましたとき、何を思い、どんな言葉をかければいいのかはまだ分からない。しかし、今はただ彼女の回復を祈り、そばにいるしかなかった。

集中治療室に入る直前、郁人は瑠美の手をそっと握った。思ったよりも力強く、固く握り返してくる彼女の手に驚き、同時にその小さく湿り気を帯びた感触が、急に胸の奥を締め付けるような懐かしさを呼び起こした。その手は、長年の暮らしの中で、共に積み上げてきた時間の重みを感じさせるものだった。郁人がかつて思い描いた情熱や若さは、今やその手にはないかもしれないが、そこには確かなぬくもりがあった。ふと、田所優香のことが頭をよぎる。数ヶ月前に彼女の手を初めて握ったとき、その感触は瑠美のものとはまるで違っていた。優香の手はしっかりとした肌の張りがあり、どこか冷たく、現実的な硬さを持っていた。それは彼女の若さや、郁人にとっての新鮮な魅力を象徴していたかもしれない。しかし、今こうして瑠美の手を握っていると、その違いが妙に鮮明に感じられた。
「もし、優香と瑠美が同じ年齢だったら、どちらを選ぶだろうか?」と、郁人の脳裏に不意に浮かんだ問いが、自分でも驚くほど自然に浮かび上がった。だが、すぐにその答えが自分の中にあることに気づいた。もし両者が同じ年齢だったなら――いや、今のままでも、彼はきっと瑠美の手を選ぶだろう。この湿り気を含んだ小さな手、彼女との積み重ねた時間が詰まった手は、どれほど変わろうと郁人にとって唯一無二の存在なのだ。
「瑠美、頑張ってくれ…」郁人は心の中で祈り、もう一度強く彼女の手を握った。その瞬間、彼女のまぶたが微かに動いたように見えたが、すぐに看護師に促され、彼はその手を離さざるを得なかった。集中治療室の扉が閉まり、郁人はその場に立ち尽くしながら、これからどうするべきかを考えずにはいられなかった
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