揺れる心静かな夜

病魔4

病魔4

郁人は医師に呼ばれ、モニターに映し出された瑠美のレントゲンを見たとき、血の気が引くのを感じた。肺は真っ白に染まり、まるで霞んでいるかのようだった。主治医は静かに説明を始め、「肺がほとんど機能していない状態です。このままではいつ命が尽きてもおかしくありません」と告げた。その言葉が頭に響く中、郁人は自分がどこか夢の中にいるような感覚に陥った。これが現実なのか?瑠美が、本当にそんな危機的な状況に陥っているのか?信じがたい思いだった。
医師と少しの会話を交わした後、郁人は病院を出て家に戻ることにした。何かしなければならないことがあるような気がしたが、具体的には何も思い浮かばない。ただ家に帰り、ひとまず落ち着こうと決めた。家に着くと、空気がどこかひんやりしていて、寂しさが一層強まった。玄関のドアを閉め、靴を脱ぐと、その瞬間にスマホが再び鳴った。画面を見ると、田所優香の名前が表示されていた。
「明日、ドライブ行かない?」
彼女の明るい声が、先ほどまでの重苦しい空気を一瞬にして変えた。しかし、それは同時に違和感を覚えるものでもあった。瑠美が今まさに生死の境をさまよっている最中、郁人にそんな誘いに応じる余裕があるはずもなかった。
「今は…無理だ、妻が危険な状態なんだ」と言いかけたが、言葉が詰まった。優香の存在が、現実から逃避したいという郁人の欲望を刺激していることを、彼は自覚していた。だが、そんな自分が許せない。郁人は少しの間、スマホを手にして黙っていた。そして、しばらくしてから深い息をつき、短く答えた。
「ごめん、今は無理だ。瑠美が…危ないんだ。」
優香は一瞬、言葉を失ったようだった。彼女の声が少し沈んで、続けてきた。「そう…それは本当に大変ね。何かあったらまた連絡して。待ってるから。」
電話が切れると、郁人はスマホを机の上に置き、深い溜め息をついた。今、彼が考えるべきは優香のことではなかった。頭の中ではっきりしていたのは、瑠美の無事を祈ること、そして彼女のそばにいること。それだけだった。時計の針が0時を指した瞬間、郁人は不意にスマホを手に取り、田所優香の名前を探し出した。躊躇いがあったはずなのに、指は自然と動き、通話ボタンを押していた。
「もしもし?」優香の声は眠たそうだったが、すぐに彼の声を聞いて目を覚ましたようだった。「どうしたの?」
郁人は短く深いため息をついた後、言葉を選んだ。「これから、ドライブに行こう。」
優香は一瞬、驚いたような沈黙を見せたが、すぐに少し笑い声を漏らした。「今から?深夜だよ?大丈夫なの?」
「今だから行きたいんだ。どこかに出ないと…頭がおかしくなりそうで。」郁人の声には、焦燥感と逃避の入り混じった切実さが滲んでいた。しばらくの沈黙の後、優香が返事をした。「わかった、迎えに行くよ。どこで待ち合わせる?」
郁人は窓の外を見ながら答えた。「家の前で待ってるよ。」
電話を切ると、彼は窓辺に立って外を見つめた。瑠美が集中治療室で命の危機にある中、自分は何をしているのか――その疑問が胸の奥でこだまする。それでも、郁人は部屋を出て靴を履き、静かに家のドアを開けた。涼しい夜風が彼の顔に当たり、わずかに心が静まったような気がした。しばらくすると、遠くに車のライトが見えた。優香の車だ。彼女が近づいてくるにつれて、郁人は逃げるように車に向かって歩き出した。助手席に乗り込むと、優香は微笑んで彼を見たが、その目には少しの不安が垣間見えた。
「行きたい場所、ある?」優香が軽く尋ねたが、郁人は首を横に振った。
「どこでもいい。ただ…遠くへ行こう。」
車は静かに夜の街を走り出した。
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