アイドルに推された私  仕事の依頼主は超人気者

スタートライン

 「よ~い、アクション」と監督の伊藤の声が稽古場に響き渡る。
 今日は、対面での稽古。唯と季里也ふたりが即興で自由に芝居をするのが今日の課題。
 季里也が唯の前に立つと二人は見つめ合う。
 季里也に見つめられる唯。
 ここからが、即興の芝居となる。季里也の手が唯の頬に優しく触れた。
 唯は、季里也の表情を見ると、彼が進めていきたい芝居の方向性を理解する。
 自分の頬に触れられている季里也の手に自分の手を重ねると、季里也を見つめる唯。
 季里也の瞳の中に自分が映り込んでいる姿を確認した唯は、そのまま季里也の胸の中に顔をうずめた。
 そんな唯を季里也は思わず抱きしめた。
 抱き合う二人……。
 「カット……」と伊藤の声がかかる。
 「季里也君? カットの声、かかってるよ」唯が季里也に言った。
 唯から離れようとしない季里也にバシッ……と彼の頭を叩く音がした。
 「あてっ、痛て~な」季里也が唯から離れた。
 「ちょっと 季里也、いつまでやってんのよ! 唯ちゃんが困ってるしょ」
 呆れ顔で水月が言った。
 「ああ~ごめん、ごめん、つい……」頭をかく季里也。
 「少し、休憩にするか……」と伊藤が言った。
 「はい、じゃあ私、お茶入れて来ますね」
 と言うと唯は稽古場から伊藤と二人で出て行った。
 稽古場に残る季里也と水月。
 季里也が水月に言った。
 「なぁ……水月、さっきのわからなかった? あんな表情見せられたら、本当にマジで
抱きしめたくなるよ……。俺、秒で唯ちゃんの世界に引き込まれちゃった。あれ、やばいよな」
 「うん……あの芝居は自然体だった。唯ちゃん、いつの間に……なんかあったのかな?」
 と水月も呟いた。
 雅社長に電話をかける伊藤、
 「もしもし伊藤です。やっと完璧に仕上がったよ」
 電話口の雅、
 「そう、お疲れ様でした。これでやっと彼女をスタートラインに立たせることができるわ」
 と言った。
 
 一ケ月後、伊藤は、唯・季里也・水月の三人に半年にわたった養成所での暮らしが終了することを告げた。
 それは、同時に彼女等三人が今後、役者としての道を歩むであろう最低限の技量を身につけたことを示すものでもあった。
 三人が養成所を後にする日、伊藤が唯、季里也、水月に言った。
 「俺がお前たち三人に教えられることはすべて教えた。
 これから先はおまえらの努力次第だ。
 辛いことや苦しいことが多々あると思うが、ここで学んできた日々を思い出して頑張ってほしい。
 いつか、君たちと一緒に作品を創ることができように俺は願ってるよ」
 「監督、長い間、お世話になりました。私達三人は、伊藤監督の下で学べたことを誇りに思っています。
 ありがとうございました」
 三人は深々とお辞儀をすると、伊藤監督の元を去った。

 「俺たち、やっとスタートラインに立つことが
出来たんだな」と季里也が呟いた。
 「そうだね。これからが本番だね……」と水月が言った。
 「うん、いつか、みんなと一緒に共演出来るまで、
私も頑張る」唯が頷いた。
 三人は、声を合わせるとニコリと笑うと、
 「じゃあ、皆、お元気で……」と微笑みそれぞれの道を歩き出したのだった。
 
 「唯、頑張ったわね」雅社長が嬉しそうに言った。
 「ありがとうございます。これも、私を見つけていただいてこれまでずっと支えてくださった
雅社長はじめ、皆さんのお陰です」
 「伊藤監督が、最後は無事に自力で壁を乗り越えたって。何かあったのかしら?」
 「救世主が現れて……」
 「救世主? 何のことかしら?」と雅が尋ねた。
 「あ……特に意味はないんですが困ったときとかに……
現れて助けてくれるというか……」
 「そう、その救世主のお陰ってことなのね」
 「唯……おめでとう」と雅が微笑んだ。
 「えっ?」
 「あなたのデビューが決まったのよ」
 「えっ? デビューですか?」驚く唯。
 「あなたの、デビュー作、あの、有名な清涼飲料水の
イメージガールとCM」
 それを聞いた、唯の目から涙が流れてきた。
 唯は、驚きと嬉しさでその場に立ち尽くす。
 雅が唯の近くに歩み寄ると、
 「唯……いよいよ、スタート台から駆け出す時が
来たのよ。これから何があっても私と一緒に走っていくと約束して……」と彼女の肩を抱き寄せた。
 涙を拭いた唯は、
 「はい、雅社長約束します」と言うと唯は雅と固い握手を交わした。
 その日の夜、唯は、家族、そして親友の千春に連絡を
した。
 「唯~よかったね。私本当に嬉しいよ」
 千春は物凄く喜んだ。
 「ありがとう、千春……私、これからも頑張るよ」
 と嬉しそうに答える唯。
 千春との会話を終えた唯にはこのことをどうしても伝えたい人がいた。

 それは、もちろん……彼女を一番に『推して』くれた
ファン第一号の彼。
 背中を押してくれた大切な人。
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