父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

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浅野 宮内少輔が広島新田藩主に任ぜられ江戸へ出立する折には、もちろん青井 政太郎・清二郎兄弟も近習(側近の家来)として参上する手はずとなっていた。

元より前藩主の三男坊を刺客から護る御役目なぞ、いつ身代わりとして命を落としてもおかしゅうない。

ゆえに、青井家の中では分家筋から()()とも遺さねばならぬほどの血筋ではない兄弟が選ばれていた。

すでに両親は鬼籍に入っていたため、兄弟は許嫁(いいなずけ)を定めることなく江戸へと移る支度をしていた。


さすれども——

母方の山口家で、まだ正妻に男子のおらぬ若い当主が急逝し「御家騒動」が起きてしまった。

そして、あろうことか周りまわって兄の政太郎が山口本家の跡取りに祀り上げられてしまったのだ。

武家は「御家の(めい)」が絶対である。

しからば、政太郎はこの先の世を生ける屍のごとくなる覚悟で山口の姓を引き継ぎ、泣く泣く国許に残った。

さような矢先、突如市井のおなごに生ませていたと云う亡き当主の「忘れ形見」が現れた。

さすれば「血は水よりも濃し」とばかりに政太郎を祀り上げていたはずの手のひらがくるりと返されて、あれよあれよと云う間に次代の当主の座を「忘れ形見」に奪われてしまった。

政太郎は刀の腕が立つだけでなく書芸の方も明るかったはずだが、権謀術数には長けていなかったのが仇となった。

かような国許の風の便りを江戸で受け取ったときには、もう遅かった。

針の筵の中で暮らすのに耐えきれなかった政太郎は、とっくに安芸国を出奔したあとであった。


御前様は無理だとしても、せめて弟のおのれには頼ってきてほしいと清二郎は切に願っていたが——武家として、そして兄としての政太郎の矜持が赦さなかったのであろう。

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