だから、好きとは言わない

9 気が付いた、気持ち

 カチャンっと何かが閉まる音がして、気がつくと目に入って来たのはいつもの目覚めてすぐに見える天井で、あたしはベットの中だった。

 ゆっくり起き上がって、鈍い痛みを感じる頭を押さえた。差し込む日差しに外が明るくなっていることが分かる。壁の時計に視線を向ければ、時刻は午前七時。
 見上げた視線を下へと下ろす。
 きちんと畳まれた布団。狭い部屋を陣取っていた荷物がない。綺麗に片付いたテーブルの上には。

「……鍵?」

 小さなメモが添えてあった。
 ベッドから抜け出て、あたしはそれを手に取る。
〝お世話になりました〟と小さな字で書いてあった。

「……望……くん?」

 無意味に見渡した部屋の中。キッチンに置かれた、揃いの食器。

「……ははっ……」

 どうしようもない痛みが胸を締め付ける。もう笑うしかない。
 望くんの決断は、これなんだ。

 最初から、ここには一週間って、約束だった。あたしはそれを条件に望くんを置いてあげたんじゃないか。なのに。
 なんで今更、自分の言った言葉にこんなに後悔しているんだろう。

 湧き上がってくる寂しさと後悔が一気に涙となって溢れ出す。昨日だってだいぶ泣いた。酒に呑まれたって、あんなに泣いてしまったことは覚えている。きっと、水分を摂りすぎたんだ。まだ涙が出て来るのは、全部昨日のお酒のせい。
 シャワーを浴びて着替えると、あたしは望くんの買って来てくれた食器を棚の中へとしまった。軽い朝食を済ませると家を出た。

 今日も今日とて仕事はいつも通り、当たり前のように終わる。いつも通りじゃないのは、あたしの胸の中。
 もう何度もスマホを手に取るのは、望くんからのメッセージが届いていないか気になっているから。珍しく外でランチをしてみたのは、また偶然にも望くんが声をかけてくれるんじゃないかと淡い期待を持っていたから。

 夕方になってまたスマホを確認したのは、職場の前で待っているよと、連絡が来るんじゃないかと気にしてしまったから。
 なんの通知も入ってこないスマホをバックにしまい込むと、ため息をついた。

 帰って一人かぁ。今までも寂しくなる時はあった。だけど、今日は一人では居られない気がする。頼れるのは、やっぱり。

 しまいこんだバックからスマホをもう一度取り出して、あたしはメッセージを送った。
 友香に飲みの誘いメッセージを送ったら、珍しくお断りの言葉が返って来た。仕方なく、あたしはやっぱり頼みの綱の寛人へとメッセージを送ってしまう。

 寛人の話を聞くついでに、あたしの話も聞いてもらうってことにしよう。あくまでも、あたしの話はついでだ。出しゃばらないように。

「実智さ、あのマンションに望と住むでしょ?」

 いつもの和洋居酒屋、お客さんはまばら。常連の私達の前にはジョッキ生と揚げ出し豆腐、和風ピザのお決まりセットが並んでいる。
 先手を打ったのは寛人。
 言わずとしていた話を、まさか寛人からされるとは思わなくて、あたしはビールでむせてしまった。

「大丈夫かよ?」

 呆れたような目をしながらも微笑む寛人を、あたしは自分の胸をトントンと叩きながら見る。

「……な、なんで?」
「今朝、望うちに帰ってきたんだけど」
「あー……寛人のとこ、戻ったんだ」

 同期の子のとこでも行ってしまったんじゃないかと思ったりしたけど、それはさすがになかったか。良かった。

「実智さ、望のことどう思ってんの?」
「え……」

 真っ直ぐ聞かれると返答に困ってしまう。

「もう、ただの弟、じゃないでしょ?」

 また、困ったように眉を下げた寛人の目が切なく見える。

 そうだと思ったんだけど。でも、望くんが何を考えているのかが、あたしにはよく分からない。昨日あたしの過去を全部聞いてくれて、もうあたしには好きとは言わないと言われた。
 泣いていたあたしを抱きしめてくれたけど、その手は戸惑っていたように感じて。
 むしろ、あたしが過去を話したことで、きっと望くんに失望されてしまったかもしれない。

「実智、いっこ、聞いても良い?」
「……うん?」
「俺とこうやって一緒にいる時間ってさ、実智にとって幸せ?」

 ストンとあたしの中の器にピッタリと溢れる寸前の愛しいが落ちて来る。
 寛人と一緒にいるのは楽しいしそばにいることが全然苦じゃないし、なんでも言い合える仲だと思っている。それって。

「……うん、幸せだよ?」
「だよね。俺も、今すごく幸せ」
「……そ、そうなの?」
「うん。実智とこうやって飲みに来たり、家で騒いだり、そう言うのがすごく幸せだなって感じてる」

 優しく微笑んでくれる寛人の表情に、胸の中が暖かくなる気がした。

「……じゃあ、寛人は今、幸せで、不安とか悲しかったりとかは、ないってこと?」

 それならあたしが相談に乗るまでもないのかも知れない。

「んー、それとはまた別かなぁ」
「……なに、それ」

 ほんと、寛人って難しい。
 でも、寛人といるとあたしの不安だった気持ちは確実に薄れている。頼りにしてしまっているから、寛人があたしのことを突き放したりしないって分かっているから、あたしは幸せだと感じることができるんだ。寛人はあたしといて、どう幸せだと感じているんだろう?

「俺はさ、この先もずっと実智とこうしていたいんだよ。でもさ、それって、やっぱりお互いに相手が出来ると難しくなるでしょ? 今までは実智には凌がいたから、俺は実智に遠慮してたとこあるし」
「まぁ、二人でってのは凌と別れてからだもんね」

 寛人と二人だけで飲みに来るようになったのはほんと、ここ最近。

「望もさ、俺に遠慮してんだよね」
「あ……望くん、あたしと寛人がこうやってよく会ってるから、付き合ってるんだって勘違いしてるんだよね。寛人には敵わないって……」

 そう言えば、望くんが言っていた、あれってなんだろう。
 昨日、寛人は望くんと何か話したのかな?

「寛人、昨日望くんと何か話した?」

 一瞬、間が空いてから、

「あー、実智のこと幸せに出来ないなら、軽々しく好きとか愛してるとか、実智を抱いたりとかするんじゃねぇーーって、言ったかな?」

 笑顔を向けられると、寛人はジョッキを掲げて美味しそうにビールを飲んだ。

「俺は、実智には幸せでいてほしいんだよ。もし、実智が俺と一緒にいて幸せなら、もういっそ、望じゃなくて、俺と一緒に住もうよ」
「……え!」
「ははっ、驚きすぎなんだよ! その反応すると思ったけど」

 え、なんか、あまりにサラリと凄いこと言っているから、思わず。だけど、

「……この前は望くんと住めって言ってて、今度は俺と住もう?」
「混乱させるってのは分かってて言ってる。俺も知らなかったんだよ。実智のことを好きになってたなんて。望に抱かれてるって知ったら、どうしようもなく悔しかったし、悲しかったし、そう思ったら実智のことを抱きしめたくなった」

 だから、あの時。
 寛人が、あたしを? そんなの、全然分かんないよ。

「俺だって、ちゃんと自分の気持ちに気がついたのは昨日なんだよ。だから今更、望を実智の家にやったこと、後悔したって遅いと思ってる。実智は、望が好きなんだろ?」

 望くんが。

「俺は言うつもりはなかったんだよ。実智に好きだなんて。だってさ、俺、幸せなんだもん。実智とこうやって話してる時が一番。だから、こんなこと言って、実智に嫌われたりしたら、この幸せな時間を失うんじゃないかって、今すっごい、不安なんだよ」

 寛人の表情が、不安の色に変わる。
 いつもの大人の余裕なんてそこにはなくて、顰めた眉。寛人の顔が、歪み始めた。ゆらゆら揺れて見えるのは、あたしの目の淵に溜まり始めた涙のせいだ。

「困らせるつもりはなかったんだ。ごめん」

 あたしの頭を撫でてくれる優しい手。ポトポトと涙がこぼれ落ちて、テーブルで撥ねた。
 寛人の不安そうな、寂しそうな目は、あたしのことを想ってだったんだ。
 そんなことも分からずに、あたしはまた、自分の気持ちだけに精一杯で。
 ずっとそばにいてくれた寛人の気持ちも気が付かずに。

「……ごめん……寛人」

 本当にごめんなさい。
 寛人のことは大好き。いつまでもそばにいてほしい。だけど、きっとそれは、恋とか愛とかじゃない。あたしは、もう望くんの真っ直ぐな愛に溺れてしまった。寛人の気持ちには応えられない。

「うん、大丈夫。こうなるって分かってたから、それでも、俺は伝えたかったんだよ。望の真っ直ぐな実智への想いを聞いてたら、我慢してんのが馬鹿馬鹿しくなった。実智もさ、気持ちは素直に伝えた方が良いよ」

 ね、と微笑んでいる寛人はいつものような優しい表情で。きっと心の中はたくさん悩んだり傷ついたり、不安だったり。それなのに、受け止めてあげられないあたしは、どうしようもない。
 こんなに近くにいるのに、支えてくれていたのに。

「これからは、望に任せるから。実智のこと」

 寛人へと顔を上げると、目が合ってニッと笑ってくれる。
 
「あ、でも、あいつには絶対言わないよ? 悔しいからね、これからもからかってやろうとおもってるし、それくらいは許してよ」

 ふふ、と意地悪そうな表情で笑う寛人。だけど、その顔には優しさが滲み出ている。
 あたしなんかに、寛人は勿体なさ過る。きっと、まだ出逢えていないだけで、寛人には素敵な恋人が現れるはずだ。絶対に、あたしも嫉妬してしまうくらいに素敵な女性が。

「ありがと、寛人。大好き」
「……それは、ズルいんだけど」
「あ、……ごめん」
「望が浮気でもしたらすぐに俺んとこ来ていいよ」
「いや、それこそ寛人のこと良い様に使いすぎ」
「良いんだよ。俺は実智に良い様に使われたいの。あ、なんか今なら清春さんの気持ち、分かるかも」

 思い出した様に目を見開くと、寛人はおかしそうに笑う。
 それに釣られて、あたしも笑った。

「そういやさ、友香から連絡来た?」
「え……ううん。今日ね、本当は友香のこと誘ったんだけど、珍しく断られたんだよ」

 メッセージには、いつものノリはなく単調に〝今日は無理だ、ごめん〟とだけだった。

「あ、そっか。じゃあ、まだ言わない方が良いかな」
「え? なに? なんかあったの?」

 まずいと明らかにあたしから目を逸らす寛人に、あたしは食い付いた。

「いや……これは本人からの連絡待った方が……」

 言葉を濁しながら、寛人はピザに手を伸ばして食べ始めてしまう。

「なんで寛人が知っててあたしには教えてくれないの? おかしくない? あたしに都合悪い話なの?」

 友香は嘘ついたり隠し事したりする様な子じゃない。

「あー、俺は友香じゃなくて、清春さんからの情報だからさ」
「……え、なに? 怖いんだけど。なにがあったの?」

 清春さんが寛人に連絡するとか、よっぽどのことがないとしないと思うんだけど。胸がざわつき始める。

「あ、そんな深刻になんなくて大丈夫だと思うよ? そのうち友香から連絡くるでしょ」
「あ! 話振っといてはぐらかさないで。ちゃんと教えてよ。大丈夫! あたしちゃんと受け止めるから」

 二人が仲がいいのは知っている。だから、何かあったって、何があるって言うんだ。友香こそ悩んでいたんじゃないかと思ってみても、あの日の友香を思い出すと、いつも通りに元気でいつも通りにお酒を飲んで、いつも通りに清春さんに抱えられて帰って行ったはず。

「さっきいきなり清春さんから電話来てさ、しばらく友香と飲み会するのはやめてほしいって、言われたんだよ」
「え……」

 あの日、友香だいぶ飲んでたからな。いい加減清春さんも呆れちゃったのかな。

「俺、怒られんのかと思って一瞬ビビっちゃったんだけど」

 寛人はあたしを見てにっこり微笑む。それを不思議に思って次の言葉を待ってみる。

「清春さん、めちゃくちゃ嬉しそうな声でさ、子供が出来たからって。なんか、俺までじーんっときて、二人でスマホ越しに泣いて喜んじゃったよ」

 友香がママに?

「……嘘……」
「泣いたはいいけど、妊娠の可能性があったのに浴びる様に酒を飲ませてどう言うつもりだってめちゃめちゃ怒られたからね、俺。聞いてねーしって思ったけどさ、でも、嬉しいことだし、これからは絶対飲ませませんって言っといた」
「友香……」

 妊娠の可能性あったのにあんなに飲んで、自覚なかったのか。友香が信じられない。

「まだ本当に豆粒らしい。次病院行った時に色々手続きがあるらしいけど、だから、それまでは妊娠が確定したわけじゃないし、まだ誰にも言わないでおこうって友香は言ってるらしいけど、清春さん俺に言っちゃってるし。ほんと、あの人面白い」
「そっか、よっぽど嬉しかったんだね」
「そ、友香は友香で、落ち込んでるらしい。なんであんなに飲んじゃったんだろうって。だから、無事に二人の子が育ってくれることを願っておかないとな」
「そうだね」

 ああ、なんだか気持ちがあったかくなる。あたしも嬉しい。
 きっと、気持ちの整理がついたら友香から連絡が来るかな。その時まで、楽しみに待っていよう。

「寛人、マンションの手続きお願いしてもいい? あたしも、一歩踏み出してみる」

 毎日同じことの繰り返しだった。
 それで良いと思っていた。
 だけど、環境が変わって、周りも変わっていくのに、あたしだけ置き去りにされるのは嫌だ。

 いつまでも過去に囚われていたくない。
 凌のこともいい思い出に変わったし、あたしは望くんへと素直にならなくちゃいけない。
 寛人だって、あたしへの想いを伝えてくれたんだ。
 あたしだけ何もしないで幸せになんてなれない。
 未来がどうとか、そんなの今はどうでもいい。
 今、あたしは望くんのことが好きなんだ。

「明日、望くんとちゃんと話してみるね」
「おう、頑張れ」
「じゃあ、またね。ありがとう寛人」

 手を振るあたしに、一瞬だけ寂しそうな笑顔を向けて、寛人は帰っていく。

 締め付けられるように痛む胸に、手を当てた。
 小さく深呼吸をしてから、あたしはスマホを取り出して望くんへとメッセージを送る。

ーー明日、話があります。仕事が終わったら連絡ください。

 望くんの存在がなくなった部屋の中はひんやりと感じる。着替えてシャワーを浴びると、スマホを確認して頬が緩んだ。

ーー会えるの楽しみにしてる。

 望くんはあたしからのメッセージが嬉しいのかな? それとも不安なのかな?
 文面からでは読み取れなくて、望くんの声が聞きたくなる。あたしはそのままスマホを閉じてベッドへ横になった。
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