だから、好きとは言わない

2 やって来た、わんこ

 大荷物を抱えて望くんがやって来たのは、よく晴れた日曜日の昼下がり。
 洗濯物を干して部屋の掃除をして、お昼はパスタでも茹でるかとお鍋にお湯を沸かし始めた矢先のことだった。

 とりあえず、近所の目があるので望くんを部屋の中へ引き入れたのは良いとして、一応客人だしと、出してあげたお茶を啜る望くんに振り返った。

「今なんて?」
「実智ちゃんと一緒に住まわしてください」

 真面目な顔で何をいうんだこの子は。
 冷静になるために、ぐつぐつと煮えたぎった鍋にパスタを投下する。

「もう俺たち付き合ってるんだよね?」
「は?!」
「え? 違うの?」
「付き合ってないでしょ」
「じゃあ昨日愛し合ったのはなんだったの?」

 それは……
 あたしが単に望くんに好意を持たれたのが、嬉しかったから。
 久しぶりのキスの感触と抱きしめられた感覚に酔っていたのを良いことに、気の知れた人だと分かってつい、身を任せてしまった。
 慣れているのかいないのか、そんな手つきの望くんがなんだか可愛くて。愛しいと感じてしまって、つい。
 ただ、それだけだったんだよ。

「ごめん。ちょっと酔っていたし、だから忘れて」

 鍋に沈んでいくパスタを絡まない様に混ぜた。背を向けた向こうの望くんがどんな顔をしているのか気になりつつも、見れない。

「……ほら望くん、若いしカッコいいし、本当は彼女いるんじゃないの? 言ってたじゃん、キスもそれ以上も上手くなったって。大丈夫! ちゃんと上手だったよ。だからさ、普段愛してる子のことちゃんと大事にしてあげなよ」

 ほんと、あたしなんかに構ってないでさ。
 冷蔵庫からソーセージを取り出す。ピーマン、玉ねぎ、にんじんをまな板に乗せて細く薄く切りながら、あたしは笑った。

「そんなん嘘だよ。俺実智ちゃん以外興味ないし」

 ん?

 思わず振り返ると、機嫌が悪そうにテーブルに頬杖をついて膨れている望くんがいる。

「あ、一回だけ練習と思って中学ん時にキスしたことあったけど、ぜんっぜんなんかよく分かんなかったし。高校入ってから、ようやく実智ちゃんがあの時あいつと何してたか理解して、俺もその時にちゃんとできる様にって、告られた子と一回だけしたことあったけど、やっぱりぜんっぜんよくわかんなかった!」

 え。なにそれ。

「は? じゃあ高校以来シてないって事?」

 なんか、その見た目で昨日のグイグイくる雰囲気は女に慣れてるんだと思っていたけど。

「うん。実智ちゃんじゃないと無理」

 いや、だってさ。そんなん知らないよ。知っていたとはいえ、ほぼ初対面の女の家に上がり込んでヤルとかそういうの慣れてるからじゃないの?

「昨日はやばかったの!
あっさりキスさせてくれるし、家に入れてくれるし、求めても拒まれなかったし、順調過ぎて怖いくらいだったんだって。しかも……実智ちゃん、めっちゃ可愛かった」

 思い出して顔を赤くする望くんに、あたしまで恥ずかしくなる。

 フライパンを熱してオリーブオイルとニンニクを投入。切った材料を入れてあたしは炒め始める。

「いや、いやいや、昨日のはね、なんて言うか、あたしも酔ってたんだわ。だからさ、お酒の勢いっていうか」

 最近ほんと一人でいるのがなんか寂しくて。久しぶりにキスされて、優しくされて、あたしもおかしかったんだと思う。

「え?! それって、俺遊ばれたの?!
ひどっ!! 一夜限りなんて絶対にやだからね!俺の体はもう実智ちゃん以外受け入れられないんだから、ちゃんと責任とってください! 
ってことで、ここに置いてください」

 ケチャップを握りしめた手に力が入って、思った以上にフライパンの中へと落ちてゆく。

「だから、なんでそうなるのかな」

 急に子供みたいに怒り始めちゃったけど、そんなこと言われたってなぁ。
 動揺を隠しながらケチャップで野菜を炒めてナポリタンを完成させる。
 お皿に盛り付けて望くんの目の前に置いた。

「責任は持ちます」

 だって、明らかにあたしの方が大人だ。若い子に言い寄られてつい嬉しくなって久しぶりのキスに舞い上がって、つい最後まで許してしまった。

「ちゃんと、望くんに可愛い若い彼女が出来る様に協力するから。遊びだったわけじゃないんだけど、あたしは望くんのことは好きにはならない」
「なんでだよ!!」

 未来あるキミにこんな夢も希望もなくした女は似合わないんだよ。
 虚しいから口には出さないけどさ。

「あたしは今の生活が好きなの。好きなことして自由で。キミがいたら自由もなんにもなくなっちゃうから。だからこれ食べたら出てってください」

 ぺこっと頭を下げてめちゃくちゃ困った悲しい顔でもしてみよう。そうしたらきっと望くんも諦めて……。

「……って! え?! ちょっと! なに?! なんで泣いてんの?!」

 顔を上げると、歯を食いしばってうるうると今にも溢れんばかりの涙を溜め込んだ瞳がこちらをじっと見つめていた。

「……分かった」

 頷いた瞬間に大粒の涙がボトボトっと落下する。

「……いただきます……」

 小さくつぶやいて手を合わせた望くんはフォークでナポリタンをくるくると巻き取り口に運ぶ。
 たまに嗚咽を漏らしながらも、ゆっくりと食べて、「美味しい」と満面の笑みを向けてくれた。

 え、ちょっと待って。
 あたしが完全に悪い様に思えて来たんだけど。
 急に目の前の子犬……いや、望くんが哀れに見えて来てしまう。

 なんとかしてこのままここにおいてやることは出来ないだろうか?

 あたしの思考がそんなことを考え始めてしまって、慌てて首を振った。
 まずいまずい。これは望くんの罠かもしれない。きっと今までもそうやって幾多の女子を陥れてきたに違いない。
 高校以来ヤッてないとか絶対に嘘だよ。流されるな。あたしは絶対に望くんのことは好きにならない。

 次付き合うなら即結婚を前提にお金も地位も歳もあたしより上で包容力満載の大人な男の人にするんだから。

「……実智ちゃんは、食べないの?」
「え……あ、食べるよ」

 急に聞かれて望くんの顔を見れば、口の周りにケチャップソースが付いて透明感ある肌に赤い唇が綺麗に映えている。
 ウェットティッシュを手に取って差し出そうとしたら、望くんが一瞬考えた後に顔を近付けてくる。

 ん? 受け取らないのか? ってか、拭いてってことなの?!

「は、はいっ、口、付いてるから拭いてね」
「……あー、うん」

 残念そうな顔をしてあたしの手からウェットティッシュを受け取った望くんは口元を拭いた。
 拭いてって、なに今の仕草。可愛過ぎるでしょ。

「変わらないねー、望くん。あの時の可愛いのんちゃんのまま」

 思い出して照れてしまったことを悟られない様に笑うけど、望くんはノーコメントで黙々とまたナポリタンを頬張り始めた。

「じゃあ、ご馳走様でした」

 その後、特にこれと言った会話もしないまま食べ終えた望くんはため息を溢して玄関へ向かった。その手には何も持っていない。

 あれ? ちょっと待ってよ?

 大量の荷物はそのままで出て行こうとする望くんを引き留めた。

「ちょっと、この荷物は?」

 先ほど持ち込んできたキャリーケースやらバックパックはお世辞でも広いとは言えない部屋の中に堂々と鎮座している。

「置くとこないから、荷物だけは置かせて。俺んちこの前、隣の部屋の人が起こしたボヤで住める状態じゃなくなったから、家ないし。次の住むところ見つかるまででもいいから」

 は? え? なにそれ。
 眉を目一杯に下げて力なく笑う望くん。

「……むちゃくちゃ可哀想じゃん。
ってか、ほら、昨日の寛人のとこでも行けばいいんじゃ無い?」

 昨日も仲良さげにしていたし。

「職場でも家でも上司がいるって考えて見てくださいよ。耐えられなく無いです?」

 あたしの提案に呆れるようにため息を吐き出す望くんの目は、軽蔑している様にも見えた。

「……たしかに」
「じゃあ、俺出ていきますから」
「……あ……」

 パタンと閉まってしまったドアに、立ち尽くすだけ。なんだかすごく酷いことをしているんじゃないかと罪悪感が募り始める。
 でも……仕方ない。うん、きっと当てがあるんだ。
 私以外に頼れる彼女の一人や二人いるでしょ。友達とかさ。うん、大丈夫。仕方ないから、荷物だけは置いといてあげよう。邪魔だけど。
 気になりつつ、あたしは食器を洗って片付ける。

 ー寛人の会社に今年入った新人くんでね、ー

 そう言えば、友香がそんなことを言ってたな。大学はどこだったんだろう。こっちに就職して来たってことだよね? まだ上京して間もない感じなのかな? それなのに家が火事とか、頼れる友達がいるならあたしのことなんて探さないんじゃないかな?

 もしかして、望くん、最後の砦にあたしを頼って来てくれたんじゃ……。

 あー、考え出したらヤバい。気になって仕方がない。

 連絡先も結局交換しないまま追い出してしまった。なんとなく気が抜けて、ソファーに脱力して座り込むとスマホを掲げた。
 とりあえず、友香に聞いてみよう。

 ……いや、寛人か? 寛人の方が直に望くんと接しているんだろうし、そっちに聞いた方がいいのかな。
 うん、そうしよう。

 画面から寛人の名前を探し出してタップした。

 日曜だし、仕事はしていないとは思うんだけど。

 そう思いつつ出るまで時間がかかるだろうとケトルにスイッチを入れようとした瞬間に、聞きなれた声が耳元をくすぐる。

『……っんー、どうしたぁ? 実智』

 思わず、スイッチを押す指がブレてしまう。
 なんなのその色気全面に出した声。

「……ね、寝てたの? ごめん」

 寛人に電話をかけるのは、実は苦手だ。
 スマホ越しのこの声が、あたしの好みにどハマりしている。会って話す分にはそこまで感じないんだけれど、どうしてスマホを通すとこんなにイケボに変わってしまうのか、教えてほしいくらいにかっこいい。しかもあきらかに寝起き。

「もうお昼過ぎてるよ? 昨日も飲みに行ったの?」
『あー、いや? 昨日は仕事。休み前にどうしても終わらせたくて遅くなっちゃって……って、そんなことより、どしたの?』

 だんだんと覚醒していく声がまた素敵。

「あ、いや、ちょっとさ、聞きたいことがあるんだけど」

 今は望くんのこと。

『なにー?』
「寛人んとこの新人のさぁ」
『ああ、望? なに? あの後なんかあったの?』

 速攻で返事が返ってくるから話が早くて助かる。しかも質問しすぎ。
 何かあったかは言わないけど、いや、言えないけれど。

「そう。望くんって、家ないの?」
『んー、そうだねー』

 はははっと、他人事な言い方の寛人に少しムッとしてしまう。あんな捨てられた子犬みたいに涙目になられたら可哀想になっちゃうのに、知ってたら笑えない。

『なにー? あの後一緒に住むことになったとか?』
「からかうように言ってくるけど、そうなりかけてるから電話したんだよ」

 思わずため息を吐き出してしまう。

「寛人どうにか家探してあげれないの? 上司でしょ?」
『ってか、望、昨日までうちにいたんだよ? ずっと世話してたの。それが突然住むところ決まったから出て行くって。それもあって安心したのと、めちゃくちゃ疲れてて、今日はようやく一人の休みでゆっくり寝てたのに。また望の話だし。ってか、ここ出てってまじで実智んとこ行ったの?』

 今度は寛人の深いため息が聞こえてくる。

「え? 寛人のとこにずっといたの? そりゃ休まらない日々だっただろうね」
『え、なに? 望と実智ってマジな知り合いだったの?』

 驚いたような声の寛人に、あたしは可愛い可愛いお隣の《《のんちゃん》》の昔話をしてあげた。

『へぇ。なんだよ、じゃあ姉ちゃんとして望のこと面倒見てやれよー。そこまで年離れていたら別に間違いも起こんねーだろ』

 はははとまたしてもスマホ越しに笑われて、あたしは言葉を失った。

 いや、思いっきり一線を超えてしまったんだよあたし。望くんと恋愛しても許されるのかなとかまで考えてしまったんだよ。許されないよね、可愛い可愛いあの、のんちゃんに手出したなんて。お母さんになんて言われるか分かんない。
 いや、望くんとそんなことになったなんて、口が裂けても言えないけれど。

『おーい、実智?』

 無言になってしまったあたしを呼びかける声に、なんとか意識を取り戻した。

『とりあえずさ、一ヶ月? 面倒見てくれない? その間に住むところ探してやるから。実智も忙しいだろうけどさ、可愛い弟の為にって頑張ってよ。たまに俺んとこよこしてもいいし』
「たまにって、あたしがたまにの方になりたいよ」
『だってさ、仕事でも家でも上司と顔合わせるってストレスじゃない? 俺すらそう思うのにさぁ、望はもっとだったと思うよ? だったら実智との方が気楽にいれるんじゃないの?』

──職場でも家でも上司がいるって考えて見てくださいよ。耐えられなく無いです?
 確かに、望くんも言っていた。

 なんだかんだ言っても、寛人は優しい。ちゃんと望くんのことを考えてるんだろうな。
 仕事も私生活もちゃんとしてるし、考え方大人だし、なんで彼女いないんだろう。不思議で仕方がない。
 仕事命なとこはあたしと一緒だ。だから、飲む時は意気投合する。そっか、あたしより仕事の方が大事なんでしょって言われてフラれるパターンなのかな。

『また黙ってるけど?』
「あ、うん、ごめん。わかった。とりあえず、一ヶ月ね、あたしの自由がなくなるけど、それくらいなら我慢出来るかな。望くんの連絡先後で送って」

 仕方がない。

『ストレスになる前に一緒に飲み行こう。俺もやっと解放されて清々してるし。今度奢るよ』
「まじ⁉︎ やった! 分かった」

 通話を終了させて、あたしはいつの間にか湧いていたケトルのお湯をインスタントコーヒーを入れたカップへと注いだ。香ばしい匂いが部屋の中を漂い、気持ちが和らぐ。
 ふと、望くんの荷物に目が行きそのキャリーケースに何か貼ってあることに気がついた。

「ん?」

 コーヒーのカップを手にしたまま近付いてその紙を手に取る。

【いつでも連れ戻して。090-×××-×××】

「……なに、これ」

 きっと望くんのスマホの番号だろう。
 寛人から望くんの連絡先が送られて来て確認すると、番号が一致している。

 なんなの?
 あたしが連れ戻すと分かってこれ置いて行ったってこと?
 それとも、すぐに連れ戻して欲しかった?
 どっちにしても、可愛い子には旅をさせろっていうし、もう少し様子を見て夕方にでも電話しよう。

 夕飯は何か美味しいものでも作ってあげるかぁ。
 パーカーを羽織り、ミニバッグを手にして、玄関のドアを開けた。

 ゴンっ!!

「いっ!!」

 は?
 開けた反動でドアに何かがぶつかった。

 しかも声を発した? 人⁉︎
 驚いてドアの向こうを覗き見ると、そこにいたのは、額を抑えて悶える……

「の、望くん⁉︎」
「勢いよく開け過ぎだろ!」

 涙目でこちらを睨むその顔は血の気がないように色白だ。ただ、ぶつかった額だけが赤く腫れ出す。

「ご、ごめんっ、て、なんでここにいるの?!」

 出てったはずじゃ。

「……だって、帰る家ないって言ったじゃん」

 春はとっくに過ぎているけれど、ここは日陰になっていて、風通しもいい。涼しさを通り越して寒いくらいだ。
 さっき出て行ってから、もしかしてずっとここにいたの?

「わざわざ見えるとこに番号置いて来たのに! なんですぐ気が付かねーの?」

 握りしめたスマホを掲げながら、逆ギレか?

 やっぱりあれはすぐに引き留めて欲しかったからなんだね。思わず口元が緩んでしまう。

「……なに、笑ってんだよ」
「いや、望くんって可愛いなぁと思って」

 ほんと、行動の一つ一つが可愛すぎるでしょ。あの頃を思い出してしまう。

「冬なのに、あたしと遊んでほしくて玄関先でコートも着ないで学校から帰ってくるのをひたすらに待っていてくれたことあったよね。なんか今、思い出しちゃった」

 鼻もほっぺたも耳も真っ赤にして、けれど、顔は真っ青で。

「あの後、風邪ひいて熱出した俺に、実智ちゃんがずっとそばにいてくれたんだよ?」
「……あれ? そうだっけ?」

 そこまでは覚えていないな。

「俺には実智ちゃんがそばにいてくれることが一番なの。だから、どこにも行きたくない。迷惑にはならないようにする。実智ちゃんの自由を奪ったりもしたくないし。だから……だからさ……」

 切な気に目を伏せた望くんは、涙を堪えるように唇を噛み締めている。
 見上げるほどの身長で、身体つきもすっかり大人になってしまったけれど、中身はあの頃のまま、可愛いのんちゃんだ。
 寛人とも約束したし、仕方がないからしばらくうちにおいてあげよう。

「いいよ、今日から一緒に暮らそう」

 俯く望くんを覗き込みながら笑顔を向けたら、見開いた大きな瞳からポロリと涙が落っこちて来た。
 そして、大きな胸であたしを包み込む。

「いいの⁉︎ ほんとうに⁉︎」
「ちょ、望くん。良いけどさ、そうやってすぐあたしに触ってこないで」

 自我を保つのが危ういから。

 あたしのキツめの言葉に、シュンっと怒られた子犬のように肩を落として望くんは離れると、頷いた。

「分かった。なるべく気をつける」
「じゃあ、夕飯の買い出し行くけど、一緒に行く?」
「え⁉︎ うんうん! 行く! 行く!」

 シュンとしたのも束の間、今度は尻尾をフリフリまたしても飛びついてくる勢いの望くんにストップをかけて、あたしは微笑んだ。

「何が食べたい?」
「んーとねー」

 考えるように空を眺めながら、さりげなくあたしと手を繋いでくる望くんに驚きつつも、

「ハンバーグ♡」

 天使のような笑顔で応えられると、その手を無理に離してしまうことも可哀想だと、繋いだままで歩き出す。

 あの頃にまた戻ればいいだけの話だ。

 小さかった望くんと毎日手を繋いで川沿いを散歩した。近所を探検したり、少しずつ出来ることが増えて来て、あたしは望くんの成長を見ているのが大好きだった。
 頑張る望くんをいつも応援していて、あたしも頑張ろうって思えていた。だから、あたしはまたここから、望くんの成長を見守ってあげればいい。

 スーパーで挽肉を選んでいると、馴染みの店員さんから声をかけられた。

「あらぁ、夕飯の買い物? 今日は彼氏も一緒なのね」

 ニコニコといつも以上の笑顔で近付く店員さんに、あたしは慌てて首を振る。

「い、いえいえ。彼氏ではなくて……」
「あら、そうなの?」

 彼氏ではなくて……でも一緒に住んでますって。なんか世間体としてはどうなの?
 三十の女が若い男の子と住んでてその子が別に彼氏でもなんでもなくて、でもやることやってしまったって……。あー。なんか、やっぱり望くんと住むのはストレス溜まるのかも。

 ため息を吐き出したあたしに、離れていた望くんから声がかかった。

「実智ちゃーんっ、これ! 期間限定だって! 買っても良い?!」

 キラッキラの笑顔で期間限定と言うゼリーを掲げて嬉しそうにこちらに手を振る望くんには、笑うしかない。

「可愛いわね、彼氏じゃなかったら、弟さんとか?」

 まだそばにいた店員さんが、望くんのはしゃぐ姿を見て、小さい子を見るように微笑ましくクスクスと笑っている。
 そうか!と、閃いた。

「そうそう! 弟なんです! 上京したてで、慣れるまで面倒見ることになっちゃって、ははは」
「まぁ、お姉ちゃんも大変ねぇ。でも、あんなカッコいい弟さんなら、すぐに彼女作って出て行ってくれるんじゃないかしら? あ、今日はオレンジがお買い得になっているから良かったら入り口付近見て行ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」

 バックヤードに去っていく店員さんを横目に、挽肉をカゴに入れて望くんの元へと近づいた。

「なんなの? このゼリー」
「実智ちゃん知らないの? 今人気の寿術恋愛って、ホラーでグロいけどエロくて爽やかな恋愛アニメ。そのコラボのゼリー」

 見るからに食べる気が失せそうな濃い色合いのゼリーの中に目玉を模したものが浮いている。
 うげ。ホラーとか苦手なんだけど。
 そしてエロくて爽やか?その意味の分からない言葉はなんなのか、あたしには理解しかねる。

「買うのは別に良いけど、ちゃんと食べてよ? あたしは要らないし」
「やった、じゃあこれお願いします」

 ちゃっかりカゴに投入。入り口付近で安いと教えられたオレンジを買って、明日の朝食用に食パンもカゴに入れてレジを済ませると、スーパーから出た。

「持つよ」
「え、あ、ありがとう」

 当たり前のようにあたしから買い物袋を軽々取り、先ほど同様に自然と手を繋がれる。
 うーん。もはや何も言う気も起きない。

 アパートに戻ると、買って来たものを入れるために冷蔵庫を開けた。

「ビールめっちゃ並んでる」
「うわっ! ちょっ、見なくて良いから」

 後ろから冷蔵庫の中を覗かれて、食材よりもビールの方がその中を占めていることを指摘されて慌ててしまう。

「この前の飲み会で実智ちゃんがお酒強いのは分かったけど、今まで酔い潰れたこととかないの?」
「え……べ、別にないわよ」
「えー、今間があったんだけど」
「覚えてないわよ、酔っ払った時のことなんか」

 お酒が強いのは本当だ。 
 いくら飲んでも、次の日の仕事のこととか考えると自然と酔えなくて、それが逆にあたしには好都合だった。
 だけど、酔っていて覚えていないとは言ったものの、酔い潰れたことは一度だけある。その記憶も、断片的にだけれど、覚えている。
 思い出したくもない、元カレから結婚報告をされたあの日。

「……実智ちゃん?」
「……あ、ごめん。ほんと、ないよ。あたしお酒強いし、飲んでも呑まれないの! 望くんも飲めるじゃん。今夜は歓迎会でもしてあげるから、飲も飲もっ」

 思い出すのも辛くなるから、あたしは明るく振る舞うしかない。

「……実智ちゃん……」

 そっと伸びて来た望くんの腕に抱きしめられた。きゅっときつく。だけど、優しく。

「ちょ、望くん、あたしに触らないって……」
「だって……なんか、辛そうな顔してるんだもん。俺が抱きしめてその辛さが無くなるとは思わないけどさ、実智ちゃんが辛い顔するのはヤダから」

 なんだ、それ。
 さっきまで期間限定のアニメコラボのゼリーに子供みたいにはしゃいでいたのに。どうしてあたしの辛さを汲み取ってくれようとするんだ。
 あー、だめだ。ここで泣いたり頼りにして抱きしめ返してしまったら、望くんの好意にまた甘えてしまうことになる。
 そんなのだめだ。強くいなければ。

「辛くなんてないよ? もう過ぎたことなんだから。望くん、あたしそんなか弱い女じゃないから、心配してくれなくても大丈夫だよ。さっ、ハンバーグ作るの手伝って」

 パッと望くんから離れると、あたしはシンクで手を洗って材料を用意する。
 なんとなく、望くんの顔は見れない。

「……分かった」

 小さなため息を吐き出した望くんは、あたしが用意した玉ねぎカッターを手に取り、不思議そうに眺めているから、使い方を教えてあげる。

「ほら、こうやってここのレバーをぐるぐる回すと、中の刃が玉ねぎたちを細かく微塵切りにするから。涙も出なくて便利でしょ」
「うわ、すげぇ。やるやる!」

 いちいち反応の可愛い望くんと、並んでキッチンに立つのが不思議だけど、なんだか安心する。
 ずっと一人でいいと思っていたけれど、この空間に人がいるって、あったかいな。
 歪なハンバーグと綺麗に整ったハンバーグの二つがそれぞれのお皿に載っている。

「やっぱ実智ちゃんのハンバーグは綺麗だな」
「だてに一人暮らし長くないからね。自然とこのくらいは出来るようになったのよ。望くんだって何度もやれば上手くなるよ?」
「うーん、そうかなぁ。でも、楽しかったし、また一緒に作ろうね」

 ニコニコと笑顔の望くんはやっぱり可愛い。
 お腹いっぱいになった夕飯の後に、あたしは大事なことに気がついた。

 テレビを見ながら笑っている望くん。
 その横にはベットがある。
 あたしのアパートは部屋が一つしかない。だから、寝る場所を分けることは不可能で、来客もないし敷布団など用意していない。
 ソファーはあるけれど、決してソファーベッドのように立派なものではないから、そこに寝ろと言われても仮眠程度が妥当だ。

 望くんの寝床どうしよう?!

 この前はベットで朝までを過ごしたから、そんなことなにも考えなかったけれど、まさか、望くんは一緒のベットで寝ようと思っていないよね?

 腕を組みながら部屋を見回して考えるあたしは、こちらを見ている望くんと目が合った。

「俺、ソファーで寝るから平気だよ?」
「……え」

 悩むあたしの考えを見透かしているかのように、望くんはあっけらかんと言い放つ。

「実智ちゃんがベットで一緒に寝ようって言うなら喜んでだけど、触っちゃだめでしょ? そんな拷問耐えらんないし。ソファーの方がマシ」

 無表情のままそう言ったかと思うと、望くんは再びテレビに視線を戻して笑っている。
 ああ、そっか。
 ちゃんと約束守ってくれようとしているんだ。
 でもなぁ。ソファーはあたしが横になってもはみ出すくらいの大きさだし、望くんには小さすぎる。かと言って一緒には寝れないし。

「……あたしさ、明日までにやらなきゃない仕事あるから、望くんベット使って良いよ。うん、気にしないで寝ちゃって」

 それがいい。今日のところは仕事のフリして眠くなったらとりあえずあたしがソファーに寝る。それでいこう。

「……夜更かしはお肌に悪いよ?」
「余計なお世話です。とにかく、望くんは朝何時なの?」
「……七時には、出る」

 おや?意外に早いな。

「分かった」

 それなら望くんが行った後に少しだけ寝れる。
 予定通りに二十二時にはベッドに潜り込んだ望くんは、スヤスヤと寝息を立て始めていた。
 パソコンを開いて薄暗い部屋の中で、その画面を見つめる。

 なんだかバタバタして忙しない一日だったなぁ。
 思考が働かなくなっていく頭を振るって、ありもしない仕事が手が付かなくなってしまった。一旦、お風呂に入ることにしよう。

 のぼってゆく湯気を眺めながら湯船に肩まで浸かった。吐き出したため息は、深く長い。

 一カ月って、長いなぁ。一日目からもう嫌になっている。
 明日、マットレスでも買いに行こうかな。部屋は確実に狭くなるけれど、望くん用の居場所も確保してあげないと。

 本当は、ここの部屋も引っ越すつもりだった。もう少し広い部屋を借りて、(しのぐ)と一緒に住む予定でいた。だけど、そんな予定はあたし一人だけが立てたもので、本人には言っていなかった。
 そういえば、まだあの部屋借りれるのかなぁ。
 結婚資金にとあたしなりに貯金もしていた。凌にばかり出させるわけにはいかなかったし、なにより二人のことだから、あたしも協力させてほしかった。だから、仕事も無理するくらいに頑張って来たのに。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ゆっくり開ける。プシュッと音が静かな部屋にやけに響いた。一人でいる時にはそんな音、気にも止めていなかったけれど、今は望くんが眠っている。

 一口。美味しいから飲むわけじゃない。気を紛らわせるために飲んでいるんだ。

「……っ……」

 思わず目頭が熱くなって来た。まだ一口しか飲んでいない。酔っ払うなんてあたしにはない。
 望くんが寝ているベッドで、あたしを愛してくれていた凌がいないことが、急激に寂しくなった。
 ダメだな、しばらく忘れていたのに。
 そこに居るのが凌だったらって……頭の中で考えている。
 ダメだダメだ。

 逃げ込む部屋もなくて、キッチンであたしは溢れてくる涙を何度も拭った。

「ごめん、先に寝ちゃって。歓迎会、まだしてもらってなかったね」

 望くんの声に肩が跳ねた。
 慌てて目元を拭って振り返ると、悲しげに笑う望くんがいた。

「ご、ごめんね。起こしちゃったね」
「俺も、ビールもらっていい?」
「あ、うん」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、望くんはベッドサイドの明かりだけ付けた。
 もしかしたら、あたしが泣いていたから、部屋の明かりをつけずにそうしてくれたのかもしれない。

 カシャっと栓を開けて、にっこり微笑んでくる望くんの前に座った。

「歓迎、はしてもらえてないんだろうけど、とりあえず乾杯っ」
「……うん、乾杯」

 望くんに気を使わせてしまっている。
 あたしは情けなくなってビールをちびちびと飲むしかない。こんなんじゃ、寛人のとこにいた方がよっぽど良いんじゃないのかな。
 落ち込んでしまっていると、テーブルに缶を静かに置いた望くんが、あたしの顔を覗きこんでくる。

「あのさ、俺は実智ちゃんと離れてからのこととかは分からないし、本当はすっげぇ知りたいけど、多分教えてくれないんだろうし、過去も今も未来も全部、俺は大好きな実智ちゃんだし、気持ちは変わることはないから。それだけは、覚えておいてほしい」

 真っ直ぐに、あたしの瞳を捉える望くんの瞳は真剣そのものだ。
 そんなに真っ直ぐな告白、受け止めるのには相当な勇気がいる。望くんの気持ちは良く分かった。だけどさ、あたしは望くんのことは好きにはならない。

 だってさ、まだ思い出すと涙が出てくるって、全然凌のことを忘れられていないってことだ。そんな気持ちのままでは、望くんのその真っ直ぐで純粋な気持ちを簡単には受け入れられない。
 気持ちが本気なほど、あたしは望くんのことを好きにはならない。

「酔った勢い……だったんだよね? この前の」
「……え」

 テーブル越しに望くんが近づく。

「お酒飲んじゃったし、酔った勢いのせいにしても良い?」

 そう言って、ゆっくりと視線を絡ませたままに唇に指が触れる。
 何をされるのか分かっているのに、動けずにあたしは近付く唇を受け止めた。
 やっぱり、望くんとのキスはアルコールのほろ苦い味がする。
 静かに目を閉じて、身を任せた。
 唇は繋がったままで、望くんがあたしを抱きしめに来る。

 触れないで。

 そんな約束、一瞬にして破られてしまった。

「俺のこと好きになってよ、実智ちゃん」

 何度も受け止めたキスの合間に、望くんは何回そう言っただろう。
 だけど、あたしは全部に首を振る。

 望くんのことは、好きにはならない。

 なんでそんなに頑なに思うんだろうって、自分でも分からなくなる。
 愛し合えていれば良いじゃないか。望くんの言いたいことはそれなんだと思う。
 だけど、愛し合えてるだけじゃダメなんだって。いつかその愛に終わりが来るかもしれないんだよ?

 若い望くんだったら尚更に、あたしよりも素敵な子が現れるかもしれないし、あたしに飽きてしまうかもしれない。これからいくらでも恋愛出来るんだから、望くんからずっと愛されるなんてことは不可能なんだ。

 また、傷つきたくないんだよ。信じていて、裏切られるなんて、もう、嫌なの。だったら、最初っから好きにならなければ良かったって、そう思うくらいに、あたしは凌のことを愛していたのかなって、気が付いた。

 だから、望くんのことは好きにならない。

 あたしは、もう恋愛は諦めたんだよ。

「……ごめん。酔った勢いでなんて、やっぱり俺は嫌だ。本当はすっげぇ実智ちゃんのこと抱きたいけど、我慢する……自分だけソファーで寝るとか無理しようとしないでよ。俺にはめちゃくちゃ拷問だけど、一緒にベッドで寝よう?」

 外しかけたあたしのパジャマのボタンを素早く止め直して、望くんはベッドへと潜り込んだ。
 トントンと、布団を半分だけ捲ってこちらをじっと見て待っている。
 その表情は、お預けを食らった子犬にしか見えない。さっきまでの男の顔はどこに行ってしまったのかと、口元が緩んでしまう。
 キスする顔と、あたしに喋りかける顔のギャップに、いけないとは分かっていながらも愛しさを感じてしまっている。

「……お邪魔します」
「どうぞ。って、俺のベッドじゃねーけど」

 照れているのか、薄暗いベッドサイドの灯りでも耳が赤くなっているのが分かった。
 反対側を向く望くんの背中。
 抱きしめてくれた温もりを思い出して、少しだけそばに寄ってみた。

「だーー! まじでそれ以上近付かないで! 襲うからね?!」

 完全に真っ赤な顔をして振り返った望くんに、あたしは申し訳なさを全面に出して「ごめん」と謝った。

 「ほんと、なんでそんなに可愛いの?」

 わ、また〝可愛い〟きた。
 そう言う望くんの拗ねた表情の方がきゅんとして可愛いんだってば。
 また背を向けてしまった望くんの背中を見て、あたしも背を向けた。
 望くんがそばにいるって、安心するかも。

 疲れもあったからか、その後すぐに眠ってしまったんだろう。
 次に目が覚めた時には、もうすっかり部屋の中が明るくなっていた。
 どうして、あたしなんか?
 きっと今まで周りに望くん好みの女の子がいなかっただけなんだ。だからいつまでもあたしに抱いた憧れを持ち続けちゃっているんだよ。
 幼い頃の初恋とは、忘れられないものだ。
 あたしも何かと思い出すのは、幼稚園の頃にお世話になったイケメン先生だ。あれが初恋だった。もうなんて名前の先生かも忘れてしまったけれど。ふと、元気にしているかなぁって思い出すことがある。
 思い出に浸っていると、視界に入り込んだ壁掛け時計の時刻に目を見開いた。

「やば。ゆっくりしすぎた」

 食器をシンクに置いて、オレンジにラップをかける。せっかく切っておいてくれたのに食べる時間がなかった。「ごめん」と心の中で呟き冷蔵庫へとしまった。

ーーーー
 今日も今日とて仕事は順調に終わる。
 ほっと一息ついてスマホを確認すると、メッセージが届いていた。

》お疲れ。今日どう?

 寛人からの飲みの誘い。
 昨日の今日とは有り難い。もうすでに望くんとの時間は少ないに越したことはないと悟った。

 あ、でも今日はマットレス買って帰んなきゃないな。あれってけっこう大きいよね。寛人に手伝ってもらおうかな。

》望くん用のマットレス買いたいんだけど、付き合ってくれない?
》マットレス? 良いけど。
》良かった。今日はもう終わるから駅前で待ってるね。
》おっけ。着いたら連絡して。

 了解っとスタンプを送信。
 帰り支度をすると、外へと出た。

 スプリングコートを羽織ってはいるけれど、今日は少し肌寒い。

 布団も無いと風邪を引かせちゃうよね。なんやかんや物入りだなぁ。一ヶ月って、中途半端な気がする。二、三日なら適当にやり過ごせそうだけど、一ヶ月ともなるとちゃんとした布団一式が欲しくなる。

 季節は着実に暖かくはなっているけれど、まだ夜や朝方は布団がないと寒い。夏だったらバスタオル一枚で済んだのにな。まぁ、可愛い弟の為と思えば仕方がない。

 寛人ってスポンサーもいるし。火事で色々物入りだろうからこの際揃えて貰えば良い。経費とかで。

「いや、それは無理でしょ」
「だよね」

 寛人と合流して、ホームセンターへと入って行く途中でキッパリと言われた。

「そりゃそうだわ。仕事とは全く関係ない個人のことだしね。経費が降りるわけがないのは分かっていたけど、ちょっと言ってみただけ」
「布団一式かぁ。俺のうちの持ってく?」
「え! いいの?」
「うちにあるし、別に使ってないし、この前まで望が使ってたのあるし。それで良いなら持ってくよ?」

 寝具コーナーの前で、商品を見るわけでもなく目の前の寛人に目を輝かせる。

「それでいーじゃん。お願いします」
「……ここ来た意味なくね?」
「あはは……飲み、行こっか?」

 出口に視線を移して笑ったあたしに、呆れた顔をしながらも寛人はしょうがねえなと笑ってくれた。

「とりあえず運んでからにしよう。飲んだら運転出来なくなるから」
「うん」

 頷いた瞬間に、スマホが震え出した。
 取り出して画面を見ると、〝望くん〟の文字。

「ちょっと待ってね」

 寛人にそう言ってあたしは通話をタップした。

「望くん? どうしたの?」
『今帰ってきたんだけどさ。俺、家の鍵持ってねぇ』

 若干、イラついているようなその声になんで? と疑問に思いながらも、あたしはあーっと額に手を当てた。

「そーだね、鍵かぁ」
「なに? スペアとかないの? 望入れないでいるってこと?」
『その声……』

「望くんさ、寛人の家まで来てくれないかな? 寛人がね、布団一式貸してくれるってから今から運ぶところなの」
『……布団? 別に俺ベッドでいいって』
「いや、そういうわけにはいかないし。とにかく来て! 待ってるからね」
『ちょっ!』

 聞こえかけた望くんの言葉も無視して、通話を終了させた。

 ベッドで一ヶ月も一緒には眠れない。望くんが我慢してくれていても、あたしがその優しさに甘えてしまいそうだから。それだけは絶対に避けたい。

「……と、いうわけで。今から望くんも来るのでよろしくお願いします」

 頭を下げるあたしに、寛人は驚いたように目を見開いた後に優しく笑った。

「マジで望のねぇちゃんみたいだな、実智。いいなぁ、あいつ。こんな可愛いねぇちゃんがいて」
「は?!」
「え?」
「……い、いや」

 今、可愛いって言った?
 何その不意打ち。今までそんなこと言ったことないよね? 望くんに言われてからたぶん可愛いに敏感になっているのかもしれない。

「あ……もしかして、照れたの?」

 俯くあたしを覗き込むように意地悪な笑みを浮かべる寛人は余裕な表情だ。

「めずらしーっ、可愛いなんて言われ慣れてるでしょ?」
「なんでよ! こんな歳になって可愛いなんて誰にも言われないって」
「そう? じゃあ俺がたまに言ってやるから」
「……まぁ、言われて悪い気はしないし、よろしく」
「ははっ、素直ー」

 あー、これが電話越しだったら完全にノックアウトだった。良かった、対面で。
 可愛いって言葉に免疫付けとかなくちゃ。

 ドクドクと鳴る心臓を落ち着かせながらあたしは息を大きく吸い込んでから吐き出した。
 高校時代からの友人だから、寛人とはなんでも気楽に話せる。本当にあたしにとって、なくてはならない存在だ。

 寛人の住んでいるマンションはあたしのアパートに比べるとかなりの差がある。まだ望くんの姿はなくて、部屋の中で待つことにした。

 広いエントランスの付いた玄関から入ってエレベーターに乗り込む。最上階とまではいかないが、そこそこ高い階の部屋からの夜景はかなりの絶景だ。さすが仕事の出来る独身男は違う。
 ここへ来る時は、決まって(しのぐ)と一緒にだったから、あたしにとってはあまりに思い出がありすぎる場所でもある。

「適当に座ってて」
「あ、ありがとう」

 コートを脱いで折り畳むと、ソファーに腰掛けた。

「俺、先に車に布団運んでくるから。望来たら中入れといて。飲みもん適当に冷蔵庫からどうぞ」
「え、あたしも手伝うよ?」
「大丈夫だって。ゆっくりしてきな。帰ったら後はしばらく望のお守りだぞ?」

 ククッと笑う寛人に、あたしは苦笑いをする。
 そうだね、気楽なのも今のうちだ。

「じゃあお言葉に甘える。なんでも飲んで良いの?」
「いいよー」

 寛人は答えながら別室へと消えていった。
 しばらく夜景を眺めて、ようやく冷蔵庫まで進んだところでインターフォンが鳴った。

 画面越しに望くんの姿が見えて、すぐにあたしは応えた。

「望くんいらっしゃい。上がってきて良いよー」

 一瞬画面の中の望くんが睨んでいたような気がしたけれど、あたしは気にせず冷蔵庫をあけて中を物色し始める。

 やっぱりここはビールかな。

 あたしの好きな銘柄のビールがここにはいつも常備されている。寛人のうちへ飲みに来ることが頻繁にあったことを物語っている。最近はほとんど来ることもなくなっていたのに、まだこうして揃えてくれていることがなんだか嬉しい。
 そう言えば、あたしが初めて酒に呑まれてしまった日以来かもしれない。ここへ来るのは。

 二度目のインターフォンがなって、あたしはビールをテーブルに置くと玄関へと急いだ。

「おかえり、望くん」

 ドアを開けて迎え入れたあたしを、何も言わずに望くんが抱きしめてくる。

「……ちょ……、望くん?」
「……なんでここに居んの?」

 消えそうな声で呟かれる。

「え? だから、望くんの布団一式を寛人が貸してくれるって言うから」
「……実は冴島(さえじま)さんと付き合ってるってことないよね?」
「……は?!」

 その発言に、あたしは隙を見て望くんから離れた。眉が目一杯下がって悔しそうに唇を噛む望くんの表情に、困惑する。

「ないよ? それは絶対にない。寛人は友達、大親友なの。付き合うとかないし」
「……ならいいけど。二人きりでとか会わないでほしい」

 なんでよ?!

「冴島さんは?」
「望くんの布団、車に運んでくれてる」
「そう……あ、あれ!実智ちゃん飲もうとしてた?」

 靴を脱いで慣れたように部屋の中へと上がり込む望くんは、テーブルの上に置いたビールを見てあたしに聞いてくる。

「え、ああ、うん」

 うちの冷蔵庫の中に入っているのと同じビールだからね。すぐにあたしが飲む物だと分かったんだな。

「ダメ! ここで飲まないで」
「は? なんで?」
「なんでも! 飲むなら帰ってからにして」

 テーブルの上のビールを片手に取り、イラついた表情であたしから遠ざけていく。

「寛人が飲んで良いって言ったんだからいいの! 望くんも貰ったら? 色々入ってるよ。それで良いならそれあげるし」

 取り上げられたビールは諦めて同じものを冷蔵庫の中から取り出す。

「あー! ダメだってば!」

 プシュッと、望くんの制止も構わずにあたしは素早くプルタブを起こしてニヤリと笑うと、ごくごくと飲んだ。

「っあー、美味(うま)っ♡」

 飲んだもん勝ちだ。
 勝ち誇った顔をして望くんを見れば、悔しそうに缶を握りしめている。

「ははははっ! なんだよ、お前ら、マジで仲良いんだな」

 いつの間にか戻ってきていた寛人が笑いながら近づいて来た。

「準備出来たよ。その続きは運び終わったらにしようか。望も一緒に飲みに行く?」

 え?!

 寛人が望くんに微笑むから、あたしは思わず行くと言わないでほしいと願ってしまう。

 せっかく望くんから解放される為の飲みなのに。寛人は人が良すぎるでしょ。まぁ、あたしに押し付けて、余裕があるからの発言なのかもしれないけれど。
 ジトっと望くんの反応を伺っていると、やっぱり一瞬あたしを睨んでから盛大なため息を吐き出している。

「……いや、俺今日早かったし眠いんで先に休みます」
「あー、そういやお前今朝相当早かったよな」
「……眠いんで早く送ってください」
「ああ、良いよ。可愛い後輩の為だからね」

 にっこりと笑顔の寛人に、望くんは目を合わせる事なく玄関へと向かった。

「実智も、行くよ」
「あ……うん」

 望くん、朝早いなぁとは思っていたけど、いつもその時間じゃないのかな?
「じゃあ、おやすみなさい」と、望くんは家に着くなりシャワーを浴びて、寛人の手によって綺麗に敷かれた布団の中にすっぽりとおさまってしまった。

「おやすみ、望。行こっか、実智」
「……あ、うん。じゃあ、ちょっと行ってくるね、望くん」

 望くんの背中に声をかけて、あたしは寛人とアパートから出た。

 時刻は二十時半。寝るの早くない?

「……寛人の会社ってそんなに朝早いの?」
「え? いや、普通じゃない? 九時頃までには定位置にいれば誰も文句言わないけど」
「……え、あー、じゃあ新人だとやっぱり早めにきてやる事たくさんあったり……」

 七時にうちを出たとして、寛人の勤め先まではどうゆっくり進んでも、三十分あれば着いてしまう。

「いや? うちそこまで新人任せにしてないし」

 じゃあ、望くんはなんでそんなに早く。

「ああ、もしかして、望?」

 悩むあたしを見て、寛人が苦笑いする。

「あいつ今朝七時半にうちに来てさー、目の下にクマ作ってるし時間まで置いてやったんだよ。俺が起きてたからか、頑なに眠りはしなかったんだけど。だからさっきあんな早く寝たんじゃない? 昨日遅くまでゲームとかしてなかった? あいついっつもやってたから。相当眠かったんじゃない?」

 あー、今朝は寛人の所に行ったんだ。
 目の下にクマって。
 さっきインターフォン越しに見えた表情は眠気で目がすわっていたからか。

 寝せてあげれなかったのって、完全にあたしのせいだよね。あたしばっかり爽やかな朝を迎えてしまって。

「じゃあ、今日はちょっと遅くまで付き合ってもらおうかな」

 せっかくなら、あたしのいない空間でぐっすり眠ってほしい。

「優しいねぇちゃんだね、ほんと。俺はどこまでも付き合うよ」
「ありがと。寛人だってめちゃくちゃ優しい上司じゃん。やっぱできる男は違うわー」
「お前、奢られる気満々だな」
「あ、分かった? お腹空いちゃった。いつものとこ行こうよ」

 結局いつもの和洋居酒屋で寛人と仕事のことや望くんのこと、懐かしい思い出話に花を咲かせて、時刻を見ればとっくに日付を跨いでいた。

帰り道、お酒で温まった体が外の冷気で冷えて身震いする。

「寒い?」
「あ、平気。ありがと」

 すぐに気が付いてくれる寛人は、本当に優しいと思う。

「……実智、聞いても良いか?」
「ん?」

 歩きながら見上げた寛人の顔は少し戸惑っているように感じる。

(しのぐ)のこと、最近はもう考えなくなった?」

 思わず、寛人から視線を外す。

 なんと答えたら良いのか分からない。仕事も忙しいし、寛人や友香と飲んでいる時間が楽しいから、凌のことを考える時間は確実に減っていた。

 だけど、望くんがうちに来てあたしのことを好きだと優しくしてくれて、温もりを感じて、思い出してしまった。凌と過ごした大切な日々。

 黙ったまま歩くあたしの頭を、寛人の大きな手が優しく撫でてくれる。

「ごめん、まだ聞くの早かったな。忘れて」

 情けなくなった。いつまでも未練たらたらで。

 あたしは凌を忘れなくちゃいけないのに、まだ頭の中に、心の中に、凌への想いが居座っていると思うと、途端に心臓を鷲掴みにでもされた様に苦しくなる。

「……何年、経ったんだっけ……」

 凌に結婚の報告を打ち明けられた日から。

「……今日でちょうど一年だよ」
「……はは、寛人すごいね、よく覚えてるよ。あたし一年前の今日だったなんて覚えてない」

 そして、もう何年も何十年も経ってしまったかのように遠い昔のことのように感じていたけれど、まだ一年なんだ。

「だから、今日飲みに誘ったんじゃん。一年前の今日、実智が死にそうな顔して俺の前に現れた時、マジでどうしようかと思った」


──ごめん、実智。俺、結婚するんだ


 凌に突然報告された。

 当たり前のように凌の隣にぴったりとくっつく背が低くてふわふわと巻いた髪の毛にぱっちりした瞳。女の子らしいと言う言葉がぴったり当てはまる子が、少しだけ怯えた目をしてあたしのことを見る。

 ああ、守ってあげたい。
 きっとそう思ったんだろうなって、感じた。

 だから、あたしは笑顔で「おめでとう」って言ったんだよ。

 不安な顔が一気に晴れていったその子は、あたしが凌になんの未練もないのだと勘違いして馴れ馴れしく話しかけてきた。邪険にも出来ないし、あたしは明るく振る舞うことしかできなかった。

 だけど、悲しみは留めておくことなど出来なくて……辿り着いたのがいつも話を聞いてくれる寛人のところだった。友香も駆け付けてくれて、三人で飲んで、凌のグチを吐いて、励ましてもらって、あたしはその日初めて酒に呑まれた。

「ごめんね、寛人。たぶんもう大丈夫なんだけどさ、大丈夫……なんだけど……」

 やっぱり、思い出すと辛い。

「無理して笑うなよ。俺の前では素直でいていいから。泣きたいなら泣け。我慢すんな」

 そっと撫でてくれる手が優しい。寛人はいつも優しい。

「……なんであたし、凌のこと好きになっちゃったんだろう」

 あんなに大好きだった。幸せだった。なのに、こんな終わりが来るなんて考えもしなかった。
 だったら、最初から、凌のことなんか、好きにならなければ良かったって、一年前も思った気がする。

「凌のこと、否定しないでやってよ。結果はこうなってしまったけど、実智は凌と過ごした十年さ、幸せそうに見えてたよ?」

 微笑む寛人の顔が込み上げてくる涙で歪む。

「だから、これから先は凌よりももっともっと、実智には幸せになってもらわないと、俺困るんだよね」
「……え」
「だってさ、俺にとって、凌も実智も大切な友達だから。だからさ、まだまだ忘れなくてもいいし、辛いんなら泣いてもいいよ。俺は実智が幸せを掴むまで、ちゃんと見届けるから。いつでも頼ってね。ほら、あいつもいるしさ」

 瞬きと共に涙が頬を伝うと、目の前には悪戯に笑う寛人の笑顔。
 すぐに、友香のことを思い出した。

「元気だけが取り柄の大親友、友香だよね」
「そうそう」
「うん、……うん、うーーっ」

 優しさが沁みる。あったかい。あたしは友達に恵まれている。

「ありゃ……、泣くなってば」

 しょうがねぇなと寛人は呆れ笑いをしながら、あたしの顔をハンカチで拭ってくれた。

「お前はほんと、変わんないよね。子供のまんま」
「寛人はずっとあたしのこと見てきてるからでしょ? 歳は三十だけど気持ちは高校生のままだよ。寛人や友香といる時は余計に感じる」
「あれ?! あ! そーじゃんっ、実智、誕生日じゃん!」

 あたしの〝三十歳〟発言に慌て始める寛人に、細目を向けた。

 あたしの誕生日は友達の誰よりも早い四月十二日。春の何かしら移り変わるこの季節は、誕生日を忘れられやすい。現に新入社員が来たり人事異動とかあったり、慌ただしい時期でもあるから余計に。

「やばい。もうだいぶ過ぎてんじゃん。望が来たりなんだりで忘れてたー」

 素直に忘れていたと言ってくれる所は、寛人らしいよね。

「今度友香も混ぜて誕生日会やろうぜ。三十じゃん! 盛大にやろう」
「……なんだか、二十九歳と言う余裕を感じる言い方だな」
「は?! んなことねーし。どうせみんななるんだよ、三十に」

 寛人は秋まで二十代。友香は早生まれだから来年二月まで二十代。
 やっぱりあたしだけ三十代。

「誕生日なんて年に一度だよ? 歳は嫌でもとるんだよ。今が自分の最年少。そう思えばよくない? 周りは関係ないでしょ」
「……今が、最年少」

 まぁ、そうだね。
 望くんだって今が最年少の二十三歳。

 それより若くなる事はないんだ。二十四になって二十五になって。ほら、三十なんてすぐ……あれ、そしたらあたしは?七歳の歳の差があるから……。

 指折り数えて頭を抱えると、思考をシャットダウンした。

「誕生日会、友香と場所とか予定立てとくな。実智もまた連絡ちょうだいね。おやすみ」
「あ、ありがと。あと、今日はごちそうさま」

 振り返った寛人が微笑むから、「おやすみ」と手を振った。


ーーーーー

 アパートのドアの鍵穴に鍵を差し込んで静かに回す。

 あれ?部屋が明るい。

 そっと玄関を開けてのぞいたその先は明かりが煌々と付いている。
 すっかり寝ているもんだと思っていた望くんが、まさか起きてる?
 まずい、と、あたしはすぐ横の姿見で自分の顔を覗き見た。あー、やっぱりひどい顔してる。
 寛人にはいくら見せても、もう慣れているからいいけど、こんな顔さすがに望くんには見せられない。

 そっと靴を脱いで、死角にいて姿の見えない望くんが、突然飛びついてきたりしないように警戒しながら声をかけた。

「ただいまぁ、望くん起きてたの?」
「遅い! 遅すぎない? こんな時間まで冴島さんとどこに居たんだよっ……て、え? なに、どうしたの?」

 帰りの遅い娘に怒鳴る父親かって思うくらいの喧騒で近づいてきている望くんの声に、泣き腫らした顔を見られないように両手で覆って、視線は足元。

 視界に入る望くんの足が左右に動いて困っているのか慌て始めている様に見える。

「どうしたの? 大丈夫、実智ちゃ……あ! やべ……」

 ボトッ!

 ボト?

 望くんの足元に、重く音を立てて落ちたそれは、あたりに真っ赤な雫を飛び散らす。
 白い靴下を履いていた望くんの足にも見事に染みを作った。

 指の隙間から、何が落ちたのかと確かめようとして、あたしはとんでもないものを見てしまう。

 ギロリと、わずかに落ちた反動で潰れかけている目玉が、こちらを見ていた。

 全身の血の気が引くように背中の辺りがゾッと寒くなる。

「い、………いぎぃやぁぁぁぁぁ!!!」

 夜中だと言うことを瞬時に思い出して、自らの口を塞いで最小の声で叫んだ。そのまま慌ててバスルームへと駆け込む。

 近づく足音、コンコンっとノックをされて、耳まで波打って鳴り響いていた心臓の音が、一瞬止まった様に体が震えた。

「実智ちゃんごめんー。驚かせるつもりなかったんだけど。これ洗ってー」

 呑気な声が聞こえてくるから、そっと扉を開けた。

「実智ちゃん、ほら、この前買ったゼリー食べてたんだよ。実智ちゃんが変な格好してるから思わず目玉落としちゃった。あーあ、あれめちゃくちゃ美味いとこだったのに」

 ガッカリと肩を落とした望くんが赤く染まってしまった靴下を流しで洗おうとしている。

 その様子を傍観して、しばらく働かなくなった頭を振るわせると、あたしはスーパーで買った目玉入りのゼリーの事を思い出した。

 あれか!!

 本物の目玉じゃなかったことに、安心と呆れのため息が湧き上がってくる。

「……ほら、貸して。だいぶ色濃いから漂白してあげるよ」

 持ったままでいたバックと靴下を交換する。

「あ、ありがとう」と、望くんはすぐにあたしの後ろに避けてくれた。

 赤く染まってしまった靴下の応急処置を済ませたあたしが振り返ると、まだそこにいた望くんがあたしを切なそうな顔をして見ている。

「大丈夫だよ。すぐに洗ったから取れるはず。心配しないで」
「……俺が心配なのは、靴下じゃなくて、実智ちゃんの目が赤くなってることなんだけど」

 そっと頬に触れて、そのまま指で目元をなぞる望くんの仕草に、ドキドキと心臓が早くなる。

 まずい……せっかくバレないように隠していたのに、目玉ゼリーのせいですっかり隠すのを忘れてしまっていた。

「驚きすぎて涙出ちゃったんだよ! 恥ずかしいからあんま見なくていーから」

 咄嗟に望くんの手を払いのけて、あたしは苦笑いする。

「冴島さんに泣かされたの?」
「え?」

 睨むような鋭い視線を向けてくる望くんに、ドキッとしてしまいながらも、あたしは首を振った。

「違う違う。寛人はその逆。いつも泣いてるあたしを慰めてくれるの。だから、寛人はなにも悪くないから、心配しないで。今朝もお世話になったんでしょ? 望くん。ごめんね、狭いベッドじゃ寝れなかったよね」

 望くんの横をすり抜けて、あたしは部屋へと戻った。

「俺が心配なのは、実智ちゃんだってば」

 すぐに後ろから、包み込むように抱きしめてくる望くんに、驚いて動けなくなった。

「なんで泣いたの? なにがあったの? 実智ちゃんのすぐそばにいれると思ってるのに、全然分かんない。こんなに近くにいるはずなのに、俺……実智ちゃんのことなんも知らないって……辛すぎるんだけど」

 ぎゅっと強くなる腕に、そっと手を添えた。

 好きな人がどうして泣いているのか。
 知りたいよね。好きなら尚更に、なんだって知りたい。そう思うのは当然のことだと思う。
 あたしだってずっとそうだった。
 だけどさ。

「……望くん、約束。全然守れてないよ」

 添えた手で望くんの手を避けて、あたしは着っぱなしだったスプリングコートを脱いでハンガーへとかけた。


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、キャップを開ける。

「あたしが泣いていた理由を教えたとしても、望くんにはなにも出来ないし、本当にもうなんでもないことだから」

 だから……もう何も聞いてほしくない。

 一口飲んでから望くんの方へと視線を向けると、悔しそうに眉を顰めてあたしから視線を逸らす望くんに、胸が痛んだ。

 ああ、あたし、今嫌な言い方した。

「……ごめん」

 泣きそうに、消えそうに、望くんはポツリと呟いて布団の中へと潜ってしまった。

 望くんの気持ちにはどうしたって応えてあげれない。だから、凌とのことを話したって仕方がない。

 もう過ぎたことだし、今更何を話したって、後悔したって、凌は戻ってこない。
 戻ってきて欲しいとも思っていないから、未来のない話をしたって仕方がない。

 小さくため息を吐き出して、あたしは部屋の明かりを消してバスルームへと向かった。

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