だから、好きとは言わない

3 終わった、恋愛

 朝目が覚めると、望くんの姿はもうすでになかった。
 部屋の中を漂う柑橘系の香りに、テーブルの上へと視線を送った。昨日お買い得だとおススメされて買ったオレンジがくし形に切られている。朝日がちょうど当たって、お皿の上で煌めいていた。
 ラップの場所が分からなかったのかな?
 そのままに置かれたオレンジの香りが余す事なく充満していた。甘酸っぱい空気を胸いっぱいに吸い込んで、あたしは起き上がった。
 めっちゃ爽やかな朝だ。
 立ち上がってカーテンを引きながら背伸びをする。あんなに疲れていた昨日が嘘みたいにぐっすりと眠れたあたしは、調子の良い肌にメイクを施して髪を整える。

 朝食には食パンを。
 望くんは、オレンジだけしか食べていかなかったのかな? しかもたぶん、一切れ。

 オレンジを咥えている望くんの姿を想像して口元が緩む。

 あー、なんだかあたし変だ。なんでこんなに望くんのことを考えると嬉しくなるんだろう。
 小さかった望くんが可愛くて可愛くて仕方なかったあの頃を思い出しているからかもしれない。
 そんな望くんにあんなに真剣な告白をされてしまうのは、正直困ってしまう。

 なんであたしなんか?

 きっと今まで周りに望くん好みの女の子がいなかっただけなんだ。だからいつまでもあたしに抱いた憧れを持ち続けちゃっているんだよ。
 幼い頃の初恋とは、忘れられないものだ。
 あたしも何かと思い出すのは、幼稚園の頃にお世話になったイケメン先生だ。あれが初恋だった。もうなんて名前の先生かも忘れてしまったけれど。ふと、元気にしているかなぁって思い出すことがある。
 思い出に浸っていると、視界に入り込んだ壁掛け時計の時刻に目を見開いた。

「やば。ゆっくりしすぎた」

 食器をシンクに置いて、オレンジにラップをかける。せっかく切っておいてくれたのに食べる時間がなかった。「ごめん」と心の中で呟き冷蔵庫へとしまった。


 今日も今日とて仕事は順調に終わる。
 ほっと一息ついてスマホを確認すると、メッセージが届いていた。

《お疲れ。今日どう?

 寛人からの飲みの誘い。
 昨日の今日とは有り難い。もうすでに望くんとの時間は少ないに越したことはないと悟った。

 あ、でも今日はマットレス買って帰んなきゃないな。あれってけっこう大きいよね。寛人に手伝ってもらおうかな。

》望くん用のマットレス買いたいんだけど、付き合ってくれない?
《マットレス? 良いけど。
》良かった。今日はもう終わるから駅前で待ってるね。
《おっけ。着いたら連絡して。

 了解っとスタンプを送信。
 帰り支度をすると、外へと出た。

 スプリングコートを羽織ってはいるけれど、今日は少し肌寒い。

 布団も無いと風邪を引かせちゃうよね。なんやかんや物入りだなぁ。一ヶ月って、中途半端な気がする。二、三日なら適当にやり過ごせそうだけど、一ヶ月ともなるとちゃんとした布団一式が欲しくなる。
 季節は着実に暖かくはなっているけれど、まだ夜や朝方は布団がないと寒い。夏だったらバスタオル一枚で済んだのにな。まぁ、可愛い弟の為と思えば仕方がない。
 寛人ってスポンサーもいるし。火事で色々物入りだろうからこの際揃えて貰えば良い。経費とかで。

「いや、それは無理でしょ」
「だよね」

 寛人と合流して、ホームセンターへと入って行く途中でキッパリと言われた。

「そりゃそうだわ。仕事とは全く関係ない個人のことだしね。経費が降りるわけがないのは分かっていたけど、ちょっと言ってみただけ」
「布団一式かぁ。俺のうちの持ってく?」
「え! いいの?」
「うちにあるし、別に使ってないし、この前まで望が使ってたのあるし。それで良いなら持ってくよ?」

 寝具コーナーの前で、商品を見るわけでもなく目の前の寛人に目を輝かせる。

「それでいーじゃん。お願いします」
「……ここ来た意味なくね?」
「あはは……飲み、行こっか?」

 出口に視線を移して笑ったあたしに、呆れた顔をしながらも寛人はしょうがねえなと笑ってくれた。

「とりあえず運んでからにしよう。飲んだら運転出来なくなるから」
「うん」

 頷いた瞬間に、スマホが震え出した。
 取り出して画面を見ると、〝望くん〟の文字。

「ちょっと待ってね」

 寛人にそう言ってあたしは通話をタップした。

「望くん? どうしたの?」
『今帰ってきたんだけどさ。俺、家の鍵持ってねぇ』

 若干、イラついているようなその声になんで? と疑問に思いながらも、あたしはあーっと額に手を当てた。

「そーだね、鍵かぁ」
「なに? スペアとかないの? 望入れないでいるってこと?」
『その声……』

「望くんさ、寛人の家まで来てくれないかな? 寛人がね、布団一式貸してくれるってから今から運ぶところなの」
『……布団? 別に俺ベッドでいいって』
「いや、そういうわけにはいかないし。とにかく来て! 待ってるからね」
『ちょっ!』

 聞こえかけた望くんの言葉も無視して、通話を終了させた。

 ベッドで一ヶ月も一緒には眠れない。望くんが我慢してくれていても、あたしがその優しさに甘えてしまいそうだから。それだけは絶対に避けたい。

「……と、いうわけで。今から望くんも来るのでよろしくお願いします」

 頭を下げるあたしに、寛人は驚いたように目を見開いた後に優しく笑った。

「マジで望のねぇちゃんみたいだな、実智。いいなぁ、あいつ。こんな可愛いねぇちゃんがいて」
「は⁉」
「え?」
「……い、いや」

 今、可愛いって言った?
 何その不意打ち。今までそんなこと言ったことないよね? 望くんに言われてからたぶん可愛いに敏感になっているのかもしれない。

「あ……もしかして、照れたの?」

 俯くあたしを覗き込むように意地悪な笑みを浮かべる寛人は余裕な表情だ。

「めずらしーっ、可愛いなんて言われ慣れてるでしょ?」
「なんでよ! こんな歳になって可愛いなんて誰にも言われないって」
「そう? じゃあ俺がたまに言ってやるから」
「……まぁ、言われて悪い気はしないし、よろしく」
「ははっ、素直ー」

 あー、これが電話越しだったら完全にノックアウトだった。良かった、対面で。
 可愛いって言葉に免疫付けとかなくちゃ。
 ドクドクと鳴る心臓を落ち着かせながらあたしは息を大きく吸い込んでから吐き出した。
 高校時代からの友人だから、寛人とはなんでも気楽に話せる。本当にあたしにとって、なくてはならない存在だ。

 寛人の住んでいるマンションはあたしのアパートに比べるとかなりの差がある。まだ望くんの姿はなくて、部屋の中で待つことにした。
 広いエントランスの付いた玄関から入ってエレベーターに乗り込む。最上階とまではいかないが、そこそこ高い階の部屋からの夜景はかなりの絶景だ。さすが仕事の出来る独身男は違う。
 ここへ来る時は、決まって(しのぐ)と一緒にだったから、あたしにとってはあまりに思い出がありすぎる場所でもある。

「適当に座ってて」
「あ、ありがとう」

 コートを脱いで折り畳むと、ソファーに腰掛けた。

「俺、先に車に布団運んでくるから。望来たら中入れといて。飲みもん適当に冷蔵庫からどうぞ」
「え、あたしも手伝うよ?」
「大丈夫だって。ゆっくりしてきな。帰ったら後はしばらく望のお守りだぞ?」

 ククッと笑う寛人に、あたしは苦笑いをする。
 そうだね、気楽なのも今のうちだ。

「じゃあお言葉に甘える。なんでも飲んで良いの?」
「いいよー」

 寛人は答えながら別室へと消えていった。
 しばらく夜景を眺めて、ようやく冷蔵庫まで進んだところでインターフォンが鳴った。

 画面越しに望くんの姿が見えて、すぐにあたしは応えた。

「望くんいらっしゃい。上がってきて良いよー」

 一瞬画面の中の望くんが睨んでいたような気がしたけれど、あたしは気にせず冷蔵庫をあけて中を物色し始める。

 やっぱりここはビールかな。

 あたしの好きな銘柄のビールがここにはいつも常備されている。寛人のうちへ飲みに来ることが頻繁にあったことを物語っている。最近はほとんど来ることもなくなっていたのに、まだこうして揃えてくれていることがなんだか嬉しい。
 そう言えば、あたしが初めて酒に呑まれてしまった日以来かもしれない。ここへ来るのは。

 二度目のインターフォンがなって、あたしはビールをテーブルに置くと玄関へと急いだ。

「おかえり、望くん」

 ドアを開けて迎え入れたあたしを、何も言わずに望くんが抱きしめてくる。

「……ちょ……、望くん?」
「……なんでここに居んの?」

 消えそうな声で呟かれる。

「え? だから、望くんの布団一式を寛人が貸してくれるって言うから」
「……実は冴島(さえじま)さんと付き合ってるってことないよね?」
「……は⁉」

 その発言に、あたしは隙を見て望くんから離れた。眉が目一杯下がって悔しそうに唇を噛む望くんの表情に、困惑する。

「ないよ? それは絶対にない。寛人は友達、大親友なの。付き合うとかないし」
「……ならいいけど。二人きりでとか会わないでほしい」

 なんでよ⁉

「冴島さんは?」
「望くんの布団、車に運んでくれてる」
「そう……あ、あれ! 実智ちゃん飲もうとしてた?」

 靴を脱いで慣れたように部屋の中へと上がり込む望くんは、テーブルの上に置いたビールを見てあたしに聞いてくる。

「え、ああ、うん」

 うちの冷蔵庫の中に入っているのと同じビールだからね。すぐにあたしが飲む物だと分かったんだな。

「ダメ! ここで飲まないで」
「は? なんで?」
「なんでも! 飲むなら帰ってからにして」

 テーブルの上のビールを片手に取り、イラついた表情であたしから遠ざけていく。

「寛人が飲んで良いって言ったんだからいいの! 望くんも貰ったら? 色々入ってるよ。それで良いならそれあげるし」

 取り上げられたビールは諦めて同じものを冷蔵庫の中から取り出す。

「あー! ダメだってば!」

 プシュッと、望くんの制止も構わずにあたしは素早くプルタブを起こしてニヤリと笑うと、ごくごくと飲んだ。

「っあー、美味(うま)っ♡」

 飲んだもん勝ちだ。
 勝ち誇った顔をして望くんを見れば、悔しそうに缶を握りしめている。

「ははははっ! なんだよ、お前ら、マジで仲良いんだな」

 いつの間にか戻ってきていた寛人が笑いながら近づいて来た。

「準備出来たよ。その続きは運び終わったらにしようか。望も一緒に飲みに行く?」

 え⁉

 寛人が望くんに微笑むから、あたしは思わず行くと言わないでほしいと願ってしまう。
 せっかく望くんから解放される為の飲みなのに。寛人は人が良すぎるでしょ。まぁ、あたしに押し付けて、余裕があるからの発言なのかもしれないけれど。
 ジトっと望くんの反応を伺っていると、やっぱり一瞬あたしを睨んでから盛大なため息を吐き出している。

「……いや、俺今日早かったし眠いんで先に休みます」
「あー、そういやお前今朝相当早かったよな」
「……眠いんで早く送ってください」
「ああ、良いよ。可愛い後輩の為だからね」

 にっこりと笑顔の寛人に、望くんは目を合わせる事なく玄関へと向かった。

「実智も、行くよ」
「あ……うん」

 望くん、朝早いなぁとは思っていたけど、いつもその時間じゃないのかな?

「じゃあ、おやすみなさい」と、望くんは家に着くなりシャワーを浴びて、寛人の手によって綺麗に敷かれた布団の中にすっぽりとおさまってしまった。

「おやすみ、望。行こっか、実智」
「……あ、うん。じゃあ、ちょっと行ってくるね、望くん」

 望くんの背中に声をかけて、あたしは寛人とアパートから出た。

 時刻は二十時半。寝るの早くない?

「……寛人の会社ってそんなに朝早いの?」
「え? いや、普通じゃない? 九時頃までには定位置にいれば誰も文句言わないけど」
「……え、あー、じゃあ新人だとやっぱり早めにきてやる事たくさんあったり……」

 七時にうちを出たとして、寛人の勤め先まではどうゆっくり進んでも、三十分あれば着いてしまう。

「いや? うちそこまで新人任せにしてないし」

 じゃあ、望くんはなんでそんなに早く。

「ああ、もしかして、望?」

 悩むあたしを見て、寛人が苦笑いする。

「あいつ今朝七時半にうちに来てさー、目の下にクマ作ってるし時間まで置いてやったんだよ。俺が起きてたからか、頑なに眠りはしなかったんだけど。だからさっきあんな早く寝たんじゃない? 昨日遅くまでゲームとかしてなかった? あいついっつもやってたから。相当眠かったんじゃない?」

 あー、今朝は寛人の所に行ったんだ。
 目の下にクマって。
 さっきインターフォン越しに見えた表情は眠気で目がすわっていたからか。

 寝せてあげれなかったのって、完全にあたしのせいだよね。あたしばっかり爽やかな朝を迎えてしまって。

「じゃあ、今日はちょっと遅くまで付き合ってもらおうかな」

 せっかくなら、あたしのいない空間でぐっすり眠ってほしい。

「優しいねぇちゃんだね、ほんと。俺はどこまでも付き合うよ」
「ありがと。寛人だってめちゃくちゃ優しい上司じゃん。やっぱできる男は違うわー」
「お前、奢られる気満々だな」
「あ、分かった? お腹空いちゃった。いつものとこ行こうよ」

 結局いつもの和洋居酒屋で寛人と仕事のことや望くんのこと、懐かしい思い出話に花を咲かせて、時刻を見ればとっくに日付を跨いでいた。

 帰り道、お酒で温まった体が外の冷気で冷えて身震いする。

「寒い?」
「あ、平気。ありがと」

 すぐに気が付いてくれる寛人は、本当に優しいと思う。

「……実智、聞いても良いか?」
「ん?」

 歩きながら見上げた寛人の顔は、少し戸惑っているように感じる。

(しのぐ)のこと、最近はもう考えなくなった?」

 思わず、寛人から視線を外す。

 なんと答えたら良いのか分からない。仕事も忙しいし、寛人や友香と飲んでいる時間が楽しいから、凌のことを考える時間は確実に減っていた。
 だけど、望くんがうちに来てあたしのことを好きだと優しくしてくれて、温もりを感じて、思い出してしまった。凌と過ごした大切な日々。
 黙ったまま歩くあたしの頭を、寛人の大きな手が優しく撫でてくれる。

「ごめん、まだ聞くの早かったな。忘れて」

 情けなくなった。いつまでも未練たらたらで。
 あたしは凌を忘れなくちゃいけないのに、まだ頭の中に、心の中に、凌への想いが居座っていると思うと、途端に心臓を鷲掴みにでもされた様に苦しくなる。

「……何年、経ったんだっけ……」

 凌に結婚の報告を打ち明けられた日から。

「……今日でちょうど一年だよ」
「……はは、寛人すごいね、よく覚えてるよ。あたし一年前の今日だったなんて覚えてない」

 そして、もう何年も何十年も経ってしまったみたいに遠い昔のことのように感じていた。それなのに、まだ一年なんだ。

「だから、今日飲みに誘ったんじゃん。一年前の今日、実智が死にそうな顔して俺の前に現れた時、マジでどうしようかと思った」


ーーごめん、実智。俺、結婚するんだーー


 凌に突然報告された。

 当たり前のように凌の隣にぴったりとくっつく背が低くてふわふわと巻いた髪の毛にぱっちりした瞳。女の子らしいと言う言葉がぴったり当てはまる子が、少しだけ怯えた目をしてあたしのことを見る。

 ああ、守ってあげたい。
 きっとそう思ったんだろうなって、感じた。

 だから、あたしは笑顔で「おめでとう」って言ったんだよ。

 不安な顔が一気に晴れていったその子は、あたしが凌になんの未練もないのだと勘違いして馴れ馴れしく話しかけてきた。邪険にも出来ないし、あたしは明るく振る舞うことしかできなかった。

 だけど、悲しみは留めておくことなど出来なくて……辿り着いたのがいつも話を聞いてくれる寛人のところだった。友香も駆け付けてくれて、三人で飲んで、凌のグチを吐いて、励ましてもらって、あたしはその日初めて酒に呑まれた。

「ごめんね、寛人。たぶんもう大丈夫なんだけどさ、大丈夫……なんだけど……」

 やっぱり、思い出すと辛い。

「無理して笑うなよ。俺の前では素直でいていいから。泣きたいなら泣け。我慢すんな」

 そっと撫でてくれる手が優しい。寛人はいつも優しい。

「……なんであたし、凌のこと好きになっちゃったんだろう」

 あんなに大好きだった。幸せだった。なのに、こんな終わりが来るなんて考えもしなかった。
 だったら、最初から、凌のことなんか、好きにならなければ良かったって、一年前も思った気がする。

「凌のこと、否定しないでやってよ。結果はこうなってしまったけど、実智は凌と過ごした十年さ、幸せそうに見えてたよ?」

 微笑む寛人の顔が込み上げてくる涙で歪む。

「だから、これから先は凌よりももっともっと、実智には幸せになってもらわないと、俺困るんだよね」
「……え」
「だってさ、俺にとって、凌も実智も大切な友達だから。だからさ、まだまだ忘れなくてもいいし、辛いんなら泣いてもいいよ。俺は実智が幸せを掴むまで、ちゃんと見届けるから。いつでも頼ってね。ほら、あいつもいるしさ」

 瞬きと共に涙が頬を伝うと、目の前には悪戯に笑う寛人の笑顔。
 すぐに、友香のことを思い出した。

「元気だけが取り柄の大親友、友香だよね」
「そうそう」
「うん、……うん、うーーっ」

 優しさが沁みる。あったかい。あたしは友達に恵まれている。

「ありゃ……、泣くなってば」

 しょうがねぇなと寛人は呆れ笑いをしながら、あたしの顔をハンカチで拭ってくれた。

「お前はほんと、変わんないよね。子供のまんま」
「寛人はずっとあたしのこと見てきてるからでしょ? 歳は三十だけど気持ちは高校生のままだよ。寛人や友香といる時は余計に感じる」
「あれ⁉ あ! そーじゃんっ、実智、誕生日じゃん!」

 あたしの〝三十歳〟発言に慌て始める寛人に、細目を向けた。

 あたしの誕生日は友達の誰よりも早い四月十二日。春の何かしら移り変わるこの季節は、誕生日を忘れられやすい。現に新入社員が来たり人事異動とかあったり、慌ただしい時期でもあるから余計に。

「やばい。もうだいぶ過ぎてんじゃん。望が来たりなんだりで忘れてたー」

 素直に忘れていたと言ってくれる所は、寛人らしいよね。

「今度友香も混ぜて誕生日会やろうぜ。三十じゃん! 盛大にやろう」
「……なんだか、二十九歳と言う余裕を感じる言い方だな」
「は⁉ んなことねーし。どうせみんななるんだよ、三十に」

 寛人は秋まで二十代。友香は早生まれだから来年二月まで二十代。
 やっぱりあたしだけ三十代。

「誕生日なんて年に一度だよ? 歳は嫌でもとるんだよ。今が自分の最年少。そう思えばよくない? 周りは関係ないでしょ」
「……今が、最年少」

 まぁ、そうだね。
 望くんだって今が最年少の二十三歳。

 それより若くなる事はないんだ。二十四になって二十五になって。ほら、三十なんてすぐ……あれ、そしたらあたしは? 七歳の歳の差があるから……。
 指折り数えて頭を抱えると、思考をシャットダウンした。

「誕生日会、友香と場所とか予定立てとくな。実智もまた連絡ちょうだいね。おやすみ」
「あ、ありがと。あと、今日はごちそうさま」

 振り返った寛人が微笑むから、「おやすみ」と手を振った。


 アパートのドアの鍵穴に鍵を差し込んで静かに回す。

 あれ? 部屋が明るい。

 そっと玄関を開けてのぞいたその先は、明かりが煌々と付いている。
 すっかり寝ているもんだと思っていた望くんが、まさか起きてる?
 まずい、と、あたしはすぐ横の姿見で自分の顔を覗き見た。あー、やっぱりひどい顔してる。
 寛人にはいくら見せても、もう慣れているからいいけど、こんな顔さすがに望くんには見せられない。

 そっと靴を脱いで、死角にいて姿の見えない望くんが、突然飛びついてきたりしないように警戒しながら声をかけた。

「ただいまぁ、望くん起きてたの?」
「遅い! 遅すぎない? こんな時間まで冴島さんとどこに居たんだよっ……て、え? なに、どうしたの?」

 帰りの遅い娘に怒鳴る父親かって思うくらいの喧騒で近づいてきている望くんの声に、泣き腫らした顔を見られないように両手で覆って、視線は足元。

 視界に入る望くんの足が左右に動いて困っているのか慌て始めている様に見える。

「どうしたの? 大丈夫、実智ちゃ……あ! やべ……」

 ボトッ!

 ボト?

 望くんの足元に、重く音を立てて落ちたそれは、あたりに真っ赤な雫を飛び散らす。
 白い靴下を履いていた望くんの足にも見事に染みを作った。

 指の隙間から、何が落ちたのかと確かめようとして、あたしはとんでもないものを見てしまう。
 ギロリと、わずかに落ちた反動で潰れかけている目玉が、こちらを見ていた。
 全身の血が引くように背中の辺りがゾッと寒くなる。

「い、………いぎぃやぁぁぁぁぁ!!!」

 夜中だと言うことを瞬時に思い出して、自らの口を塞いで最小の声で叫んだ。そのまま慌ててバスルームへと駆け込む。
 近づく足音、コンコンっとノックをされて、耳まで波打って鳴り響いていた心臓の音が、一瞬止まった様に体が震えた。

「実智ちゃんごめんー。驚かせるつもりなかったんだけど。これ洗ってー」

 呑気な声が聞こえてくるから、そっと扉を開けた。

「実智ちゃん、ほら、この前買ったゼリー食べてたんだよ。実智ちゃんが変な格好してるから思わず目玉落としちゃった。あーあ、あれめちゃくちゃ美味いとこだったのに」

 ガッカリと肩を落とした望くんが赤く染まってしまった靴下を流しで洗おうとしている。
 その様子を傍観して、しばらく働かなくなった頭を振るわせると、あたしはスーパーで買った目玉入りのゼリーの事を思い出した。

 あれか!!

 本物の目玉じゃなかったことに、安心と呆れのため息が湧き上がってくる。

「……ほら、貸して。だいぶ色濃いから漂白してあげるよ」

 持ったままでいたバックと靴下を交換する。

「あ、ありがとう」と、望くんはすぐにあたしの後ろに避けてくれた。
 赤く染まってしまった靴下の応急処置を済ませたあたしが振り返ると、まだそこにいた望くんがあたしを切なそうな顔をして見ている。

「大丈夫だよ。すぐに洗ったから取れるはず。心配しないで」
「……俺が心配なのは、靴下じゃなくて、実智ちゃんの目が赤くなってることなんだけど」

 そっと頬に触れて、そのまま指で目元をなぞる望くんの仕草に、ドキドキと心臓が早くなる。

 まずい……せっかくバレないように隠していたのに、目玉ゼリーのせいですっかり隠すのを忘れてしまっていた。

「驚きすぎて涙出ちゃったんだよ! 恥ずかしいからあんま見なくていーから」

 咄嗟に望くんの手を払いのけて、あたしは苦笑いする。

「冴島さんに泣かされたの?」
「え?」

 睨むような鋭い視線を向けてくる望くんに、ドキッとしてしまいながらも、あたしは首を振った。

「違う違う。寛人はその逆。いつも泣いてるあたしを慰めてくれるの。だから、寛人はなにも悪くないから、心配しないで。今朝もお世話になったんでしょ? 望くん。ごめんね、狭いベッドじゃ寝れなかったよね」

 望くんの横をすり抜けて、あたしは部屋へと戻った。

「俺が心配なのは、実智ちゃんだってば」

 すぐに後ろから、包み込むように抱きしめてくる望くんに、驚いて動けなくなった。

「なんで泣いたの? なにがあったの? 実智ちゃんのすぐそばにいれると思ってるのに、全然分かんない。こんなに近くにいるはずなのに、俺……実智ちゃんのことなんも知らないって……辛すぎるんだけど」

 ぎゅっと強くなる腕に、そっと手を添えた。

 好きな人がどうして泣いているのか。
 知りたいよね。好きなら尚更に、なんだって知りたい。そう思うのは当然のことだと思う。
 あたしだってずっとそうだった。
 だけどさ。

「……望くん、約束。全然守れてないよ」

 添えた手で望くんの手を避けて、あたしは着っぱなしだったスプリングコートを脱いでハンガーへとかけた。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、キャップを開ける。

「あたしが泣いていた理由を教えたとしても、望くんにはなにも出来ないし、本当にもうなんでもないことだから」

 だから……もう何も聞いてほしくない。

 一口飲んでから望くんの方へと視線を向けると、悔しそうに眉を顰めてあたしから視線を逸らすから、胸が痛んだ。

 ああ、あたし、今嫌な言い方した。

「……ごめん」

 泣きそうに、消えそうに、望くんはポツリと呟いて布団の中へと潜ってしまった。

 望くんの気持ちにはどうしたって応えてあげれない。だから、凌とのことを話したって仕方がない。
 もう過ぎたことだし、今更何を話したって、後悔したって、凌は戻ってこない。
 戻ってきて欲しいとも思っていないから、未来のない話をしたって仕方がない。

 小さくため息を吐き出して、あたしは部屋の明かりを消してバスルームへと向かった。

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