だから、好きとは言わない
4 無理かな、弟設定
ピピピッと、スマホからだろうか、アラーム音が聞こえてくる。
まだ重たい瞼をゆっくりと開けて、辺りを見回した。
部屋の向こう側で動く影。
ジュッとフライパンに勢いよく何かが飛び込む音が響いて来て、一気にふんわりとバターのいい香りが漂ってくる。
ん? 望くん?
目を擦りながら体を起こしてキッチンを見つめると、同時に人影が振り向いた。
「あ! おはよう実智ちゃんっ」
「……おは、よう」
「卵焼き作ってるから、一緒に食べよー」
フライ返しを手に持って、笑顔の望くんの姿にきゅんとする。
布団から出て、顔を洗いに向かう。
望くんの寝ていた布団はきちんと畳まれて、邪魔にならない様に端によけてあった。
きちんとしてるなぁ。あたしが適当な性格だから、余計にしっかりしているのが分かる気がする。
軽いメイクまで済ませたあたしが戻ると、テーブルの上には昨日の和洋居酒屋で出てきてもおかしくないと思うくらいに形の良い、艶々の厚焼きたまごが視界に飛び込んできた。
さらに、ワカメと豆腐の味噌汁、いつの間に炊いていたのか、ほかほかのご飯まで用意されていた。デザートはもちろんオレンジ。
「昨日のうちにご飯は予約して炊いといたし、冷蔵庫の中にあるものでこれくらいしかできなかったけど、一緒に食べよう」
「……す、すご……え? 望くん、料理出来るんじゃん!」
特技隠してた⁉
卵焼きの艶々から目が離せないまま、あたしはストンとクッションに座り込む。
「まぁ、少しね。ほら、あったかいうちに食べよ? いただきます」
「……いただきます」
綺麗な層を描く厚焼きたまごに、箸を割り入れて口に運ぶ。
「うーー、美味しいっ」
出汁の旨みとほんのり甘い味付け。
美味しい……美味しいって言うか……なんだか懐かしい。
思わず目元が熱くなって来てしまうあたしは、望くんに視線をあげると、その表情は嬉しそうに微笑んでいる。
「懐かしいと思ってくれた?」
「……うん、なんでだろう」
頷くあたしを見て、望くんはますます微笑む。
「やった。これ、実智ちゃんのお母さんの厚焼きたまごの味だよ。俺、こっちに来るまで色々勉強させてもらってたんだー」
「……え?」
やっぱりこの味だよねーっと、望くんも美味しそうにご飯を食べ始めるから、あたしは唖然としながら聞いた。
「え、望くん、あたしのお母さんと仲良かった?」
「うん、こっちに来るまで毎日の様にお世話になってたよ。実智ちゃんの事もおばさんから色々聞いてたし。でもさ、やっぱり本人から言われないと分かんないし、話したくないならそれで良いし、俺は待つから。実智ちゃんの心から不安が無くなるまで」
淡々と話す望くんは今、あたしの全てを見透かしている様な話をした気がするんだけど。
爽やかな朝に、あたしの頭はまだエンジンがかからずにぼうっとしてしまっている。
「もしかして……ハンバーグ、わざと下手に作ったの?」
「え……んなわけないでしょ。ハンバーグはほんと初めて作ったんだもん。あんなもんでしょ? もっと上手くなって実智ちゃんの胃袋も掴むからね。冴島さんは料理しない人だし、俺の方が絶対にいいよ!」
いつも通りに戻って、子供の様に寛人を敵対視する言葉はあどけない。
確かに、寛人のうちのキッチンは広くて最新型で、料理好きには最高の場所だけど、あそこを活用しているところは見たことがない。
夜は飲みに行ったり、休みは適当に過ごす人だし、望くんの言う様に寛人は料理をしない人だ。
と、その前にだ。ようやく頭の回転が温まって来たから聞きたいことがある。
「……あたしの前の彼氏のこととかも、お母さんから聞いたりしたの?」
ぴくりと厚焼きたまごを挟んだ箸を止めて、望くんはあたしに視線を合わせる。
「聞いてない。それだけはなんも話してくれなかった。まぁ、俺も自分からは聞けなかったし。なんの情報もない、残念ながら」
「……あ、そう」
そっか、凌とのことは何も話してないんだ。
とりあえずここは、ホッとしてしまう。と、言うか、ここ何年もお母さんとは連絡を取ってなかったりするし、五年前くらいに凌との結婚の話題をしつこく聞かれた時に、あたしがきっぱりと拒否したのがきっかけだ。それ以来、そう言う話はしてこなくなったんだ。
お母さんには悪いことをしてしまった。
結婚するどころか、一年前にフラれて独り身になって三十歳を迎えたなど、こちらからは絶対に言い出せない。
「まぁ、俺が実智ちゃんをお嫁に貰ってあげる事はもう決まってるんだからさ、そんな過去の男になんて負ける気がしてないからね、俺は。それだけは覚えといて」
しっかりとあたしの瞳を捉えながら、望くんが断言する。
と、あ! と付け足す様に先ほどまでのギラギラした目がシュンとする。
「実智ちゃんに否定されたり、嘘つかれたりするのだけは、マジで傷つくから、なるべくやめてほしい……昨日だって相当心臓えぐられたし。この厚焼きたまごで許して欲しいと思っているんだけど、良い?」
やっぱり、最後には捨てられた子犬の様なキュルキュルと瞳を揺らして、甘えた表情をしてくる望くんには、ズルイと思ってしまう。
そんなの許すに決まっている。
味噌汁を啜りながら頷くあたしを見て、望くんは満面の笑みを浮かべている。
ピンっと立った三角の耳と、ふさふさの尻尾が揺れている幻覚が見えてしまって、あたしは瞬きをした。
「これ食べたら俺出るね。あ、実智ちゃんの仕事終わるの何時? 俺待ってるから終わったら連絡ちょうだい、一緒に帰ろう」
「え、あ、ごめんね。鍵のスペア今度の休みにでも良い?」
「あれば便利だけどさ、実智ちゃんと一緒に家に帰るの憧れてたんだよねー。だから、俺終わるまで待ってるから。じゃ、いってきます」
「あ、うん。いってらっしゃい」
スーツのジャケットを腕に掛けてリュックを手に持った望くんは、ニコニコと立っている。
あたしが箸を片手に手を振っていると、無言のまま望くんが近づいてくるから、首を傾げた。
「なに?」
「いってきますと言ったらさ!」
トントンっと自分の唇を指さして、これでもかと上がる口角の望くんがまたもや尻尾を振っている。
いや、いやいや、何がしたいのか分かったけどさ、それって新婚さんがやるやつじゃん。
あたしと望くんは新婚以前に恋人でもなんでもないからね? しないよそんなの。
あたしが無視をして残りの厚焼きたまごを箸に挟むと、痺れを切らした望くんの顰めた眉だけ一瞬見えて、頬にチュッと優しく触れるだけのキスが落ちてきた。
「いってきますっ!」
くるりと向きを変えて、そそくさと行ってしまった望くんの耳が真っ赤に染まっているのを見て、あたしは思わず挟んでいた厚焼きたまごをおっことしそうになった。
そんなに恥ずかしいならしなきゃいいのに!
望くんの行動一つ一つに、こちらまで感情が伝わって来てしまって、あたしまで耳が熱くなるのを感じた。
*
仕事のお昼休憩。
少し前までは同僚達とランチに行っていた。
けれど、十年付き合った恋人に浮気をされて、しかも五つも年下の女に取られたって噂が瞬く間に広がっていて、しばらくは質問攻めにあった。
そんな同僚達とは距離を置くようにしていたから、仕事を口実にこの一年はほとんど誰ともランチに出ていなかった。
望くんとのことを聞いてほしくて、職場とはなんの関係もない友香を久しぶりに呼び出すことにした。
ほとんど専業主婦みたいな友香は、呼び出せば百パーセントの確率で来てくれる。
あたしの馴染みのカフェ「フレーバフル」へと誘った。オフィスビルの立ち並ぶ外とは一変して、緑あふれる穏やかな音楽の流れる店内は癒しの雰囲気で心が安らぐ。
「ここ、来てみたかったんだよねー。最近実智忙しそうだったし、夜は飲みにきてくれるけど、ランチなんてだいぶ久しぶりじゃない?」
「あー、そうだよね。確かに」
ここ何年かはランチもせずに仕事命で働きまくっていた気がするから。目の前の嬉しそうな友香の笑顔に安心する。
今日のおススメランチを注文して、本題に入った。
「……あのさ、友香」
「うん、うん」
もうなんでも聞くよ! っと意気込んでいる表情に、あたしは望くんのことを話すのをまだ躊躇ってしまう。
「望くんでしょ?」
何度も言い出そうとしてはため息を漏らすあたしに、友香の方が困ったような顔で切り出して来た。
「……知ってたの?」
「あー、知ってたって言うか。なんとなく。あたしに話しづらいことってそれかなぁって思っただけだけど」
「……さすが友香様」
なんでもあたしのことを見抜いていらっしゃる。
寛人はお互いのプライベートはあまり話したりしないし、きっとあたしが望くんを家に置いているなんて、友香と話したりはしていないだろう。
「だって、あの飲み会の時の望くん、実智への愛が凄かったからさ。あの後どうなったの? 実はかなり気になってたんだよね」
……愛が凄かった?
「え? 望くん、あたしが来る前にあたしのことなんか言ってたの?」
なんだか一気に不安が押し寄せてくる。
「いや? 特になにか喋るわけじゃないんだけどさ、とにかく実智に早く会いたいって、会えるのが嬉しいって、もう実智のファンなのか? ってくらいにドキドキしちゃってて、可愛いなぁって思ってたの。だから、帰りはそんな望くんへ夢を見させてあげるために、二人きりにしてあげたんだよ」
あー、だからあの時あんなにスムーズに二人で帰って行ったのか。
「えっとね……とりあえず、望くんはあたしの実家のお隣さんで、赤ちゃんの頃から知ってるの。で、問題は望くんの方なんだけど、多分年上のあたしに憧れみたいなのを持ち続けているようで」
「え! まさか実智のこと追いかけて上京⁉ やだ、ますます可愛い」
肘をついていた両手を顔の前で組んで、友香ははしゃいでいる。
「どう思う? 望くん二十三だよ? そんな若い子に好きだって言われたってさ」
「えー、良いじゃん若い子ぉ」
「……あたし、まだ前の……引きずってるっぽいし」
凌とのことを濁しながら、あたしは声が小さくなる。
運ばれて来たランチプレートを前に、友香は少し無言になってしまってから「いただきます」と小さく切られてサラダに乗っかっていたトマトをフォークに刺して口へと運んだ。
「あいつ、最低最悪な男だったんだよ? もうほんと忘れな」
はっきり、きっぱりと断言されて、あたしは思わず口に向かわせたフォークが体ごと止まってしまう。
「って、実智だってわかってるでしょ? 十年ってほんと、長いよ? あたしだって凌くんがそれだけな男じゃないって知ってる。だけどさ、最後は最低最悪。実智のことなんにも考えてくれなかったんだもん。あたしだってまだ許せない」
てり照りに艶めくチキンにフォークを思い切り突き刺して、友香は頬杖をついた。
「ごめん。一番そう思ってるのは実智だって分かってるけど。言わずにはいられなくて」
ため息を吐き出して目を伏せた友香に、あたしまでため息が漏れた。
「あの時、思いっきり別れたくないって駄々こねれば良かったのかな、もっと仕事よりも二人の時間をとっていれば良かったな、とか、思うことはたくさんあるんだ。凌だけが悪いわけじゃない。なるべくしてこうなったんだと思うしかないよ」
「ほら。またそうやって辛いのを吐き出さないから、余計に色々考えちゃうんだよ」
そうなんだよね。
いっそのこと大嫌いにでもなれたら楽なのに。
凌は今幸せなんだろうな。可愛い奥さんと子供と一緒に、絵に描いたような幸せな家庭を築いているんだと思う。
「望くんにでも吐き出してみたら?」
「は⁉」
「あたしや寛人だと、どうしても凌くんのこと知ってるから、イラついたり、つい庇ったりしちゃうけどさ、望くんは凌くんのこと知らないんでしょ? もうこの際全部受け止めて貰えば良いじゃん」
良い案じゃん、とチキンとライスに食いつき始めた友香に唖然としてしまう。
いや、ちょっと、人ごとだと思って安易過ぎるでしょ。
「望くん、実智の救世主なのかもしれないよ? 好かれてるのは良いことじゃん。年下だもん。甘えちゃいなさいよこの際」
「いや、年下だから甘えれないでしょ。おかしくない? その理屈」
「どうして? 歳が上だからってみんながみんな包容力があるわけじゃないよ? もうさ、ここまでくると年齢関係ないんだって。自分に合うか合わないか」
「……友香の旦那年上じゃん」
友香のことが大好きで、仕事もできて周りの人間関係も良好。気配り上手でなんでも出来るのにそれを棚に上げることもなく、いつでも謙虚。
あたしや寛人との飲み会にも友達は大事だからと送り迎えを買って出てくれるくらいに優しい。
あんな出来た旦那を見せられたら、あたしの結婚条件もハードルが上がる。
「まぁ、清春くんは出来た男だからね。あたしがそうしてるってのもあるけど」
「ん?」
「いや。タイプ的には凌くんも清春くんタイプだと思ってたんだけどな。まぁ、でも仕方ないよ。ほら、もうやめよ。望くんの話を聞きたいんだ、あたしは」
貴重なお昼休憩を過去の男の思い出話で時間を割いては勿体無いと、きっちり話を終わりにした友香に、望くんとのことを話すことにした。
「まじ? もうしちゃったのね」
「完全にお酒のせい。望くんにもそう言ってあるし」
「え⁉ 一緒に住み始めたのに、それって酷過ぎない? 望くんにとっては地獄じゃん」
すっかり食べ終わったランチプレートは下げられて、セットのコーヒーにスティックシュガーを落とし入れながら友香に呆れた顔をされる。
「え、実智にとって望くんはありなの? なしなの?」
「……なし……だと思ってる」
そりゃそうだ。あたしは望くんが赤ちゃんの頃から知っている。よく泣いてすぐ風邪をひいて。でもいつもにこにこと笑顔が絶えなくて。
あたしの後ろを一生懸命についてくる。可愛くて可愛くて仕方のない存在。
恋人とか、結婚とか、あり得ない。
「……でも、したんでしょ? 生理的に無理だったとか?」
「いや……」
それはない。むしろ……良かった。
望くんが可愛くて、優しくて、すごく愛してくれて、嬉しかった。
「だったら、付き合ってみたら良いじゃん。一カ月だっけ? その間だけでもさ」
「……いや、望くんはもうあたしと結婚するとまで言ってるから、たぶんお試しとかしちゃうともうその気になられてしまう気がする」
あたしはお試しでも、本気の望くんにそんな遊びみたいな期間、申し訳ない。
だから、あたしは望くんを好きにならないという選択肢をとった。
だってそれが一番だもん。
「望くんには若い可愛い彼女を見つけてあげたいし、あたしには経済力、包容力、あとは年下じゃない大人な男性をぜひ紹介してほしい」
前のめりになって意気込むあたしに、友香はコーヒーカップを静かに置いた。
「あー、じゃあ寛人でいいじゃん」
「じゃあとか言わないで」
「はは、だね。怒られるわ、寛人に」
寛人は確かに結婚するには理想の人かもしれない。優しいし楽しいし、だけど親友だからその一線は越えられない。そもそも寛人はあたしに対して恋愛感情など一ミリもないはずだ。
「凌くんのことを忘れるには、新しい恋だと思うし、まぁ、大人な独身男紹介してあげても全然良いんだけど、どうする?」
「お願いします」
「即答かい」
すぐに頭を下げるあたしに、友香が笑ってツッコむ。
「清春くんの先輩で結婚出来ずに嘆いている人がいるらしいから、声かけてみるよ」
「……うん」
ここ一年凌のことを忘れようとひたすら仕事ばかりしてきた。その前からだけど、もうやるべき事はやれているし、最近はそこまで頑張らなくても良いような気がしている。
やっぱりパートナーはいた方がいいと思う。お互いに高め合えるのなら、尚更に。
それを恋愛とは別にして、将来支え合える相手として受け入れるのか、考え方を少し変えた付き合い方でもしてみたら、もしうまくいかなくても、別れは辛くないような気がする。
恋愛と結婚は違うってよく聞くけど、もしかしたらそこのところをうまくやるってことなのかな。
その前にあたし、結婚したいのかな。
お会計を済ませて外へと出た。晴れ渡った空に太陽が眩しい。
「じゃあ、とりあえず清春くんにその先輩のこと聞いてみてから連絡するね」
「うん。ありがとう」
「仕事頑張ってね」
手を振って去っていく友香にあたしも手を振って、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
友香は幸せなんだろうな。
いつでも元気で、明るくて、悩んでいたって前向きで。そんな友香だから、あたしは悩みがあるといつも相談して、ぐちぐちと未練を並べる。本当は前に進みたいのに、過去を引きずる。凌と過ごした十年だって、決して綺麗な思い出ばかりじゃなかった。
だけど、気がつけば綺麗事ばかり並べて、あの時は良かったと感傷に浸る。なんか、情けないなあたし。
「あれ? 実智ちゃん?」
後ろから声をかけられて、あたしは振り返った。
スーツ姿の望くんがこちらに近づいてくる。
「望くん。どうしたの?」
「お昼休憩でそこのパスタ屋さんにみんなで行ってきたとこ。実智ちゃんこそ一人?」
「あ、ううん。友達と」
「まさか、冴島さん……じゃないよね?」
友達と聞いて、すぐに眉を顰める望くんが可愛く見えてしまう。
「違う、違う。女友達」
すぐに否定して答えると、安心したように微笑む望くんの笑顔にキュンとする。
「お昼休憩っていつもこの時間なの?」
「え、あー、まぁ大体ね」
いつも仕事の出来次第で適当にしていたから、外でこうやってゆっくり食べたのは久しぶりだったけど。
「まじ? じゃあさ、今度は俺ともランチしよ。誘うから行ける時行こうね。じゃあ、また帰りに連絡ちょうだい!」
ニコニコと嬉しそうに手を振って、一緒に来ていた人達の輪の中へと戻っていく望くんに、あたしも手を振る。
若いなぁ。望くんの周りに集う子達が真新しいスーツに身を包んでいて、輝いて見える。
ふと、長身でスタイルの良い黒髪ロングの女の子が、チラリとこちらを見て目が合った。思わず、ニコリと微笑んで軽く頭を下げてみるけれど、切れ長の目が一瞬睨んだようにキツく上がって、すぐに視線を逸らされた。
感じの悪い反応に、少しだけ曇った気持ちを払うと、くるりと向きを変えて、さっさと職場のビルへと歩き始めた。
あたしには見慣れたこの場所も、望くんにとっては新しい場所で、同じように集う彼らが楽しそうに見えた。
あたしも上京した時はドキドキと、これから始まる生活に不安がありつつも楽しみで仕方がなかった。色々、あったな。
またしても、思い出すのは凌との十年。
やっぱり、望くんの居場所はあたしのとこじゃなくて、あの中だと思う。
うーん。しかし、あの美人の子の反応って、たぶん、望くんのこと好きだから、だよね。
パソコンの前で仕事を始める前にそんなことを考える。
綺麗な顔立ちの子だった。年下には見えないくらいに大人びていて、だけど、明らかにあたしとは肌の艶が違っていた。若さ溢れ出すあのオーラ。思わずため息が出てしまう。
余計な事は考えずに仕事しよ。
すっかり薄暗くなった空を見上げて、あたしは仕事を終えるとスマホを取り出した。
望くんからと、友香から。
とりあえず望くんのメッセージを確認する。
》お疲れ様。
終わったら連絡ください。待ってるから。
ほんの数分前に送られてきていた。
とりあえず友香に返信してからにしようかな。
》実智お疲れー!
お昼に話した独身の先輩さー、なんか彼女が出来たらしい。ごめん、力になれず。
全力で謝るうさぎのスタンプが添えられていて、なんだか会ったことも見たこともないその友香の旦那の先輩に、勝手に失恋した気持ちになってしまう。虚しいな。
了解と、簡単にスタンプで済ませて、あたしは望くんへとメッセージを送ろうとして、文字を打つことに億劫になり通話をタップした。
何度かのコールの後に、望くんの声。
『実智ちゃーんっ! お疲れ様! 電話! 嬉しい!』
「……お、お疲れ様」
テンション高くないか?
『終わったの? 俺実智ちゃんの職場の真ん前にいるよー。早く会いたい』
「ちょっ……」
けっこうな声のボリュームで話してるよね?それ。あたしの職場の前で。困るんだけどそういうの。何考えてんだ。
「すぐ行くから! 黙ってて」
スマホをカバンに詰めて、あたしは荷物を手に急いで外へと向かった。
道路沿いの植え込みの前に立っている望くんの姿を見つけて、すぐに駆け寄る。
「実智ちゃんも俺に早く会いたかったの? そんなに急いできてくれて!」
今にも抱きつきそうに両手を広げる望くんから、あたしはサッと離れて片手を真っ直ぐ前に伸ばした。
「黙っててって言ったよね?」
低い声で望くんへ確認を取ると、明らかにまずいと顔を歪ませた望くんが一歩後ずさった。
「……はい」
これじゃあ、職場の人に勘違いされてしまう。何も考えてない望くんの行動は恐ろしすぎる。
「お願いだから、誤解を招くような行動、言動は慎んでほしいの。あたしのために」
「……実智ちゃんの、ため?」
「そう。あたしが職場でなんやかんや問い詰められたりしたら最悪でしょ? だから、とりあえず一緒に帰ったり会ったりするのはいいけど、望くんはあたしの弟って設定でいてくれない?」
「……弟……?」
そうよ、この設定。
スーパーでなんとか乗り切ったじゃん。もし毎日一緒に帰りたいとか、ランチしたりしてるの見られたとしても、弟ですって言えばみんな絶対に納得する。その手があるじゃん。
「……実智ちゃんさ、本当に俺のことなんとも思ってくれてないんだ」
「え……」
見上げた望くんは、悔しそうに唇を噛み締めている。
「弟はないわ、まじで……その設定にはのれないよ、ごめんね。帰ろ」
ゆっくり歩き出す望くん。
また、傷付けちゃった?
だってさ、どうしたらいいか分からない。
「……の、望くん。ごめんね、なんか、あたしの都合ばっかり考えちゃって」
なんとなく、歩くペースが早い望くんになんとかついて行って、あたしは言い訳をする。
「……結婚目前の彼氏と別れて、その噂が広まったんだけど、ようやく落ち着いてきたとこなんだよね。だから、ちょっとまた色々言われるのは嫌だなって……」
十年付き合った彼氏にフラれて一年足らずで若い男の子と一緒に住んでますなんて、みんなすぐにまた食いつくよ。恐ろしすぎる。
そこまで言うと、目の前で望くんがピタリと立ち止まるから、慌ててあたしも止まった。
「俺のこと弟って設定にしてさ、諦めさせようとかそういうんじゃないの?」
「……え?」
「弟だって設定ならさ、一緒に住んでても一緒に帰っても、ご飯食べに行ったりしても、文句言われないよね?」
くるりと振り返った望くんは、悲しそうに眉を下げている。
「……う、うん」
そうだね、文句ないと思う。だから、あたしにも、望くんにも都合はいいはず。
「でもさ、俺、実智ちゃんと手繋いで歩きたいし、抱きしめたいし、俺の彼女だって自慢したいし……やっぱり弟設定は無理だよ」
「……いや、あたし彼女じゃないよ?」
自慢したいとか、ダメだよ。
「……だって、今日の昼にあいつらに言っちゃったんだもん」
「……え?」
「実智ちゃんのこと見てみんな、綺麗なお姉さんだとか、カッコいいとか、すげぇ好意的だったから、つい……俺の彼女だって……」
は⁉ なんだって⁉
申し訳ない様子で視線を落とす望くんに、あたしは驚いて言葉が出ない。
「……あー、」
うん、でも、それは。仕方ない。言ってしまったものは、しょうがない。
あの子達とあたしは関わることもないし、別にそれはそれでいいけど。
ふと、睨まれた美人の女の子のことを思い出す。
「みんなから羨ましがられて、気分良くなっちゃって。ほんと、さっきまで彼女を待つ気持ちで実智ちゃんのこと待ってたんだよ。電話も嬉しかったし、走ってきてくれてめちゃめちゃきゅんとしたし。なのにさ……弟は、ないよ」
ため息と共に吐き出た最後の一言に、あたしは胸が痛む。
そうだね。そうだよね。
「……うん、ごめん。望くんの気持ち知ってるのに、ごめん、あたし酷いこと言ってる」
いつも、自分を最優先に考えてしまっている。
なんて自分勝手なんだ。
このまま、望くんと一緒にはやっぱりいられないな。あたしは望くんを傷つけることしかできない気がする。
「……とりあえず、帰ろう。夕飯はカレーでもしよっか」
一緒にいても嫌じゃないのは本当だし、望くんのことが可愛くて愛おしいのも本当。
だけど、それが恋愛なのかと考えたら、よく分からない。
だから、あたしは望くんに好きとは言わない。
長いと思っていたって、望くんが来てからもうすぐ一週間が過ぎる。仕事に集中していれば、一カ月なんてあっという間だ。寛人が望くんの新居の手配を早くしてくれれば、尚更に早まる可能性だってある。
ピコンとスマホが鳴って、あたしは歩きながら確認する。
》誕生日会、土曜に俺のうちでもいい?
寛人からのメッセージ。
あ、さっそくだ。
》オッケー
すぐに返信すると、今度は電話がかかってきた。
「あ、と、望くんちょっと電話。ごめんね」
チラリと望くんに謝りを入れてから、あたしは通話ボタンを押した。
「お疲れ様ーっ」
『おう、実智お疲れ。今大丈夫か?』
相変わらずのイケボ。あたしはついうっとりしてしまう。
「うん、大丈夫だよ」
『誕生日、何食いたい? 清春さんが食べたいの作って友香が持ってきてくれるって』
「えー! まじ? 清春さんの料理美味しいからなぁ。やっぱりいつものかなぁ」
誕生日は寛人の家が定番だ。
友香の旦那で料理人の清春さんがごちそうの詰まったお重を友香に持たせてくれるんだけど、それがめちゃくちゃ美味しい。
誕生日会にも一緒にって誘うんだけど、同級生の中には入れないよと、いつもにこやかに断られる。きっと、それも清春さんの友香に対する気遣いなんだろうけれど。完璧すぎる旦那で誰も頭が上がらない。結婚二年目の二人はいつでも新婚のように仲良しだ。
『はは、じゃあ、そう伝えとくな』
「うん、いつもありがとうね、寛人」
『なんも。俺の時もしてくれてるでしょ。じゃあ明後日、お楽しみに』
「うん、楽しみ! またね」
わー、楽しみができた。二人にもお礼になにか用意しないとなぁ。
「実智ちゃん、危ない」
進み出そうとして、腕を引っ張られた。
見れば、歩行者信号が赤を示している。
「あ、ごめん。ありがと」
そのまま手を繋がれて、見上げた望くんの顔は明らかに怒っている、ような気がする。
誕生日会の話に浮かれすぎてしまった。周りを見てないとか、子供か、あたしは。
「冴島さんからだったの?」
「え、あ、うん」
「……清春って誰?」
あたしを見ないでぼそりと呟く。
信号が青へと変わって、歩き出しながらあたしは答えた。
「清春さんは、あたしの友達の旦那さんだよ。あ、ほら、この前の飲み会の時にいた友香! 今日のお昼も友香と一緒だったんだよ」
「……そっか」
説明するあたしを見下ろす望くんの目が、優しい。
安心したように、きつく握られていた手がふわりと優しくなる。
「……冴島さんからの電話、嬉しかったの?」
「え……まぁ」
誕生日会をしてくれるって言うから、それはもう嬉しいに決まってる。
「……実智ちゃんって、冴島さんのこと好きなの?」
またきゅっと強くなる手に、あたしは望くんを見上げた。
泣きそうに下がる眉に、あたしは困ってしまう。
「だから、寛人は友達で恋愛感情はお互いにないよ」
「……だってさ、なんか、話してる実智ちゃんの表情がうっとりしてるし、俺と話してた時は怒った顔してたのに、すげぇ楽しそうだったし」
膨れるようにして拗ねる望くんが、可愛く見えて驚く。
「そりゃ、友達と話す時はそうじゃない?」
寛人がイケボ過ぎるのも良くない。顔に出ていたのかもしれないな。気をつけなくちゃ。
「でも、いっつも冴島さんと会ってるし連絡取り合ってるし……俺その度にめちゃくちゃ不安で」
泣き出しちゃうんじゃないかと思うくらいに、辛そうに表情を歪める望くん。思わずあたしはそっとその頬に触れた。
「もう、俺の実智ちゃんになってよ。なんでダメなの?」
触れたと思った瞬間、あたしは望くんの胸の中に包まれていた。
「大好きなんだって。分かってよ」
耳の後ろで囁かれて、思わず頷きそうになるのをなんとか止めた。
反応のないあたしからゆっくり離れた望くんは、「ごめん、約束やぶってばっかだね」と寂しそうな目をして、先を歩き始めた。
まだ重たい瞼をゆっくりと開けて、辺りを見回した。
部屋の向こう側で動く影。
ジュッとフライパンに勢いよく何かが飛び込む音が響いて来て、一気にふんわりとバターのいい香りが漂ってくる。
ん? 望くん?
目を擦りながら体を起こしてキッチンを見つめると、同時に人影が振り向いた。
「あ! おはよう実智ちゃんっ」
「……おは、よう」
「卵焼き作ってるから、一緒に食べよー」
フライ返しを手に持って、笑顔の望くんの姿にきゅんとする。
布団から出て、顔を洗いに向かう。
望くんの寝ていた布団はきちんと畳まれて、邪魔にならない様に端によけてあった。
きちんとしてるなぁ。あたしが適当な性格だから、余計にしっかりしているのが分かる気がする。
軽いメイクまで済ませたあたしが戻ると、テーブルの上には昨日の和洋居酒屋で出てきてもおかしくないと思うくらいに形の良い、艶々の厚焼きたまごが視界に飛び込んできた。
さらに、ワカメと豆腐の味噌汁、いつの間に炊いていたのか、ほかほかのご飯まで用意されていた。デザートはもちろんオレンジ。
「昨日のうちにご飯は予約して炊いといたし、冷蔵庫の中にあるものでこれくらいしかできなかったけど、一緒に食べよう」
「……す、すご……え? 望くん、料理出来るんじゃん!」
特技隠してた⁉
卵焼きの艶々から目が離せないまま、あたしはストンとクッションに座り込む。
「まぁ、少しね。ほら、あったかいうちに食べよ? いただきます」
「……いただきます」
綺麗な層を描く厚焼きたまごに、箸を割り入れて口に運ぶ。
「うーー、美味しいっ」
出汁の旨みとほんのり甘い味付け。
美味しい……美味しいって言うか……なんだか懐かしい。
思わず目元が熱くなって来てしまうあたしは、望くんに視線をあげると、その表情は嬉しそうに微笑んでいる。
「懐かしいと思ってくれた?」
「……うん、なんでだろう」
頷くあたしを見て、望くんはますます微笑む。
「やった。これ、実智ちゃんのお母さんの厚焼きたまごの味だよ。俺、こっちに来るまで色々勉強させてもらってたんだー」
「……え?」
やっぱりこの味だよねーっと、望くんも美味しそうにご飯を食べ始めるから、あたしは唖然としながら聞いた。
「え、望くん、あたしのお母さんと仲良かった?」
「うん、こっちに来るまで毎日の様にお世話になってたよ。実智ちゃんの事もおばさんから色々聞いてたし。でもさ、やっぱり本人から言われないと分かんないし、話したくないならそれで良いし、俺は待つから。実智ちゃんの心から不安が無くなるまで」
淡々と話す望くんは今、あたしの全てを見透かしている様な話をした気がするんだけど。
爽やかな朝に、あたしの頭はまだエンジンがかからずにぼうっとしてしまっている。
「もしかして……ハンバーグ、わざと下手に作ったの?」
「え……んなわけないでしょ。ハンバーグはほんと初めて作ったんだもん。あんなもんでしょ? もっと上手くなって実智ちゃんの胃袋も掴むからね。冴島さんは料理しない人だし、俺の方が絶対にいいよ!」
いつも通りに戻って、子供の様に寛人を敵対視する言葉はあどけない。
確かに、寛人のうちのキッチンは広くて最新型で、料理好きには最高の場所だけど、あそこを活用しているところは見たことがない。
夜は飲みに行ったり、休みは適当に過ごす人だし、望くんの言う様に寛人は料理をしない人だ。
と、その前にだ。ようやく頭の回転が温まって来たから聞きたいことがある。
「……あたしの前の彼氏のこととかも、お母さんから聞いたりしたの?」
ぴくりと厚焼きたまごを挟んだ箸を止めて、望くんはあたしに視線を合わせる。
「聞いてない。それだけはなんも話してくれなかった。まぁ、俺も自分からは聞けなかったし。なんの情報もない、残念ながら」
「……あ、そう」
そっか、凌とのことは何も話してないんだ。
とりあえずここは、ホッとしてしまう。と、言うか、ここ何年もお母さんとは連絡を取ってなかったりするし、五年前くらいに凌との結婚の話題をしつこく聞かれた時に、あたしがきっぱりと拒否したのがきっかけだ。それ以来、そう言う話はしてこなくなったんだ。
お母さんには悪いことをしてしまった。
結婚するどころか、一年前にフラれて独り身になって三十歳を迎えたなど、こちらからは絶対に言い出せない。
「まぁ、俺が実智ちゃんをお嫁に貰ってあげる事はもう決まってるんだからさ、そんな過去の男になんて負ける気がしてないからね、俺は。それだけは覚えといて」
しっかりとあたしの瞳を捉えながら、望くんが断言する。
と、あ! と付け足す様に先ほどまでのギラギラした目がシュンとする。
「実智ちゃんに否定されたり、嘘つかれたりするのだけは、マジで傷つくから、なるべくやめてほしい……昨日だって相当心臓えぐられたし。この厚焼きたまごで許して欲しいと思っているんだけど、良い?」
やっぱり、最後には捨てられた子犬の様なキュルキュルと瞳を揺らして、甘えた表情をしてくる望くんには、ズルイと思ってしまう。
そんなの許すに決まっている。
味噌汁を啜りながら頷くあたしを見て、望くんは満面の笑みを浮かべている。
ピンっと立った三角の耳と、ふさふさの尻尾が揺れている幻覚が見えてしまって、あたしは瞬きをした。
「これ食べたら俺出るね。あ、実智ちゃんの仕事終わるの何時? 俺待ってるから終わったら連絡ちょうだい、一緒に帰ろう」
「え、あ、ごめんね。鍵のスペア今度の休みにでも良い?」
「あれば便利だけどさ、実智ちゃんと一緒に家に帰るの憧れてたんだよねー。だから、俺終わるまで待ってるから。じゃ、いってきます」
「あ、うん。いってらっしゃい」
スーツのジャケットを腕に掛けてリュックを手に持った望くんは、ニコニコと立っている。
あたしが箸を片手に手を振っていると、無言のまま望くんが近づいてくるから、首を傾げた。
「なに?」
「いってきますと言ったらさ!」
トントンっと自分の唇を指さして、これでもかと上がる口角の望くんがまたもや尻尾を振っている。
いや、いやいや、何がしたいのか分かったけどさ、それって新婚さんがやるやつじゃん。
あたしと望くんは新婚以前に恋人でもなんでもないからね? しないよそんなの。
あたしが無視をして残りの厚焼きたまごを箸に挟むと、痺れを切らした望くんの顰めた眉だけ一瞬見えて、頬にチュッと優しく触れるだけのキスが落ちてきた。
「いってきますっ!」
くるりと向きを変えて、そそくさと行ってしまった望くんの耳が真っ赤に染まっているのを見て、あたしは思わず挟んでいた厚焼きたまごをおっことしそうになった。
そんなに恥ずかしいならしなきゃいいのに!
望くんの行動一つ一つに、こちらまで感情が伝わって来てしまって、あたしまで耳が熱くなるのを感じた。
*
仕事のお昼休憩。
少し前までは同僚達とランチに行っていた。
けれど、十年付き合った恋人に浮気をされて、しかも五つも年下の女に取られたって噂が瞬く間に広がっていて、しばらくは質問攻めにあった。
そんな同僚達とは距離を置くようにしていたから、仕事を口実にこの一年はほとんど誰ともランチに出ていなかった。
望くんとのことを聞いてほしくて、職場とはなんの関係もない友香を久しぶりに呼び出すことにした。
ほとんど専業主婦みたいな友香は、呼び出せば百パーセントの確率で来てくれる。
あたしの馴染みのカフェ「フレーバフル」へと誘った。オフィスビルの立ち並ぶ外とは一変して、緑あふれる穏やかな音楽の流れる店内は癒しの雰囲気で心が安らぐ。
「ここ、来てみたかったんだよねー。最近実智忙しそうだったし、夜は飲みにきてくれるけど、ランチなんてだいぶ久しぶりじゃない?」
「あー、そうだよね。確かに」
ここ何年かはランチもせずに仕事命で働きまくっていた気がするから。目の前の嬉しそうな友香の笑顔に安心する。
今日のおススメランチを注文して、本題に入った。
「……あのさ、友香」
「うん、うん」
もうなんでも聞くよ! っと意気込んでいる表情に、あたしは望くんのことを話すのをまだ躊躇ってしまう。
「望くんでしょ?」
何度も言い出そうとしてはため息を漏らすあたしに、友香の方が困ったような顔で切り出して来た。
「……知ってたの?」
「あー、知ってたって言うか。なんとなく。あたしに話しづらいことってそれかなぁって思っただけだけど」
「……さすが友香様」
なんでもあたしのことを見抜いていらっしゃる。
寛人はお互いのプライベートはあまり話したりしないし、きっとあたしが望くんを家に置いているなんて、友香と話したりはしていないだろう。
「だって、あの飲み会の時の望くん、実智への愛が凄かったからさ。あの後どうなったの? 実はかなり気になってたんだよね」
……愛が凄かった?
「え? 望くん、あたしが来る前にあたしのことなんか言ってたの?」
なんだか一気に不安が押し寄せてくる。
「いや? 特になにか喋るわけじゃないんだけどさ、とにかく実智に早く会いたいって、会えるのが嬉しいって、もう実智のファンなのか? ってくらいにドキドキしちゃってて、可愛いなぁって思ってたの。だから、帰りはそんな望くんへ夢を見させてあげるために、二人きりにしてあげたんだよ」
あー、だからあの時あんなにスムーズに二人で帰って行ったのか。
「えっとね……とりあえず、望くんはあたしの実家のお隣さんで、赤ちゃんの頃から知ってるの。で、問題は望くんの方なんだけど、多分年上のあたしに憧れみたいなのを持ち続けているようで」
「え! まさか実智のこと追いかけて上京⁉ やだ、ますます可愛い」
肘をついていた両手を顔の前で組んで、友香ははしゃいでいる。
「どう思う? 望くん二十三だよ? そんな若い子に好きだって言われたってさ」
「えー、良いじゃん若い子ぉ」
「……あたし、まだ前の……引きずってるっぽいし」
凌とのことを濁しながら、あたしは声が小さくなる。
運ばれて来たランチプレートを前に、友香は少し無言になってしまってから「いただきます」と小さく切られてサラダに乗っかっていたトマトをフォークに刺して口へと運んだ。
「あいつ、最低最悪な男だったんだよ? もうほんと忘れな」
はっきり、きっぱりと断言されて、あたしは思わず口に向かわせたフォークが体ごと止まってしまう。
「って、実智だってわかってるでしょ? 十年ってほんと、長いよ? あたしだって凌くんがそれだけな男じゃないって知ってる。だけどさ、最後は最低最悪。実智のことなんにも考えてくれなかったんだもん。あたしだってまだ許せない」
てり照りに艶めくチキンにフォークを思い切り突き刺して、友香は頬杖をついた。
「ごめん。一番そう思ってるのは実智だって分かってるけど。言わずにはいられなくて」
ため息を吐き出して目を伏せた友香に、あたしまでため息が漏れた。
「あの時、思いっきり別れたくないって駄々こねれば良かったのかな、もっと仕事よりも二人の時間をとっていれば良かったな、とか、思うことはたくさんあるんだ。凌だけが悪いわけじゃない。なるべくしてこうなったんだと思うしかないよ」
「ほら。またそうやって辛いのを吐き出さないから、余計に色々考えちゃうんだよ」
そうなんだよね。
いっそのこと大嫌いにでもなれたら楽なのに。
凌は今幸せなんだろうな。可愛い奥さんと子供と一緒に、絵に描いたような幸せな家庭を築いているんだと思う。
「望くんにでも吐き出してみたら?」
「は⁉」
「あたしや寛人だと、どうしても凌くんのこと知ってるから、イラついたり、つい庇ったりしちゃうけどさ、望くんは凌くんのこと知らないんでしょ? もうこの際全部受け止めて貰えば良いじゃん」
良い案じゃん、とチキンとライスに食いつき始めた友香に唖然としてしまう。
いや、ちょっと、人ごとだと思って安易過ぎるでしょ。
「望くん、実智の救世主なのかもしれないよ? 好かれてるのは良いことじゃん。年下だもん。甘えちゃいなさいよこの際」
「いや、年下だから甘えれないでしょ。おかしくない? その理屈」
「どうして? 歳が上だからってみんながみんな包容力があるわけじゃないよ? もうさ、ここまでくると年齢関係ないんだって。自分に合うか合わないか」
「……友香の旦那年上じゃん」
友香のことが大好きで、仕事もできて周りの人間関係も良好。気配り上手でなんでも出来るのにそれを棚に上げることもなく、いつでも謙虚。
あたしや寛人との飲み会にも友達は大事だからと送り迎えを買って出てくれるくらいに優しい。
あんな出来た旦那を見せられたら、あたしの結婚条件もハードルが上がる。
「まぁ、清春くんは出来た男だからね。あたしがそうしてるってのもあるけど」
「ん?」
「いや。タイプ的には凌くんも清春くんタイプだと思ってたんだけどな。まぁ、でも仕方ないよ。ほら、もうやめよ。望くんの話を聞きたいんだ、あたしは」
貴重なお昼休憩を過去の男の思い出話で時間を割いては勿体無いと、きっちり話を終わりにした友香に、望くんとのことを話すことにした。
「まじ? もうしちゃったのね」
「完全にお酒のせい。望くんにもそう言ってあるし」
「え⁉ 一緒に住み始めたのに、それって酷過ぎない? 望くんにとっては地獄じゃん」
すっかり食べ終わったランチプレートは下げられて、セットのコーヒーにスティックシュガーを落とし入れながら友香に呆れた顔をされる。
「え、実智にとって望くんはありなの? なしなの?」
「……なし……だと思ってる」
そりゃそうだ。あたしは望くんが赤ちゃんの頃から知っている。よく泣いてすぐ風邪をひいて。でもいつもにこにこと笑顔が絶えなくて。
あたしの後ろを一生懸命についてくる。可愛くて可愛くて仕方のない存在。
恋人とか、結婚とか、あり得ない。
「……でも、したんでしょ? 生理的に無理だったとか?」
「いや……」
それはない。むしろ……良かった。
望くんが可愛くて、優しくて、すごく愛してくれて、嬉しかった。
「だったら、付き合ってみたら良いじゃん。一カ月だっけ? その間だけでもさ」
「……いや、望くんはもうあたしと結婚するとまで言ってるから、たぶんお試しとかしちゃうともうその気になられてしまう気がする」
あたしはお試しでも、本気の望くんにそんな遊びみたいな期間、申し訳ない。
だから、あたしは望くんを好きにならないという選択肢をとった。
だってそれが一番だもん。
「望くんには若い可愛い彼女を見つけてあげたいし、あたしには経済力、包容力、あとは年下じゃない大人な男性をぜひ紹介してほしい」
前のめりになって意気込むあたしに、友香はコーヒーカップを静かに置いた。
「あー、じゃあ寛人でいいじゃん」
「じゃあとか言わないで」
「はは、だね。怒られるわ、寛人に」
寛人は確かに結婚するには理想の人かもしれない。優しいし楽しいし、だけど親友だからその一線は越えられない。そもそも寛人はあたしに対して恋愛感情など一ミリもないはずだ。
「凌くんのことを忘れるには、新しい恋だと思うし、まぁ、大人な独身男紹介してあげても全然良いんだけど、どうする?」
「お願いします」
「即答かい」
すぐに頭を下げるあたしに、友香が笑ってツッコむ。
「清春くんの先輩で結婚出来ずに嘆いている人がいるらしいから、声かけてみるよ」
「……うん」
ここ一年凌のことを忘れようとひたすら仕事ばかりしてきた。その前からだけど、もうやるべき事はやれているし、最近はそこまで頑張らなくても良いような気がしている。
やっぱりパートナーはいた方がいいと思う。お互いに高め合えるのなら、尚更に。
それを恋愛とは別にして、将来支え合える相手として受け入れるのか、考え方を少し変えた付き合い方でもしてみたら、もしうまくいかなくても、別れは辛くないような気がする。
恋愛と結婚は違うってよく聞くけど、もしかしたらそこのところをうまくやるってことなのかな。
その前にあたし、結婚したいのかな。
お会計を済ませて外へと出た。晴れ渡った空に太陽が眩しい。
「じゃあ、とりあえず清春くんにその先輩のこと聞いてみてから連絡するね」
「うん。ありがとう」
「仕事頑張ってね」
手を振って去っていく友香にあたしも手を振って、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
友香は幸せなんだろうな。
いつでも元気で、明るくて、悩んでいたって前向きで。そんな友香だから、あたしは悩みがあるといつも相談して、ぐちぐちと未練を並べる。本当は前に進みたいのに、過去を引きずる。凌と過ごした十年だって、決して綺麗な思い出ばかりじゃなかった。
だけど、気がつけば綺麗事ばかり並べて、あの時は良かったと感傷に浸る。なんか、情けないなあたし。
「あれ? 実智ちゃん?」
後ろから声をかけられて、あたしは振り返った。
スーツ姿の望くんがこちらに近づいてくる。
「望くん。どうしたの?」
「お昼休憩でそこのパスタ屋さんにみんなで行ってきたとこ。実智ちゃんこそ一人?」
「あ、ううん。友達と」
「まさか、冴島さん……じゃないよね?」
友達と聞いて、すぐに眉を顰める望くんが可愛く見えてしまう。
「違う、違う。女友達」
すぐに否定して答えると、安心したように微笑む望くんの笑顔にキュンとする。
「お昼休憩っていつもこの時間なの?」
「え、あー、まぁ大体ね」
いつも仕事の出来次第で適当にしていたから、外でこうやってゆっくり食べたのは久しぶりだったけど。
「まじ? じゃあさ、今度は俺ともランチしよ。誘うから行ける時行こうね。じゃあ、また帰りに連絡ちょうだい!」
ニコニコと嬉しそうに手を振って、一緒に来ていた人達の輪の中へと戻っていく望くんに、あたしも手を振る。
若いなぁ。望くんの周りに集う子達が真新しいスーツに身を包んでいて、輝いて見える。
ふと、長身でスタイルの良い黒髪ロングの女の子が、チラリとこちらを見て目が合った。思わず、ニコリと微笑んで軽く頭を下げてみるけれど、切れ長の目が一瞬睨んだようにキツく上がって、すぐに視線を逸らされた。
感じの悪い反応に、少しだけ曇った気持ちを払うと、くるりと向きを変えて、さっさと職場のビルへと歩き始めた。
あたしには見慣れたこの場所も、望くんにとっては新しい場所で、同じように集う彼らが楽しそうに見えた。
あたしも上京した時はドキドキと、これから始まる生活に不安がありつつも楽しみで仕方がなかった。色々、あったな。
またしても、思い出すのは凌との十年。
やっぱり、望くんの居場所はあたしのとこじゃなくて、あの中だと思う。
うーん。しかし、あの美人の子の反応って、たぶん、望くんのこと好きだから、だよね。
パソコンの前で仕事を始める前にそんなことを考える。
綺麗な顔立ちの子だった。年下には見えないくらいに大人びていて、だけど、明らかにあたしとは肌の艶が違っていた。若さ溢れ出すあのオーラ。思わずため息が出てしまう。
余計な事は考えずに仕事しよ。
すっかり薄暗くなった空を見上げて、あたしは仕事を終えるとスマホを取り出した。
望くんからと、友香から。
とりあえず望くんのメッセージを確認する。
》お疲れ様。
終わったら連絡ください。待ってるから。
ほんの数分前に送られてきていた。
とりあえず友香に返信してからにしようかな。
》実智お疲れー!
お昼に話した独身の先輩さー、なんか彼女が出来たらしい。ごめん、力になれず。
全力で謝るうさぎのスタンプが添えられていて、なんだか会ったことも見たこともないその友香の旦那の先輩に、勝手に失恋した気持ちになってしまう。虚しいな。
了解と、簡単にスタンプで済ませて、あたしは望くんへとメッセージを送ろうとして、文字を打つことに億劫になり通話をタップした。
何度かのコールの後に、望くんの声。
『実智ちゃーんっ! お疲れ様! 電話! 嬉しい!』
「……お、お疲れ様」
テンション高くないか?
『終わったの? 俺実智ちゃんの職場の真ん前にいるよー。早く会いたい』
「ちょっ……」
けっこうな声のボリュームで話してるよね?それ。あたしの職場の前で。困るんだけどそういうの。何考えてんだ。
「すぐ行くから! 黙ってて」
スマホをカバンに詰めて、あたしは荷物を手に急いで外へと向かった。
道路沿いの植え込みの前に立っている望くんの姿を見つけて、すぐに駆け寄る。
「実智ちゃんも俺に早く会いたかったの? そんなに急いできてくれて!」
今にも抱きつきそうに両手を広げる望くんから、あたしはサッと離れて片手を真っ直ぐ前に伸ばした。
「黙っててって言ったよね?」
低い声で望くんへ確認を取ると、明らかにまずいと顔を歪ませた望くんが一歩後ずさった。
「……はい」
これじゃあ、職場の人に勘違いされてしまう。何も考えてない望くんの行動は恐ろしすぎる。
「お願いだから、誤解を招くような行動、言動は慎んでほしいの。あたしのために」
「……実智ちゃんの、ため?」
「そう。あたしが職場でなんやかんや問い詰められたりしたら最悪でしょ? だから、とりあえず一緒に帰ったり会ったりするのはいいけど、望くんはあたしの弟って設定でいてくれない?」
「……弟……?」
そうよ、この設定。
スーパーでなんとか乗り切ったじゃん。もし毎日一緒に帰りたいとか、ランチしたりしてるの見られたとしても、弟ですって言えばみんな絶対に納得する。その手があるじゃん。
「……実智ちゃんさ、本当に俺のことなんとも思ってくれてないんだ」
「え……」
見上げた望くんは、悔しそうに唇を噛み締めている。
「弟はないわ、まじで……その設定にはのれないよ、ごめんね。帰ろ」
ゆっくり歩き出す望くん。
また、傷付けちゃった?
だってさ、どうしたらいいか分からない。
「……の、望くん。ごめんね、なんか、あたしの都合ばっかり考えちゃって」
なんとなく、歩くペースが早い望くんになんとかついて行って、あたしは言い訳をする。
「……結婚目前の彼氏と別れて、その噂が広まったんだけど、ようやく落ち着いてきたとこなんだよね。だから、ちょっとまた色々言われるのは嫌だなって……」
十年付き合った彼氏にフラれて一年足らずで若い男の子と一緒に住んでますなんて、みんなすぐにまた食いつくよ。恐ろしすぎる。
そこまで言うと、目の前で望くんがピタリと立ち止まるから、慌ててあたしも止まった。
「俺のこと弟って設定にしてさ、諦めさせようとかそういうんじゃないの?」
「……え?」
「弟だって設定ならさ、一緒に住んでても一緒に帰っても、ご飯食べに行ったりしても、文句言われないよね?」
くるりと振り返った望くんは、悲しそうに眉を下げている。
「……う、うん」
そうだね、文句ないと思う。だから、あたしにも、望くんにも都合はいいはず。
「でもさ、俺、実智ちゃんと手繋いで歩きたいし、抱きしめたいし、俺の彼女だって自慢したいし……やっぱり弟設定は無理だよ」
「……いや、あたし彼女じゃないよ?」
自慢したいとか、ダメだよ。
「……だって、今日の昼にあいつらに言っちゃったんだもん」
「……え?」
「実智ちゃんのこと見てみんな、綺麗なお姉さんだとか、カッコいいとか、すげぇ好意的だったから、つい……俺の彼女だって……」
は⁉ なんだって⁉
申し訳ない様子で視線を落とす望くんに、あたしは驚いて言葉が出ない。
「……あー、」
うん、でも、それは。仕方ない。言ってしまったものは、しょうがない。
あの子達とあたしは関わることもないし、別にそれはそれでいいけど。
ふと、睨まれた美人の女の子のことを思い出す。
「みんなから羨ましがられて、気分良くなっちゃって。ほんと、さっきまで彼女を待つ気持ちで実智ちゃんのこと待ってたんだよ。電話も嬉しかったし、走ってきてくれてめちゃめちゃきゅんとしたし。なのにさ……弟は、ないよ」
ため息と共に吐き出た最後の一言に、あたしは胸が痛む。
そうだね。そうだよね。
「……うん、ごめん。望くんの気持ち知ってるのに、ごめん、あたし酷いこと言ってる」
いつも、自分を最優先に考えてしまっている。
なんて自分勝手なんだ。
このまま、望くんと一緒にはやっぱりいられないな。あたしは望くんを傷つけることしかできない気がする。
「……とりあえず、帰ろう。夕飯はカレーでもしよっか」
一緒にいても嫌じゃないのは本当だし、望くんのことが可愛くて愛おしいのも本当。
だけど、それが恋愛なのかと考えたら、よく分からない。
だから、あたしは望くんに好きとは言わない。
長いと思っていたって、望くんが来てからもうすぐ一週間が過ぎる。仕事に集中していれば、一カ月なんてあっという間だ。寛人が望くんの新居の手配を早くしてくれれば、尚更に早まる可能性だってある。
ピコンとスマホが鳴って、あたしは歩きながら確認する。
》誕生日会、土曜に俺のうちでもいい?
寛人からのメッセージ。
あ、さっそくだ。
》オッケー
すぐに返信すると、今度は電話がかかってきた。
「あ、と、望くんちょっと電話。ごめんね」
チラリと望くんに謝りを入れてから、あたしは通話ボタンを押した。
「お疲れ様ーっ」
『おう、実智お疲れ。今大丈夫か?』
相変わらずのイケボ。あたしはついうっとりしてしまう。
「うん、大丈夫だよ」
『誕生日、何食いたい? 清春さんが食べたいの作って友香が持ってきてくれるって』
「えー! まじ? 清春さんの料理美味しいからなぁ。やっぱりいつものかなぁ」
誕生日は寛人の家が定番だ。
友香の旦那で料理人の清春さんがごちそうの詰まったお重を友香に持たせてくれるんだけど、それがめちゃくちゃ美味しい。
誕生日会にも一緒にって誘うんだけど、同級生の中には入れないよと、いつもにこやかに断られる。きっと、それも清春さんの友香に対する気遣いなんだろうけれど。完璧すぎる旦那で誰も頭が上がらない。結婚二年目の二人はいつでも新婚のように仲良しだ。
『はは、じゃあ、そう伝えとくな』
「うん、いつもありがとうね、寛人」
『なんも。俺の時もしてくれてるでしょ。じゃあ明後日、お楽しみに』
「うん、楽しみ! またね」
わー、楽しみができた。二人にもお礼になにか用意しないとなぁ。
「実智ちゃん、危ない」
進み出そうとして、腕を引っ張られた。
見れば、歩行者信号が赤を示している。
「あ、ごめん。ありがと」
そのまま手を繋がれて、見上げた望くんの顔は明らかに怒っている、ような気がする。
誕生日会の話に浮かれすぎてしまった。周りを見てないとか、子供か、あたしは。
「冴島さんからだったの?」
「え、あ、うん」
「……清春って誰?」
あたしを見ないでぼそりと呟く。
信号が青へと変わって、歩き出しながらあたしは答えた。
「清春さんは、あたしの友達の旦那さんだよ。あ、ほら、この前の飲み会の時にいた友香! 今日のお昼も友香と一緒だったんだよ」
「……そっか」
説明するあたしを見下ろす望くんの目が、優しい。
安心したように、きつく握られていた手がふわりと優しくなる。
「……冴島さんからの電話、嬉しかったの?」
「え……まぁ」
誕生日会をしてくれるって言うから、それはもう嬉しいに決まってる。
「……実智ちゃんって、冴島さんのこと好きなの?」
またきゅっと強くなる手に、あたしは望くんを見上げた。
泣きそうに下がる眉に、あたしは困ってしまう。
「だから、寛人は友達で恋愛感情はお互いにないよ」
「……だってさ、なんか、話してる実智ちゃんの表情がうっとりしてるし、俺と話してた時は怒った顔してたのに、すげぇ楽しそうだったし」
膨れるようにして拗ねる望くんが、可愛く見えて驚く。
「そりゃ、友達と話す時はそうじゃない?」
寛人がイケボ過ぎるのも良くない。顔に出ていたのかもしれないな。気をつけなくちゃ。
「でも、いっつも冴島さんと会ってるし連絡取り合ってるし……俺その度にめちゃくちゃ不安で」
泣き出しちゃうんじゃないかと思うくらいに、辛そうに表情を歪める望くん。思わずあたしはそっとその頬に触れた。
「もう、俺の実智ちゃんになってよ。なんでダメなの?」
触れたと思った瞬間、あたしは望くんの胸の中に包まれていた。
「大好きなんだって。分かってよ」
耳の後ろで囁かれて、思わず頷きそうになるのをなんとか止めた。
反応のないあたしからゆっくり離れた望くんは、「ごめん、約束やぶってばっかだね」と寂しそうな目をして、先を歩き始めた。