だから、好きとは言わない

5 溺れて、沈む

 夕飯はカレーにしようとは言ったものの、煮込む時間に訪れた沈黙に堪えられずに、あたしは冷蔵庫から冷えたビールを取り出した。

「望くん、飲もっか?」

 テーブルに肘を付いてスマホを操作していた望くんに振り返って笑顔を向ける。だけど、望くんはなんの反応もない。

 あ、あれ? 聞こえなかったかな?

 少し虚しくなって、一人で先に缶を開ける。一口飲んで、壁に寄りかかりながら望くんのことをじっと見ていた。
 そこにいることがもう当たり前のように感じるほど、望くんはあたしのうちに馴染んでしまっていて、違和感がない。
 さっきから、スマホと睨めっこしているけれど、アプリゲームでもやっているのだろうか?
 寛人がいつもやっているって言っていたし。
 もう一口ビールを口にした瞬間に、望くんがいきなり立ち上がった。

「ごめん、ちょっと待って」

 スマホを耳にあてたかと思うと、ベランダへ出ていった。
 一瞬、ふわりと生温い風が部屋の中へと舞い込んでカーテンを揺らした。
 望くんがベランダへと出てから数十分。

 あたしはカレーを完成させて、レタスときゅうりとトマトで簡単なサラダを作ると、望くんが戻ってくるのを待っていた。

「あ、ごめん、実智ちゃん。待っててくれたの?」
「うん、電話終わった? 用意するね」

 ベランダの戸が開いて、望くんが入ってくるから、あたしはキッチンへと向かう。

「俺も手伝うよ」
「うん、じゃあそのサラダ持っていってくれる?」
「うん」

 小さなテーブルに二人分のご飯が並ぶ。

「ごめんね、食器揃ってなくて」

 ここに凌が一緒にいたなら、たぶん食器も二人分揃ってあったのかもしれないけど、そんなことはなかったから、あたしと望くんのお皿は別々なものにカレーが盛り付けてある。

「……誰かと同棲してたわけじゃないんだね。初めてきた日に借りたスウェットも、新品だったし」
「……うん」

 これから、始めようとしていた所だった。凌と一緒に暮らしていこうと、広い部屋を探して、必要なものを少しずつ揃えようって。少しずつ始めていたばかりだったのに、凌にとってはもうとっくに終わっていたんだ。
 いつからすれ違っていたんだろう。なんだか、思い出すことさえ虚しい。
 静かに食べ始めたあたしを見て、望くんも小さく「いただきます」と手を合わせた。

「……あのさ」

 カレーを食べつつ、望くんが話を切り出してくる。

「うん、なに?」
「さっきの電話、職場の同期の子からだったんだけど」
「うん」
「日曜日、一緒に出かける約束しちゃってさ、一回断ったんだけど、今また電話で誘われて……それで……」

 困ったように目を伏せながら、カレーのルーをご飯へと寄せてゆっくりとスプーンに掬う望くん。
 もしかして、迷ってるのかな?
 同期の子だったら、仲良くするいい機会だと思うけど。

「いーじゃん、行って来なよ。同期とは仲良くしていた方がいいよ」
「え……あ……うん」
「なに? 乗り気じゃないの?」

 掬ったスプーンを止めたまま、望くんの顔が上がって、視線がしっかり合った。

「……だって、女の子だよ? 実智ちゃん……どう思う?」

 必死な表情の望くんに、あたしは呑気に答えた。

「え、どう思うもなにも。楽しんできたら良いじゃん」
「……そう……」

 あたしの返答に、明らかに影を落とした瞳は視界から外れた。

「あたしも土曜日の夕方から予定あるし、たぶん泊まりになる可能性大かもしれないから、日曜日はお互いにフリーだから安心していいよ。鍵は明日午前中のうちに作ってくるね」
「……え、泊まり……?」
「うん。同期と街探検してきなよー。色んな発見があって、きっと楽しいよ」

 田舎にはなかった物がたくさんあって、一日じゃ遊び足りな過ぎるんだよね。あたしもあの頃は楽しかったなぁ……。
 物思いに耽ると、うっすらと姿を表す凌の笑顔。それを掻き消すように頭を小さく振って、ため息をついた。

「泊まりって、冴島さんのとこ?」
「うん」

 ああ、なんですぐ出てくるんだバカ凌。

「あー、そ。わかったよ。じゃあ俺も行ってくるから」

 急に目の前の望くんがカレーを勢いよく食べ始めるのを見て、頭の中の凌の笑顔が消えた。

「おかわり!!」
「あ、うん」

 ズイっと空っぽのお皿を睨むような視線で差し出されて、あたしは頭の中で会話を巻き戻した。

 キッチンでご飯をよそい、カレールーをかける瞬間に、寛人の所へ泊まる話に頷いたことを思い出す。

 あ、やばい。
 寛人のとこに泊まりに行くなんて、望くんにとっては最悪な発言じゃん。何してんだあたし。
 もう、これもそれも凌のせいだ! 考えたくもないし考えなくて良いのに、いつまでもあたしの中に居座り続けて。
 本当に、どうにかして欲しい。

「……はい、どうぞ」

 おかわりのカレーを望くんの前に置いて、あたしは残りのカレーを食べ終えた。

 どうしよう。ここで変に言い訳したって仕方ないし。
 誘われた女の子って、多分望くんのことが気になるから誘ったんだよね。同期だし、仲良くしてその子と上手く行ったほうが、望くんはきっと楽しいはずだよ。
 だったらいっそのこと、あたしは寛人とそういう仲だって思ってもらった方が、気が楽かもしれない。
 だけど、嘘はつきたくないしな。
 またしても出てしまうため息に、グラスの水を飲んだ。

「……実智ちゃん」

 ポツリと望くんの声がして、顔を上げた。

「俺は、誰と会おうが誘われようが、好きなのは実智ちゃんだけだからね。ちゃんと覚えてて」

 泣きそうに、だけど、絡まった視線は揺るがなくて真剣で。どうしてそんなに真っ直ぐになれるんだろうって、その目を逸せなくなる。

 そんな風に、凌に好きって言ってもらえたことあったかな?
 あったんだよね。
 きっと、望くんくらいの歳の頃はお互いに大好きだった。
 毎日会いたくて、会えても足りないくらいに好きが溢れていて、ずっとそばにいたくて。そんな気持ちも、いつからなくなってしまったんだろう。
 望くんの気持ちだって、いつかはなくなってしまう時が来るかもしれない。そう思うと、真っ直ぐに向けてくれるその気持ちも、素直には受け取れないんだ。

 なんでこんなに器がちっちゃくなっちゃったんだろう。
 いや、違うかな。
 好きで満たして欲しい器が大きすぎて、足りないんだ。全然足りない。
 凌からの愛がなくなってから、あたしの器は空っぽで、あの日、結婚の報告を聞いた時に割れて壊れてしまったんだ。
 あたしの中の愛を受け取れる器が、なくなってしまったんだきっと。
 素直に望くんの愛を受け入れられないのは、そう言うことだ。

「……冴島さんならさ、実智ちゃんにそんな顔させないんだろうな」
「……え」
「実智ちゃん、冴島さんといると楽しそうだし、心許してる気がするし、笑顔だし……俺が実智ちゃんと一緒に同じ部屋に居るってわかってるのに、あの人全然余裕だし。本当はめちゃくちゃ悔しいんだよ、俺……」

 食べ終えたお皿を持って立ち上がると、望くんは流しへと向かってお皿を洗う音が聞こえてくる。
 嘘なんて付かなくても、望くんはあたしと寛人のことで十分傷ついてたんだ。
 更に嘘をつこうなんて考えていたあたしは、酷過ぎる。

「ご馳走様。先に風呂入るね」
「うん……」

 目を合わせてくれずに望くんはバスルームへと消えていった。

 望くんは職場で寛人とも顔を合わせていて、もしかしたらあたしの話もしているのかも知れない。
 いや、仕事中にそれはないかな。
 寛人はもう結構上の立場に付いているし、新入社員の望くんとはそこまで親しくしていないのかもしれない。
 だけど、一緒に数日でも生活してたんだよね?
 気になる。気になるけど……聞けない。
 自分の食器を片付けてテレビを付けた。
 話題のドラマのオープニングが流れる。もう五話まで話の進んでいるストーリーの内容がよく分からないあたしは、テレビはそのままで部屋着に着替えた。
 ベッドの上でスマホを眺めていると、望くんが肩にタオルをかけて戻って来た。

「……これ、見てんの?」
「え」

 スマホに夢中でテレビなんて見ていなかったあたしは、リモコンを手にして近付いてくる望くんの前に立った。

「見てないよ。違うのにしてもいいからね。あたしもお風呂行って……」

 なかなかリモコンを受け取らない望くんに首を傾げつつ、バスルームへと行こうとした瞬間に、お気に入りのボディソープの匂いに包まれた。

「もう、俺さ。どうしたらいい?」
「え……ちょ、」

 きつく抱きしめられて、あたしは驚いて身動きが取れない。

「好き……まじで、大好き……もう、実智ちゃんのことしか考えてない。実智ちゃんが俺を見てくれてなくても、もう良い。俺は実智ちゃんを愛してるから」

 ゆっくり体を支えられて、ベッドに押し倒される。
 望くんの髪から滴る雫があたしの頬に落ちると同時に、唇を塞がれた。
 望くんの手があたしに触れてくる。
 優しいけど、少し荒々しいのは、望くんがずっと苦しんでいる気持ちをぶつけてるからのような気がする。
 触れられるのも、キスをされるのも、嫌じゃない。嫌じゃないけど、これを受け入れてしまった後のことをどうしたって考えてしまう。

 このままじゃダメだ。
 このままじゃ。

 そう思って抵抗しようにも、望くんが優しすぎて思考が惑わされる。

 いつも望くんの地雷を踏むのはあたしだ。
 初めて会った時の音楽といい、今回はきっとこのドラマ。
 毎週寛人が楽しみに見ているって言っていたのを思い出した。別にあたしは寛人が見ているから付けていたわけじゃない。たまたまだし、そもそも見てなんていなかった。
 だけど、望くんからしたら、きっとあたしと寛人を関連付ける地雷で、完全にあたしが悪い。

 このまま、また受け止めてもいい?

 今回はお酒もそんなに飲んでいない。もう酔った勢いなんてものは通用しない。
 望くんだって正気だし、ここでこのまま受け止めたら、あたしってなんだ?
 だからって、拒んで突き放す?
 どうしよう。どうしよう。

 迷いながらも、触れられる指や唇の感触にいちいち身体は反応してしまう。嫌だなんて、言えないくらいに欲しくなる。
 せっかくお風呂に入った望くんの身体が熱くて汗ばんでしまっている。
 優しい愛撫にもう何も考えられなくなって、望くんのことを完全に受け止めてしまった。

 だけど、「実智ちゃん、俺のことを好きになって」切ないほどに熱を帯びたその言葉には、頷くことは出来ない。
 こんなに望くんはあたしのことを愛してくれているのに、あたしは望くんの身体だけを受け入れて果てた。


 隣で眠ってしまった望くんの寝顔が、微笑ましい。だけど、心の中では罪悪感が残る。
 そっとベッドから抜け出て、あたしはバスルームへと向かった。脱がされた服や下着は洗濯機へ。シャワーを浴びて鏡の中を覗くと、驚いてしまう。
 数カ所に赤く色付く跡。望くんのあたしを見つめる表情を思い出して、胸が締め付けられた。

 だめだ、あたし望くんのことが好きかも知れない。

 頭の中では凌のことを思い出しても、触れられて優しくしてくれる望くんのことが、あたしだって愛しい。嫌いだったら、望くんの愛を受け入れたりしない。
 触れないでって言ったのだって、あたしの自我のためだ。触れられてしまえば、あっさり体を許してしまう。こんな簡単な女のどこが良いんだ、望くんは。

 長めに湯船に浸かって、髪を乾かして戻ると、望くんは自分の布団の中にいた。
 あたしのベッドは綺麗にメイキングされている。まるで、何もなかったかの様に。
 先ほどまで熱く交わり乱れていたシーツはピンッとしてひんやりとしている。少し、寂しい気がした。
 目を瞑って眠ろうとした時、望くんの布団が擦れる音が聞こえる。

「……我慢できなくてごめん。こんなに愛して、ほんとごめん」

 望くんの声は震えていて、あたしは両手で布団の端を握りしめた。
 辛い思いをさせてしまっている。
 望くんの愛は真っ直ぐなのに、あたしが曖昧な気持ちで受け入れることも、突き放すこともしないからだ。

 いっそのこと、嫌いになれたら。

 凌にも、そう思った。あたしを愛してくれた凌を嫌いになんてなれなかった。望くんだって、あたしを愛してくれていて、嫌いになんてなれない。
 だけど、きっとこのままではいけない。望くんに好きと言わないのは、未来が怖いから。
 また凌のように、突然離れていってしまうんじゃないかと思うと、怖いから。
 だったら、最初から期待しない方がいい。
 あたしは望くんに何も言えずに背を向けた。


「はい、どうぞ」
「……ん、ありがと。いただきます」

 手を合わせて、でも、あたしにはやっぱり目を合わせずに望くんはトマトケチャップを手にした。
 一瞬ためらってから、望くんは一本の波線をオムレツに書く。あたしも同じ様にした。
 沈黙の中、食べることに集中している望くんに、あたしは不安になってくる。

 昨日のこと。あたしは望くんのことを受け入れてしまった。だけど、好きにならないと決心は固い。しかも、寛人のうちに泊まるかもしれないと発言している。
 望くんの頭の中では、あたしと寛人がそういう関係かもしれないと勘違いしているかもしれない。

 ちょっと待って。
 それって、あたしが二股してるってことになる? いや、してないよ?
 あたしと寛人は泊まりに行ったとしても、そこで何か関係があることは絶対に有り得ないから。
 でも、望くんの想いを受け取らずに、昨日みたいに身体だけ受け入れているあたしって、なんか最低じゃないか?

 望くんの気持ちを弄んでるって思われても、仕方ないかもしれない。軽い女なんだなって、もう、呆れられているのかも。

「……実智ちゃん」
「うぇ、は、はい?」

 色々考えていたら、突然望くんに声をかけられて声が上ずる。

「俺、実智ちゃんの言うこと全然聞けない奴だよね。こんなんじゃ、嫌われて当たり前だって反省してる。昨日も……ごめん。止めらんなくて……ほんと、ごめん」

 シュンとした表情は、じっとオムレツを見つめている。

 不謹慎かもしれない。いや、確実に不謹慎だ。
 あたし、望くんのこと可愛くて仕方ない。抱きしめてあげたい。
 もう、これって、望くんのこと絶対好きだ。
 なんでこんなにこの子は素直なんだろう。あたしのことを二股とか軽い女だなんて、たぶん思ってもいないんだろうな。
 ただ、真っ直ぐに、あたしの事を考えてくれている。

「実智ちゃんが、俺を好きにならない理由はなんなの?」

 やっと、ずっと合わずに逸れていた視線があたしの目をとらえて繋がった。

『望くん、実智の救世主なのかもしれないよ? 好かれてるのは良いことじゃん。甘えちゃいなさいよこの際』

 友香の声が、頭の中で響く。

「……あたしが、望くんを好きにならない理由は……」

 フォークを持つ手に力がこもる。
 答えようとした瞬間、望くんのスマホが鳴り出した。チラリとテーブルの上のスマホに視線を向けて、望くんはため息をつく。

「お疲れ様です。はい、大丈夫です」

 席を外すことなく電話に対応する望くんに、あたしは胸を撫で下ろす。
 凌とのことを話したって、望くんにはどうしようもないのに、今あたし、話そうとしてしまった。

「俺、今実智ちゃんの作ってくれたオムレツ食べてます。え? は⁉︎ んなことしないです。じゃあ失礼します」

 淡々と会話をしていた望くんは最後に焦る様に通話を終了させて、あたしの方を見て眉間に皺を寄せた。

「え……どうしたの?」
「なんでもない! これ食べたらちょっと行ってくるから。なんか話があんだって。冴島さんが!」

 あ、寛人からの電話だったんだ。

 不機嫌に残りの朝食を平らげて、望くんは行ってしまった。

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