だから、好きとは言わない
6 真実に、素直になる
一人になった部屋でのんびり朝食を済ませると、布団を干して部屋の掃除をする。
片付いた部屋から出て、あたしは最近お気に入りの雑貨屋さんへと足を運んだ。
店内には海外から買い付けて来たアンティーク家具や小物、ハンドメイドのアクセサリーや陶芸品など、多種多様な店主の趣味が詰め込まれている。
寛人がお茶を飲むのにいい湯呑みがほしいと最近言っていた。なんなら、あたしと友香の分も揃えて買っちゃおうかな。ちょうど桜の形が切り抜かれた趣のある湯呑みが並んでいるのを見つけた。
手に取って値段を確認すると。
……一万五百円……!!
意外に高いな。まぁ、買えなくはないし普段からお世話になっている二人には妥当な値段だ。むしろ安いくらいだ。
可愛いし、これにしよ。
悩まずにあたしは湯呑みを二つ購入してスペアキーを作りに向かった。
夕飯、あたしは良いけど望くん一人になっちゃうな。なにか作っておいてあげようかな。
スーパーへと向かっていると、スマホが鳴った。着信は、寛人。
『あ、実智今大丈夫か?』
「うん、平気だよ。どうしたの?」
スーパーの入り口でカゴを手に持ち、スマホを耳に当て直してあたしは野菜コーナーを眺めながら応えた。
『望の住むとこなんだけど、良いとこ見つけたんだよね。ちょっと実智にも相談したいんだよ。今から来れる?』
「え、あたしにも?」
相談って、望くんが住むんだもん、本人に聞けば良いのに。まぁ、あたしは寛人の中では望くんのお姉ちゃん的存在だけど、本当なわけではないし。望くんだってもう大人だ。
『とりあえずさ、うちの職場のロビーで待ってるから』
「あ、うん」
じゃあ、買い物は望くんに何が食べたいか聞いてからにしようかな。
あたしはカゴを元に戻してスーパーから出ると、寛人の職場を目指した。
ビルの一階、ガラス張りの広いロビーで寛人と望くんがソファーに座って待っていた。
あたしは慣れない場所に戸惑いつつ、二人に近づく。
気が付いた寛人が笑顔で手を振ってくれるから、駆け寄った。
「ごめんな、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫。寛人こそ休みなのに大変だね」
「いや、実智のアパート狭いだろ? いい加減可哀想だと思ってさ。良いとこ見つけたんだよ」
座ってと、望くんの隣に手を向けられて、あたしは望くんへと笑顔を作ってから座る。
明らかに棘のある笑顔が返って来て、苦笑いをしてしまった。
テーブルに広げてある用紙に目を通すと、なんだか見覚えがある気がしてならない。
「ここさ、去年借り抑えしていた人がいたらしいんだけど、その後全然連絡取れなくなってもう見込みなさそうだし、借りてくれるなら良いよって知り合いが言ってくれて」
すごいラッキーでしょう? と、嬉しそうに説明してくれる寛人に、あたしはその用紙から目が離せない。
ここ、あたしが凌と一緒に住もうと思って借り抑えしていたとこだ。
あの後、ショック過ぎてすっかり借り抑えを止める連絡をするのを忘れていた。そう言えば、仕事でタイミングが合わなくて出られなかったけど、何度か連絡が来ていた気がする。
「でもさ、ここって望くん一人住むには広くない?」
しかも家賃も結構するし、社会人デビューしたばかりの望くんにはちょっと厳しいんじゃないかな。
「だからさ、実智のこと呼んだんじゃん。実智がこっちに住んで、今実智のいるアパートを望に住まわせれば良くない?」
寛人の提案に、あたしは目を見開いた。
それ、良いかも。
「あ、ちなみにここさ、俺の住んでるマンションの同じ階だったから余計に良いと思ったんだけど」
「……え! ここ、寛人の住んでるマンションだったの?!」
嘘。全然知らなかった。
確かに紙面だけで間取りとか良さげだし、駅にも職場にも近いし、とりあえずで借り抑えしていたんだ。
まだ実際にこの場所を見学しに行ったわけではなかった。もう必要ないと思って、見にいくどころか借り抑えのことすら忘れていた。
あー、ほんとダメダメだな、あたし。
「実智が近くにいればいつでも飲めるし、外出ても帰るとこ一緒なら楽だろうし」
あたしのことまで考えてくれたんだな、寛人は。やっぱり優しい。
「ありがとう、寛人」
素直に嬉しくて、笑顔と感謝が溢れて来た。
ずっと寛人には支えられているし、近くに住んでしまったら、ますます甘えてしまうかもしれないのに。
それでも、寛人はあたしのことを広い心で受け止めてくれるんだろうな。
「で? 俺の意見は無視なんですか?」
急に隣から刺々しい言葉が刺さってくる。
腕組みをしてあたしを睨むのは、望くん。
なんか、怒りが溢れている。
「あー、ごめん、望」
すぐに、寛人が柔らかい笑顔で望くんを見る。
「望さ、実智といてご飯とか掃除洗濯してくれる人がいて助かるから、ここの部屋をシェアしたいって言うんだけど、それはどう? こればかりは、後は実智の判断に任せるしかないから」
威圧的な表情の望くんに、やれやれと苦笑いであたしに説明する寛人。
いや、ご飯とか掃除洗濯って。あたしはお母さんか? その前に望くんはそれ全部自分で出来るよね? むしろあたしよりも上手い気がする。
完璧な厚焼きたまごに、きちんと畳まれた布団。食事後の後片付け。見て来た分には一人でなんでもこなせるとしか思えない。
シェアって、望くんと部屋は違えど同じ空間に暮らすことは変わりないって事だよね。
寛人の最初の提案で良くない?
「悩むよな? まだ少しなら考える余裕あるから、来週までには二人で答え出してよ」
テーブルの上を片付けながら、寛人は微笑んだ。
そっと隣にいる望くんを見ると、もうこちらを睨んだりはせずに、ぼうっと外を眺めている。
「とりあえず、実智、また夕方な。望も休みなのに呼び出してごめん。また来週よろしくな」
爽やかな笑顔であたしと望くんを残して、寛人は去っていってしまった。
「……あー、イラつく」
ボソリと望くんが呟くのを聞いて、あたしは横顔を見つめた。
「実智ちゃんも冴島さんも、俺のことなんか子供にしか見えてないんだな。こうやって色々面倒見てもらえて助かるし嬉しいよ? けどさ、俺のこと全然分かってない」
ため息を吐き出した望くんは、あたしの方へ視線を向ける。
「俺は実智ちゃんと一緒がいい。別に今のアパートだって十分だし。ただ、近過ぎると俺の我慢の限界が早まるから、もう少し離れてもいいんだけど……今、離れたら実智ちゃんを失いそうで怖い。だから場所が変わっても同じ空間にいたい。ずっと、そばにいたいんだよ俺は」
歪んだ表情は苦しそうに辛そうで。
あたしまで胸が締め付けられた。
「これ、スペアキー。どうするか、あたしも考えるから、望くんももう一度考えてみて」
そっとテーブルの上に鍵を乗せて、あたしはビルを後にした。
なんだか、夕飯どうする? という流れには持っていけなくて、あたしはとりあえず昨日のカレーがあることを思い出して、それを食べてねと望くんにメッセージを送った。
約束の時間通りに寛人のマンションまでたどり着いた。入って来ていいよと言われて玄関のドアを開けるが、なぜか部屋の中は暗い。
わー、これ。絶対に驚かせるつもりだよね? あたしが暗闇嫌いなの分かってるはずなのになぁ。
恐る恐る靴を脱いで、玄関脇にある明かりをつけるスイッチを探してみる。空振りばかりで何も手に引っかからずに諦めた。
「……暗くて見えない」
ゆっくりゆっくり前へと向かって、リビングのドアノブに手をかけた瞬間、目が眩むくらいに部屋の中がパッと明るくなった。
「「ハッピーバースデー!! 実智ーっ」」
パンパンパパンッと、クラッカーの音と火薬の香りを浴びせられて、あたしは心臓が飛び出たかと思うくらいに驚いて座り込んだ。
「あはは! 遅くなっちゃったけど、実智誕生日おめでとうーっ。やっぱり三十はこれくらい派手にしないとねー」
はしゃぐ友香は、とんがり帽子にバースデーメガネをかけて登場した。
へたり込んでしまったあたしにも、友香のよりも大きめなとんがり帽子をかぶせてくる。
部屋の中は風船がいくつも飛んでいて、ハッピーバースデーの文字を彩る。いつにも増して豪勢な部屋のディスプレイに、あたしは思わず涙が込み上げて来た。
「あ、実智泣いてる。歳取ると涙腺緩むよね。あたしも最近すぐ泣いちゃう」
「うぅ、ありがとう……」
悩んだり過去のことに未練がましかったり、未来に不安を抱いたり、毎日毎日、あたしの心は不安定で、だけど、やっぱり持つべきものは友達だ。一気にそんなの吹っ飛ばしてくれる。
テーブルの上には豪華なお重が並んでいて、お宝のように煌めいて見えた。
「とりあえず乾杯しようぜ」
シャンパングラスに三人分、寛人が注いでいるのは、スパークリングした日本酒。
淡いピンク色が綺麗だ。
「わ! なにこれ、可愛い」
「でしょ? 今日の帰りに酒屋さんで見つけたんだよね」
「ではではー、実智の三十歳と明るい未来に向けて! 乾杯っ」
友香が掲げたグラスへと、あたしと寛人のグラスが重なる。
弾ける気泡を眺めて、香りを確かめてから口にした。甘酸っぱい爽やかな酸味と甘味が広がってとても飲みやすい。
「美味しいっ!」
「うん、これガブガブ飲んじゃうやつだ」
「最初っからペース早めるなよ、友香。帰りの清春さんにいつも申し訳ないんだから」
「大丈夫! 彼はあたしの全てを受け入れてるから。あ! 実智、あたし特製のミネストローネもあるよー」
「わ! やった! あたしの大好物」
「ふふ、待っててね」
友香は一旦グラスを置いてキッチンへと入っていった。
「さっきさ、望にも実智の誕生日会来ないかって誘ったんだけど、あっさり断られたよ」
「え、そうなの?」
「うん。やっぱり遠慮してるよな、望」
苦笑いをして、寛人はグラスの中の日本酒を口にする。
「この前は、凌のことまだ忘れられていない感じだったけど、実智は凌に気持ちは残ってるの?」
一人分空けたソファーの隣に座って、寛人が聞いてくる。
たまに思い出してしまうのは本当だ。忘れようと思っているし、愛していた過去の時間は本物だけど、壊れてしまった凌への想いは、もうすでになくなっている気がする。今のあたしの中には、好きとか愛しているとか、そういう感情はないんだと思う。
「凌のことは、たまにしか思い出さないよ」
望くんに愛される度に、凌を思い出していた。きっと、比べる対象があたしには凌しかいなくて、自分の気持ちを抑えるためにも、過去のしがらみに縋り付いていたのかもしれない。
あたしの中でだって、きっと凌とはだいぶ前から恋愛は終わっていたんだ。
十年という長い間、彼氏としてのポジションにいた人と、当たり前に結婚を考えなければならないと、頭が勝手に働いたんだろう。
だから、あたしはマンションを探して、二人で生活するための準備をし始めた。
そのきっかけは、友香の結婚だった気がする。
「あたし、友香が清春さんと結婚して、次は自分もって、勝手にそう思ってしまっただけだったのかもしれない」
だって、凌は友香の結婚式には参加しなかった。その頃には、あたしと会うこともほとんどなくなっていたし、連絡も取れていなかった。別に喧嘩をしたわけではなかったけど、あたしは凌が側にいなくても寂しいなんて思ったりしていなかった。
「実智にはずっと言わなかったんだけどさ」
寛人が静かにグラスをテーブルへ置いて、手を組んだ。
「凌、実智が仕事してるとこがカッコいいって。自分よりも仕事優先で、でも、好きなことして笑っている実智が好きだって。ずっと言ってたんだよ」
穏やかに笑う寛人に、あたしはその言葉の意味が分からなすぎて、呆然と聞いていた。
「凌はずっと実智のこと想ってた。うちに居座ってよく愚痴こぼしてたし、実智への愛は深かったと思うよ。でもさ、実智との未来が見えないって、だいぶ悩んでたよ。もう、実智には自分への想いは空っぽだって。凌は気が付いたんだよ。だから、実智のこと、自分のせいにして解放してあげたんだと思う」
「……え」
なに、それ。
「今の奥さんさ、付き合って結婚まではあっという間だったけど、出逢いは六年前くらいでさ。たぶん、実智が仕事絶頂期の時なんだよね」
え……
あれは、突発的な凌の浮気だったんじゃないの?
可愛い後輩に言い寄られて、あたしと上手く行ってなかったからその子を抱いて、子供が出来ちゃったから、結婚したんだと思っていた。
あの後輩の子と、六年も前から知り合いだったの?
あの頃、凌からも結婚の話は出ていた。それに加えてお母さんからも。
あたしはと言うと、仕事が一番楽しくて、やりがいがあって、結婚なんて考える暇もなく自分の楽しさを優先していた。
凌と距離が空くようになったのは、結婚という言葉を否定してしまったあの日からかもしれない。
毎日仕事は多忙で、だけどやりがいを感じていたあたしは、凌と会う時間を削ってでも仕事優先に動いていた。
あの日だって、後輩の失敗を手伝うために残業して、凌との約束の時間にだいぶ遅れてしまった。予約してくれていたレストランがあったって言っていたな。
いつもは居酒屋なのに、レストランだなんて急にどうしたんだろうと、首を捻った。
結局いつもの居酒屋でいつものように過ごした。そして、帰りの車の中で会話は仕事の話。だけど、凌が遠慮がちに切り出してきたんだ。
『実智、最近忙しいよね。あんまり会えないし。だからさ、俺さ、そろそろ本気で実智とのこと考えてるんだけど、その……結婚、とか、どう思う?』
『ごめん、凌。あたしは、結婚したくない』
今はまだいいって言ったつもりだった。凌とは今まで通りに付き合っていられれば良い。結婚はいつでも出来るから、だけど、それは今じゃない。
そんなことを思って、簡単に凌からの言葉を否定してしまったんだ。
思えば、あの時、凌はあたしにプロポーズしようとしてくれていたのかもしれない。彼にとっての一世一代のプロポーズを、あたしは簡単に振り払ったんだ。
ーーーー
「もう、実智とは付き合っていけないかもって、凌はずっと悩んでたよ」
「なにそれ、聞いてないよ? あたしの中の凌は実智のことほっといて、若い子と浮気してはらませちゃうような最低最悪男だった。なのに……寛人にだけは本当の悩みを打ち明けていたってこと?」
湯気の立ち上るスープ皿をあたしと寛人の前へとゆっくり置きながら、友香が眉を顰める。
「実智と結婚するって思っていたのに断られて、幸せそうな友香と清春さんのことを見て、吹っ切れたんだよ、きっと。ずっと想ってくれていた今の奥さんと徐々に親密になった過程を俺は知ってるから、今は心からおめでとうと、思ってる」
さっきまで弾けたように楽しかった雰囲気が、まるで帷が降りたように暗くなった。
「ごめん、せっかくのめでたい席なのに。でもさ、わかってやってほしいなって思ったんだよ。ただの最低な浮気男で終わらせたら、なんか凌が可哀想でさ。結局、親友なんだよ、色々あったって。見離せない。凌も実智も。だからさ、実智も前に進んで良いんだよ」
いつもの柔らかい顔で、あたしの頭をとんがり帽子ごと撫でてくる寛人に、苦しかった胸の堰き止めていた思いが溢れ出てくる。
あたしだけが苦しかったんじゃない。
凌にも苦しい思いをさせていた。
寛人にも悩ませてしまっていた。
あたしはどれだけわがままで自分勝手で、自己中心的に世の中を生きて来たんだろうって実感する。周りが優し過ぎるから、あたしの周りには優しい人しかいないから、甘え過ぎて生きて来たんだ。
あたしばかり辛いと、勝手に思って。
「寛人はマジで優しすぎる!!」
涙を拭っていたあたしの横で、友香が寛人に抱きついた。
「あーあ、もう、実智ったらまた自分が悪いって顔してるよ? そんなことないんだからね。実智も凌くんも、なるようになったってことだよ。最後にみんなが幸せになれば、あたしはそれでオッケー! そしてさ、こんないい男他にいないのになんでまだ一人なの? 寛人ー!」
潤んだ瞳の友香に苦笑いを浮かべて、寛人は冷静に首に巻きついた友香の腕を解くと、立ち上がった。
「いい男いるだろ、清春さんが。まぁ、でも、ありがと友香。俺だって実智も友香もいい女だと思ってるよ? スープのスプーン持ってくるな」
キッチンへと向かった寛人の後ろ姿を見て、あたしへと詰め寄る友香はため息をついた。
「寛人こそさ、幸せになってほしいよね。人の悩みや辛さを誰よりも分かってくれるのが寛人だけど、寛人の悩みや辛さってどこで吐き出してるんだろう。いつも優しいし頼りになるし、いつか爆発しなきゃいいなと思ってるんだけど」
キッチンでスプーンを探す寛人を目で追いながら、友香の言葉に耳を傾ける。
「実智はさ、前に進んでいいと思うよ。自分の気持ちに素直になっていいと思う」
はい、とハンカチを差し出されたあたしの頭の中に、満面の笑みで尻尾を振る望くんの姿が思い浮かんだ。思わず、口元が緩んでしまう。
「ほら、今考えた人のこと、ちゃんと向き合ってみたらいいんじゃない? 決断を急ぐことはないけど、思うままに動くことだって大事だよ? 楽なのは分かるけど、受け身ばかりじゃ向き合えないと思う。素直になりな、ね」
二人よりも早く三十歳になったあたしなのに、ずっとずっと大人な二人に励まされて、あたしは情けない。
だけど、歳なんて関係ない。
寛人や友香があたしのことを大切に思ってくれているから。その気持ちが、あたしにずっと寄り添ってくれているから。見放されないように、強く自分に正直にならなくちゃ。
「あたし、望くんとちゃんと話してみる」
決心を固めて、あたしはグラスの中のお酒をグイッと飲んだ。
片付いた部屋から出て、あたしは最近お気に入りの雑貨屋さんへと足を運んだ。
店内には海外から買い付けて来たアンティーク家具や小物、ハンドメイドのアクセサリーや陶芸品など、多種多様な店主の趣味が詰め込まれている。
寛人がお茶を飲むのにいい湯呑みがほしいと最近言っていた。なんなら、あたしと友香の分も揃えて買っちゃおうかな。ちょうど桜の形が切り抜かれた趣のある湯呑みが並んでいるのを見つけた。
手に取って値段を確認すると。
……一万五百円……!!
意外に高いな。まぁ、買えなくはないし普段からお世話になっている二人には妥当な値段だ。むしろ安いくらいだ。
可愛いし、これにしよ。
悩まずにあたしは湯呑みを二つ購入してスペアキーを作りに向かった。
夕飯、あたしは良いけど望くん一人になっちゃうな。なにか作っておいてあげようかな。
スーパーへと向かっていると、スマホが鳴った。着信は、寛人。
『あ、実智今大丈夫か?』
「うん、平気だよ。どうしたの?」
スーパーの入り口でカゴを手に持ち、スマホを耳に当て直してあたしは野菜コーナーを眺めながら応えた。
『望の住むとこなんだけど、良いとこ見つけたんだよね。ちょっと実智にも相談したいんだよ。今から来れる?』
「え、あたしにも?」
相談って、望くんが住むんだもん、本人に聞けば良いのに。まぁ、あたしは寛人の中では望くんのお姉ちゃん的存在だけど、本当なわけではないし。望くんだってもう大人だ。
『とりあえずさ、うちの職場のロビーで待ってるから』
「あ、うん」
じゃあ、買い物は望くんに何が食べたいか聞いてからにしようかな。
あたしはカゴを元に戻してスーパーから出ると、寛人の職場を目指した。
ビルの一階、ガラス張りの広いロビーで寛人と望くんがソファーに座って待っていた。
あたしは慣れない場所に戸惑いつつ、二人に近づく。
気が付いた寛人が笑顔で手を振ってくれるから、駆け寄った。
「ごめんな、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫。寛人こそ休みなのに大変だね」
「いや、実智のアパート狭いだろ? いい加減可哀想だと思ってさ。良いとこ見つけたんだよ」
座ってと、望くんの隣に手を向けられて、あたしは望くんへと笑顔を作ってから座る。
明らかに棘のある笑顔が返って来て、苦笑いをしてしまった。
テーブルに広げてある用紙に目を通すと、なんだか見覚えがある気がしてならない。
「ここさ、去年借り抑えしていた人がいたらしいんだけど、その後全然連絡取れなくなってもう見込みなさそうだし、借りてくれるなら良いよって知り合いが言ってくれて」
すごいラッキーでしょう? と、嬉しそうに説明してくれる寛人に、あたしはその用紙から目が離せない。
ここ、あたしが凌と一緒に住もうと思って借り抑えしていたとこだ。
あの後、ショック過ぎてすっかり借り抑えを止める連絡をするのを忘れていた。そう言えば、仕事でタイミングが合わなくて出られなかったけど、何度か連絡が来ていた気がする。
「でもさ、ここって望くん一人住むには広くない?」
しかも家賃も結構するし、社会人デビューしたばかりの望くんにはちょっと厳しいんじゃないかな。
「だからさ、実智のこと呼んだんじゃん。実智がこっちに住んで、今実智のいるアパートを望に住まわせれば良くない?」
寛人の提案に、あたしは目を見開いた。
それ、良いかも。
「あ、ちなみにここさ、俺の住んでるマンションの同じ階だったから余計に良いと思ったんだけど」
「……え! ここ、寛人の住んでるマンションだったの?!」
嘘。全然知らなかった。
確かに紙面だけで間取りとか良さげだし、駅にも職場にも近いし、とりあえずで借り抑えしていたんだ。
まだ実際にこの場所を見学しに行ったわけではなかった。もう必要ないと思って、見にいくどころか借り抑えのことすら忘れていた。
あー、ほんとダメダメだな、あたし。
「実智が近くにいればいつでも飲めるし、外出ても帰るとこ一緒なら楽だろうし」
あたしのことまで考えてくれたんだな、寛人は。やっぱり優しい。
「ありがとう、寛人」
素直に嬉しくて、笑顔と感謝が溢れて来た。
ずっと寛人には支えられているし、近くに住んでしまったら、ますます甘えてしまうかもしれないのに。
それでも、寛人はあたしのことを広い心で受け止めてくれるんだろうな。
「で? 俺の意見は無視なんですか?」
急に隣から刺々しい言葉が刺さってくる。
腕組みをしてあたしを睨むのは、望くん。
なんか、怒りが溢れている。
「あー、ごめん、望」
すぐに、寛人が柔らかい笑顔で望くんを見る。
「望さ、実智といてご飯とか掃除洗濯してくれる人がいて助かるから、ここの部屋をシェアしたいって言うんだけど、それはどう? こればかりは、後は実智の判断に任せるしかないから」
威圧的な表情の望くんに、やれやれと苦笑いであたしに説明する寛人。
いや、ご飯とか掃除洗濯って。あたしはお母さんか? その前に望くんはそれ全部自分で出来るよね? むしろあたしよりも上手い気がする。
完璧な厚焼きたまごに、きちんと畳まれた布団。食事後の後片付け。見て来た分には一人でなんでもこなせるとしか思えない。
シェアって、望くんと部屋は違えど同じ空間に暮らすことは変わりないって事だよね。
寛人の最初の提案で良くない?
「悩むよな? まだ少しなら考える余裕あるから、来週までには二人で答え出してよ」
テーブルの上を片付けながら、寛人は微笑んだ。
そっと隣にいる望くんを見ると、もうこちらを睨んだりはせずに、ぼうっと外を眺めている。
「とりあえず、実智、また夕方な。望も休みなのに呼び出してごめん。また来週よろしくな」
爽やかな笑顔であたしと望くんを残して、寛人は去っていってしまった。
「……あー、イラつく」
ボソリと望くんが呟くのを聞いて、あたしは横顔を見つめた。
「実智ちゃんも冴島さんも、俺のことなんか子供にしか見えてないんだな。こうやって色々面倒見てもらえて助かるし嬉しいよ? けどさ、俺のこと全然分かってない」
ため息を吐き出した望くんは、あたしの方へ視線を向ける。
「俺は実智ちゃんと一緒がいい。別に今のアパートだって十分だし。ただ、近過ぎると俺の我慢の限界が早まるから、もう少し離れてもいいんだけど……今、離れたら実智ちゃんを失いそうで怖い。だから場所が変わっても同じ空間にいたい。ずっと、そばにいたいんだよ俺は」
歪んだ表情は苦しそうに辛そうで。
あたしまで胸が締め付けられた。
「これ、スペアキー。どうするか、あたしも考えるから、望くんももう一度考えてみて」
そっとテーブルの上に鍵を乗せて、あたしはビルを後にした。
なんだか、夕飯どうする? という流れには持っていけなくて、あたしはとりあえず昨日のカレーがあることを思い出して、それを食べてねと望くんにメッセージを送った。
約束の時間通りに寛人のマンションまでたどり着いた。入って来ていいよと言われて玄関のドアを開けるが、なぜか部屋の中は暗い。
わー、これ。絶対に驚かせるつもりだよね? あたしが暗闇嫌いなの分かってるはずなのになぁ。
恐る恐る靴を脱いで、玄関脇にある明かりをつけるスイッチを探してみる。空振りばかりで何も手に引っかからずに諦めた。
「……暗くて見えない」
ゆっくりゆっくり前へと向かって、リビングのドアノブに手をかけた瞬間、目が眩むくらいに部屋の中がパッと明るくなった。
「「ハッピーバースデー!! 実智ーっ」」
パンパンパパンッと、クラッカーの音と火薬の香りを浴びせられて、あたしは心臓が飛び出たかと思うくらいに驚いて座り込んだ。
「あはは! 遅くなっちゃったけど、実智誕生日おめでとうーっ。やっぱり三十はこれくらい派手にしないとねー」
はしゃぐ友香は、とんがり帽子にバースデーメガネをかけて登場した。
へたり込んでしまったあたしにも、友香のよりも大きめなとんがり帽子をかぶせてくる。
部屋の中は風船がいくつも飛んでいて、ハッピーバースデーの文字を彩る。いつにも増して豪勢な部屋のディスプレイに、あたしは思わず涙が込み上げて来た。
「あ、実智泣いてる。歳取ると涙腺緩むよね。あたしも最近すぐ泣いちゃう」
「うぅ、ありがとう……」
悩んだり過去のことに未練がましかったり、未来に不安を抱いたり、毎日毎日、あたしの心は不安定で、だけど、やっぱり持つべきものは友達だ。一気にそんなの吹っ飛ばしてくれる。
テーブルの上には豪華なお重が並んでいて、お宝のように煌めいて見えた。
「とりあえず乾杯しようぜ」
シャンパングラスに三人分、寛人が注いでいるのは、スパークリングした日本酒。
淡いピンク色が綺麗だ。
「わ! なにこれ、可愛い」
「でしょ? 今日の帰りに酒屋さんで見つけたんだよね」
「ではではー、実智の三十歳と明るい未来に向けて! 乾杯っ」
友香が掲げたグラスへと、あたしと寛人のグラスが重なる。
弾ける気泡を眺めて、香りを確かめてから口にした。甘酸っぱい爽やかな酸味と甘味が広がってとても飲みやすい。
「美味しいっ!」
「うん、これガブガブ飲んじゃうやつだ」
「最初っからペース早めるなよ、友香。帰りの清春さんにいつも申し訳ないんだから」
「大丈夫! 彼はあたしの全てを受け入れてるから。あ! 実智、あたし特製のミネストローネもあるよー」
「わ! やった! あたしの大好物」
「ふふ、待っててね」
友香は一旦グラスを置いてキッチンへと入っていった。
「さっきさ、望にも実智の誕生日会来ないかって誘ったんだけど、あっさり断られたよ」
「え、そうなの?」
「うん。やっぱり遠慮してるよな、望」
苦笑いをして、寛人はグラスの中の日本酒を口にする。
「この前は、凌のことまだ忘れられていない感じだったけど、実智は凌に気持ちは残ってるの?」
一人分空けたソファーの隣に座って、寛人が聞いてくる。
たまに思い出してしまうのは本当だ。忘れようと思っているし、愛していた過去の時間は本物だけど、壊れてしまった凌への想いは、もうすでになくなっている気がする。今のあたしの中には、好きとか愛しているとか、そういう感情はないんだと思う。
「凌のことは、たまにしか思い出さないよ」
望くんに愛される度に、凌を思い出していた。きっと、比べる対象があたしには凌しかいなくて、自分の気持ちを抑えるためにも、過去のしがらみに縋り付いていたのかもしれない。
あたしの中でだって、きっと凌とはだいぶ前から恋愛は終わっていたんだ。
十年という長い間、彼氏としてのポジションにいた人と、当たり前に結婚を考えなければならないと、頭が勝手に働いたんだろう。
だから、あたしはマンションを探して、二人で生活するための準備をし始めた。
そのきっかけは、友香の結婚だった気がする。
「あたし、友香が清春さんと結婚して、次は自分もって、勝手にそう思ってしまっただけだったのかもしれない」
だって、凌は友香の結婚式には参加しなかった。その頃には、あたしと会うこともほとんどなくなっていたし、連絡も取れていなかった。別に喧嘩をしたわけではなかったけど、あたしは凌が側にいなくても寂しいなんて思ったりしていなかった。
「実智にはずっと言わなかったんだけどさ」
寛人が静かにグラスをテーブルへ置いて、手を組んだ。
「凌、実智が仕事してるとこがカッコいいって。自分よりも仕事優先で、でも、好きなことして笑っている実智が好きだって。ずっと言ってたんだよ」
穏やかに笑う寛人に、あたしはその言葉の意味が分からなすぎて、呆然と聞いていた。
「凌はずっと実智のこと想ってた。うちに居座ってよく愚痴こぼしてたし、実智への愛は深かったと思うよ。でもさ、実智との未来が見えないって、だいぶ悩んでたよ。もう、実智には自分への想いは空っぽだって。凌は気が付いたんだよ。だから、実智のこと、自分のせいにして解放してあげたんだと思う」
「……え」
なに、それ。
「今の奥さんさ、付き合って結婚まではあっという間だったけど、出逢いは六年前くらいでさ。たぶん、実智が仕事絶頂期の時なんだよね」
え……
あれは、突発的な凌の浮気だったんじゃないの?
可愛い後輩に言い寄られて、あたしと上手く行ってなかったからその子を抱いて、子供が出来ちゃったから、結婚したんだと思っていた。
あの後輩の子と、六年も前から知り合いだったの?
あの頃、凌からも結婚の話は出ていた。それに加えてお母さんからも。
あたしはと言うと、仕事が一番楽しくて、やりがいがあって、結婚なんて考える暇もなく自分の楽しさを優先していた。
凌と距離が空くようになったのは、結婚という言葉を否定してしまったあの日からかもしれない。
毎日仕事は多忙で、だけどやりがいを感じていたあたしは、凌と会う時間を削ってでも仕事優先に動いていた。
あの日だって、後輩の失敗を手伝うために残業して、凌との約束の時間にだいぶ遅れてしまった。予約してくれていたレストランがあったって言っていたな。
いつもは居酒屋なのに、レストランだなんて急にどうしたんだろうと、首を捻った。
結局いつもの居酒屋でいつものように過ごした。そして、帰りの車の中で会話は仕事の話。だけど、凌が遠慮がちに切り出してきたんだ。
『実智、最近忙しいよね。あんまり会えないし。だからさ、俺さ、そろそろ本気で実智とのこと考えてるんだけど、その……結婚、とか、どう思う?』
『ごめん、凌。あたしは、結婚したくない』
今はまだいいって言ったつもりだった。凌とは今まで通りに付き合っていられれば良い。結婚はいつでも出来るから、だけど、それは今じゃない。
そんなことを思って、簡単に凌からの言葉を否定してしまったんだ。
思えば、あの時、凌はあたしにプロポーズしようとしてくれていたのかもしれない。彼にとっての一世一代のプロポーズを、あたしは簡単に振り払ったんだ。
ーーーー
「もう、実智とは付き合っていけないかもって、凌はずっと悩んでたよ」
「なにそれ、聞いてないよ? あたしの中の凌は実智のことほっといて、若い子と浮気してはらませちゃうような最低最悪男だった。なのに……寛人にだけは本当の悩みを打ち明けていたってこと?」
湯気の立ち上るスープ皿をあたしと寛人の前へとゆっくり置きながら、友香が眉を顰める。
「実智と結婚するって思っていたのに断られて、幸せそうな友香と清春さんのことを見て、吹っ切れたんだよ、きっと。ずっと想ってくれていた今の奥さんと徐々に親密になった過程を俺は知ってるから、今は心からおめでとうと、思ってる」
さっきまで弾けたように楽しかった雰囲気が、まるで帷が降りたように暗くなった。
「ごめん、せっかくのめでたい席なのに。でもさ、わかってやってほしいなって思ったんだよ。ただの最低な浮気男で終わらせたら、なんか凌が可哀想でさ。結局、親友なんだよ、色々あったって。見離せない。凌も実智も。だからさ、実智も前に進んで良いんだよ」
いつもの柔らかい顔で、あたしの頭をとんがり帽子ごと撫でてくる寛人に、苦しかった胸の堰き止めていた思いが溢れ出てくる。
あたしだけが苦しかったんじゃない。
凌にも苦しい思いをさせていた。
寛人にも悩ませてしまっていた。
あたしはどれだけわがままで自分勝手で、自己中心的に世の中を生きて来たんだろうって実感する。周りが優し過ぎるから、あたしの周りには優しい人しかいないから、甘え過ぎて生きて来たんだ。
あたしばかり辛いと、勝手に思って。
「寛人はマジで優しすぎる!!」
涙を拭っていたあたしの横で、友香が寛人に抱きついた。
「あーあ、もう、実智ったらまた自分が悪いって顔してるよ? そんなことないんだからね。実智も凌くんも、なるようになったってことだよ。最後にみんなが幸せになれば、あたしはそれでオッケー! そしてさ、こんないい男他にいないのになんでまだ一人なの? 寛人ー!」
潤んだ瞳の友香に苦笑いを浮かべて、寛人は冷静に首に巻きついた友香の腕を解くと、立ち上がった。
「いい男いるだろ、清春さんが。まぁ、でも、ありがと友香。俺だって実智も友香もいい女だと思ってるよ? スープのスプーン持ってくるな」
キッチンへと向かった寛人の後ろ姿を見て、あたしへと詰め寄る友香はため息をついた。
「寛人こそさ、幸せになってほしいよね。人の悩みや辛さを誰よりも分かってくれるのが寛人だけど、寛人の悩みや辛さってどこで吐き出してるんだろう。いつも優しいし頼りになるし、いつか爆発しなきゃいいなと思ってるんだけど」
キッチンでスプーンを探す寛人を目で追いながら、友香の言葉に耳を傾ける。
「実智はさ、前に進んでいいと思うよ。自分の気持ちに素直になっていいと思う」
はい、とハンカチを差し出されたあたしの頭の中に、満面の笑みで尻尾を振る望くんの姿が思い浮かんだ。思わず、口元が緩んでしまう。
「ほら、今考えた人のこと、ちゃんと向き合ってみたらいいんじゃない? 決断を急ぐことはないけど、思うままに動くことだって大事だよ? 楽なのは分かるけど、受け身ばかりじゃ向き合えないと思う。素直になりな、ね」
二人よりも早く三十歳になったあたしなのに、ずっとずっと大人な二人に励まされて、あたしは情けない。
だけど、歳なんて関係ない。
寛人や友香があたしのことを大切に思ってくれているから。その気持ちが、あたしにずっと寄り添ってくれているから。見放されないように、強く自分に正直にならなくちゃ。
「あたし、望くんとちゃんと話してみる」
決心を固めて、あたしはグラスの中のお酒をグイッと飲んだ。