だから、好きとは言わない
8 勘違い、すれ違い
いると思っていた望くんの姿が無いことに、あたしの気持ちはポッカリと穴が空いたように寂しくなった。
半日会えなかっただけなのに。
さっき聞いた声に、会いたいと思って急いで帰ってきたのにな。
望くんがいることがあんなに煩わしく思っていたはずなのに。なんだか、変だ。
望くんにここにいて欲しかった。
トートバッグを床へ下ろして、ベッドに倒れ込んだ。
そう言えば、今日は、同期の子と会うって言ってたな。今更だけど、どんな子なんだろう。
職場が違うから、想像もできなくてため息が出てしまう。
よし、昨日は残り物のカレーで済ませちゃったし、今夜は何か作って待っててあげよう。
まだ、望くんに気持ちを打ち明けることを、年甲斐もなく恥ずかしいと思ってしまっている。だから、あたしが出来ることをとりあえずしてあげたい。
あ、寛人のとこで飲んだスパークリングの日本酒、どこで買ったのか教えてもらって買ってこようかな。
起き上がって、さっそく冷蔵庫の中身を確認してから外へと出た。
寛人にメッセージを送ると、すぐに返信が返ってくる。
お酒は寛人の職場のすぐ近くの酒屋さんにあるらしい。とりあえずそっちから回って、いつものスーパーに寄って帰ってくれば良いかな。
休日の電車はいつもより空いていて、気持ちもゆったりと揺れに合わせて外を眺めた。
寛人から送られて来ていた酒屋さんのマップを頼りに真っ直ぐに向かう。
目的のスパークリング日本酒を手にしたあたしは酒屋さんを出ようとして、その足を止めた。
ガラス扉の向こう側、道路を挟んで反対側で信号待ちをしている望くんの姿が目に入った。
隣には、長身で手足の長い華奢な黒髪ロングの女の子。
こちらに向かってくることはなく、人混みに紛れていった二人を見送ると、あたしはようやく店の外に出た。
あー、あの子かぁ。
記憶の隅に居るのは、友香とランチをした日。望くんと会った時にいた美人な女の子。睨まれたような気がしたのは、やっぱり本当だったのかもしれない。
あー、どうしよう。
あの子めちゃめちゃ美人だし、スタイル良いし、何よりあたしよりも断然若い。望くんにとって彼女にしない理由が見当たらないんだけど。
なんなら、あたしは同期の子と仲良くなって若い彼女を作れば良いって思っていたはずなのに。
だけど、自分の気持ちに気がついた今、どうしたらいいんだろうと悩む。
もし、デートが楽しくて、望くんがあの子と付き合うことにしたってなったら。それは、あたしが一番最初に望んでいた結果だ。あたしにとっても、望くんにとっても、それはベストな選択。
そうなれば、やっぱりもう一緒には住めない。望くんが帰って来てからの反応次第かもしれないな。
小さなため息をついて、スーパーへと向かった。
今日の特売品はなんだろう。店内を見渡していると、鮮魚コーナーでいつものおばさんが張り切って呼びかけている。
「今日はホッケが安いよー! 油ノリノリ! お酒が進む! 今晩のお供にぜひーー!」
その声に釣られるように主婦たちが集ってくる。
あたしも負けじと流れに乗って、まんまとおばさんの戦略に落ちてホッケをゲットした。
大根となめこ、煮物に足りない根菜を買い足して、レジへと向かった。
予定よりも買い物が多くなった両手のエコバッグに瓶のスパークリング日本酒。
ヤバい。
あたしこれ帰るまで何度か休憩しないと無理そうかも。
思わずため息をついて最初の休憩。スマホが鳴り出して、あたしは近くのベンチへと荷物を置いてポケットからスマホを取り出した。
「はいはい?」
ーーあ、実智? さっき慌てて帰ってったから忘れ物あったんだけど。
「え! なんだろ? 今度会う時でも大丈夫だよ」
ーー……いや、
楽観的なあたしとは違って、スマホ越しの寛人の声は相変わらず良い声してるけど明らかに困っている。
あたし、何忘れたんだろう?
思い当たるものがない。
ーー出来ればすぐ持ってって欲しいんだけど、実智のパンツ
「パ!!」
ンツと、続ける前に周りをキョロキョロと見ながら焦って口を継ぐんだ。
「ま、マジで? あたしそんなの忘れて来たの? 信じらんない」
何やってんの、あたし。
しかも新しい方はしっかり履いて来てるはずだから、使用済み……。無理。いくら友達でも恥ずかしすぎる。今までそんなことしたことなかったのに。
「ごめん、寛人。最悪だね、あたし、今すぐ取りに行かせていただきます」
ーーさすがに俺、これ持って出歩く自信ないから頼むわ。
苦笑いの寛人の反応に、一気に顔から火が噴き出てるように熱くなる。休憩を挟んでなんて考えずに、あたしは荷物を抱えて真っ直ぐにアパートへと帰った。
相変わらずそこに望くんの姿はなくて、落胆する気持ちのまま冷蔵庫へと食材を詰めていく。
お詫びだ。寛人にも煮物を作って持っていこう。
コトコトと買って来た根菜と鶏肉を煮る。
その間に、寛人へとメッセージを送った。
》今日は出掛けたりする? もう少ししたら行くけど、予定大丈夫?
》お詫びとか考えなくて大丈夫だよ? なんなら今日も実智と飲めたら嬉しいけど
》とりあえず、行く時また連絡します。
お詫びしようとしているのがバレている。ほんと、友香にも寛人にもあたしの行動はみんなバレバレだ。よく見てるよ、寛人も。
だからこそ、凌の時もあたしのことを支えてくれたんだ。
凌の気持ちも知っていたはずなのに。
そんなこと知らないでキツく当たったりしたのに、全部受け止めてくれたし、ほんと、寛人は私にとっていなくてはならない大事な存在だ。
もうぜんぶ曝け出しちゃってるからな。今更なにも隠すことなんてないし。洗いざらい話し聞いてもらってこようかな。
いや、あたしのことより、寛人の話も聞いてあげないと。あたしは十分すぎるくらいに甘え過ぎ!
煮物を完成させると、半分タッパーに入れて蓋をしっかり閉めた。
ガチャっと、玄関の鍵が開く音が聞こえて、振り返ると、望くんが入って来る。
その姿に、思わず嬉しさが込み上げて来てしまう。
「望くん、おかえりっ」
駆け寄っていくけど、望くんはニコリともしないで頷いただけ。
「えっと……」
あたしが困ってしまっていると、望くんの視線があたしの後ろへと流れる様に向いて止まった。
「……夕飯……?」
ポツリと呟く。
「あ、うん。今日はね、ホッケが安かったから後で焼くね、美味しいお酒も買って来たから一緒に飲みながら食べよう」
「……それは?」
あたしが持っていたタッパーに入った煮物。
「あ、これは寛人のとこにちょっと今から持っていく用で、これ置いて来たらすぐ帰ってくるから、ちょっと待ってて……」
慌てて紙袋に入れてパーカーを手に取ると、望くんがあたしの手を掴んだ。
「……望くん?」
俯く望くんの表情がよく見えない。
一瞬だけ強く掴まれた腕から、すぐに望くんは手を離した。
何も言わずに冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す望くんに「いってきます」と言ってアパートを出た。
望くん、どうしたんだろう。同期の子となにかあったのかな。帰って来たらちゃんと聞いてあげよう。とりあえず、あたしはパンツを取りに行かなければ。意気込んで歩き始めたあたしに、声がかかった。
「実智!」
「……え、寛人?」
振り返ると、車を横付けして手を振る寛人の姿。
「まさか、持って来てくれて……」
「ない!」
「……よね。あたし取りに行くって言ったし」
寛人に自分のパンツを持ち歩かせるのもなんだか嫌だ。
「乗って」
「あ、うん。でも……」
チラリとアパートを見上げる。
望くんの所へ早く帰って、話を聞いてあげたい。
「望、さっき帰って来たよな。大丈夫、飲みはまた別な日にしよう。シャーベットも持たせたいし、用が済んだらすぐにまた送るよ」
「あ、うん。ありがとう」
助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
寛人のマンションまで付くと、丁寧に袋に入れられたパンツと保冷剤の入った苺のシャーベットの袋を渡された。
「洗濯機の中入ってたから、洗ってある。紛れ込んでて笑っちゃった」
「あー、ははは。笑ってくれたならまだ救われるわ、あたしも」
申し訳なさでいっぱいだったけど、寛人の言葉になんだか安心した。
「……あれ? でも、シャーベットまだこんなにあったの?」
「ううん、これ、望にも食べさせてやって。昨日実智のこと借りたお詫び」
「お詫びなんてしなくていいって言って、寛人こそしてるじゃん」
「これは望へのお詫びだよ。実智にお詫びはしてないよ」
「まぁ、そうだね。あ、これは、あたしからのお詫びです」
「やっぱりお詫びきた」
良いのに、と言いながらも手を出す寛人の笑顔が、なんだか可愛く見えた。
「お、嬉しい。実智の味付け好きだよ、俺。今朝のスープも美味しかったし。絶対良い奥さんなれるよね」
「ほんと? えー、そう言ってもらえるとなんか嬉しいな」
「じゃあ、送るよ」
「うん、お願いします」
寛人はいつも嬉しいことを言ってくれる。
こんなんじゃ、やっぱり周りにいる女達が放っておくわけがない。
それでも、彼女を作らずにいるのは、やっぱりあの事がまだ忘れられないからなのかな。
アパートに着くまでは他愛無い話をして、でも、あたしは寛人の心のうちが知りたい気がして、聞いてみた。
「寛人、寛人が彼女を作らないのってさ、もしかして、まだあの時のこと……」
静かに車が停車して、言いかけたあたしを見る寛人の目が優しげで、切なくなった。
ハザードを付けた寛人は軽く口角を上げて笑うと、首を振った。
「そんな昔のこと、もうとっくに吹っ切れてるよ。俺がいつまで経っても前に進めないのは……実智には言えない、かな」
「……え、」
困った様に笑う寛人の表情に、あたしはそれ以上聞いてはいけない気がして、言葉に詰まる。
「大丈夫だよ。俺の吐き口は凌だから。実智が凌と会わなくなってから、あいつ俺の家に居座ってさ、ずっと仲良くやって来てたから。全部あいつに話聞いてもらってる。だから、俺のことよりも自分の心配だけしとけ」
無理に笑っている様で、寛人の寂しげな笑顔があたしの胸に痛む。
だけど、凌に聞いてもらえているなら、大丈夫なのかな。二人はずっと仲が良かったから、あたしと凌の恋愛は終わりを迎えてしまっても、あたしの知らないところで友情はつづいていたんだろう。
でも、あたしに言えないって、なんか、寂しいかも。
「……実智?」
「あ、うん。分かった……うん」
「また飲みに行こう。誘っても良い?」
遠慮がちに言う寛人の言葉に、あたしは「もちろん」と頷く。
「よかった。じゃあ、またな」
「うん、ありがとう。また」
車を降りてあたしは手を振って寛人を見送った。
なんだか、いつもの寛人と違う気がした。
ため息が湧き上がってくる。
「ただいま」とアパートに戻ると、魚の焼ける良い香りが部屋の中を漂う。
「あ、おかえり。勝手に魚焼いちゃってた」
キッチンのグリルの前で笑う望くんがいて、あたしは安心した。さっきみたいな暗い雰囲気は無くなった様に感じる。
「ありがとう、助かるよ」
あたしは手にしていたシャーベットを冷凍庫へと入れようとして袋から取り出すと、同時にパサっと何かが落ちた。
「実智ちゃん、なんか落とした……」
振り返って望くんが手にしているものを見て、あたしは慌ててすぐに取り返す。
「ごめん、ありがとう!」
手の中でなるべく見えない様に握りしめる。
勝手にドクドクと上昇する体温を冷ます様に、あたしは冷凍庫の冷気を浴びつつシャーベットを閉まった。
バスルームに駆け込んで、あたしはビニール袋に入っていたパンツを下着を入れている引き出しにしまう。
もうため息しか出ない。
部屋に戻ると、ホッケがお揃いの皿の上に乗せられていた。
「……あれ?」
こんなお皿うちにあったかな。
「今日買って来た。本当は実智ちゃんと一緒に選びたかったんだけど……勝手にごめん」
シュンと首を垂れる望くんが可愛くて、あたしは思わずその頭を撫でてあげた。
「ありがとう。今、大根おろすね」
すぐに冷蔵庫から大根を取り出して擦り始めたあたしの後ろから、望くんが抱きしめてくる。
「頭なでなでとか、ずるいよ……」
消えそうなくらいに切ない声で、望くんが言うから、あたしの手が止まって動けなくなる。
「実智ちゃんに会いたくて、声が聞きたくて、触れたくて、昨日の夜は寂しさで押しつぶされそうだった」
ますます望くんはあたしを強く抱きしめる。
肩に乗った頭。ふわふわの髪の毛があたしの頬をくすぐる。
「実智ちゃんがいない夜が寂しくて、不安で、もう帰ってこなかったらどうしようって悲しくなって……実智ちゃん、俺、実智ちゃんのそばにいたい。離れていってほしく無い。これからもずっと一緒にいたい……でも……それは無理だから」
「……え」
「無理なのは分かってた。冴島さんじゃ俺に勝ち目がないことも。でも、それでも俺は実智ちゃんのこと……」
手にしていた大根とおろし金を置いて、あたしは望くんの方を向いた。
すぐ目の前に望くんの切なくて泣きそうな程に下がった眉と瞳。やっぱり、望くんは寛人とあたしが友達以上の関係だと勘違いしてる。
「実智ちゃんに俺への気持ちがないのは分かってる……分かってるけど……」
見上げた望くんの潤んだ瞳。胸がギュッと締め付けられる。あたしのこの気持ち、素直になっても大丈夫かなと、不安でしかないこの想いを伝えたくなる。
「あたし……」
「一週間置いてくれてありがとう」
「……え」
「明日には出て行くから。だから今日の夕飯はやけ食いしようと思って!」
泣いていると思っていた望くんの表情が一気に明るくなって、下がる目尻と大きく上がる口角に、あたしは何も言えなくなった。
小さなテーブルの上に所狭しと置かれたのは、あたしの煮物とホッケの塩焼き以外に、刺身やサラダ、唐揚げなど、望くんが買って来てくれた美味しそうなお惣菜が綺麗に並んでいる。
「はい!」
「あ、ありがとう……」
笑顔で渡されたのは、お決まりのあたしの好きな銘柄のビール。
「いただきます!」
無駄に明るい様な気がする望くんに、あたしは圧倒されながらビールを飲む。
こんなに並べられても、なんだか今日は胸がギュッとなっていて、ビールだけしか喉を通らなそうだ。
望くん、明日には出ていっちゃうんだ。
そっか。
急に、あたしの胸の中はぽっかりと穴が空いた様に寂しさを感じ始める。
望くんに、ちゃんとこの気持ちを伝えないといけない。このまま明日さようならだと、あたしは後悔するのかもしれない。
だけど、望くんはまだまだ若いし、今日会ってた同期の子と、この先うまくいくかもしれない。
あたしがもし望くんに想いを伝えたとしても、憧れが実ったことに満足して終わりになる未来もあるかもしれない。
やっぱり、世代の同じ話の通じる同期の方にしますとか、簡単に乗り換えられたら、それこそ立ち直れなくなりそうだ。二度と恋愛なんてしたくなくなると思う。
どうしよう。やっぱり望くんとの恋愛はハードルが高い気がして来た。とりあえず、同期の子と今日はどうだったのか、聞いてみても良いかな。
「……あ、ほら、今日はどうだったの?」
「え? なにが?」
「同期の子と、デートだったんでしょ」
「え……、デートとか、そんなんじゃない」
あ、やってしまった。
せっかくにこやかだった望くんの顔から一気に笑顔が消えてしまった。眉間による皺がそれ以上に不快にさせてしまったことを感じる。
「でも、普通に楽しかったよ」
なんでもない様に煮物の蓮根を口にした望くんは、チラリとあたしを見た。
「実智ちゃんさ、冴島さんと別れる気は全然ないよね?」
真っ直ぐに、真剣な眼差しを向けられて、あたしはマグロのお刺身へと伸ばした箸をピタリと止めた。
あれ? なんかやっぱり、望くん勘違いしてる。
「望くん、あたし寛人とは付き合ってないよ?」
「だって……じゃあ、あれはなんだったんだよ」
悔しそうに顰めた顔をする望くんを、あたしはただ見つめるしかできない。
なにか、勘違いする様なことあったかな? いや、泊まって来ている時点で疑われる要素はあったのかもしれないけれど。そんなことは全然ない。
望くんの言っているあれとは、一体?
とにかく、寛人と付き合っているっていう誤解だけは解いておかないといけない気がする。
「あ、あのね、望くん、話すと長くなるんだけど、あたしと寛人の関係、聞いてくれる?」
あたしも真剣に、真っ直ぐに望くんの瞳を捉えて聞いた。
一瞬、ゆらりと望くんの瞳が戸惑う様に揺れたのを感じた。
だけど、一度伏せた瞳は、今度は揺らぐことなく真っ直ぐにあたしを捉え直して頷く。
正直に寛人のことも、凌のことも話そうって、心に決めて話すことにした。
途中、お酒の力も借りようと新たにビールを開ける。
スパークリング日本酒もあるよと、望くん以上に飲みながら、あたしは寛人と友達になった経緯から凌との別れまでを話し終えた。
「……十年、そんなに長く付き合っていたんだ、その、凌って人と」
「うん。あたしの中ではやっぱり思い返しても凌が一番だったな……」
最後は最悪な別れだったとしても、それまでが最高過ぎた。
優しいし、決してあたしに無理強いさせない、待ってと言えば待ってくれたし、あたしがこうだと言えば、そうだねと話を聞いてくれた。
本当に、最高過ぎる。と、言うか、あたしがわがまま過ぎたんだ。やりたい放題。自分のなる様にやってきて。
だから、凌は疲れちゃったんだな、きっと。
あたしに十年振り回されて。そりゃ、嫌になるよね。
あたし、凌に最後に言った言葉、今更思い出した。
『友香も結婚したし、あたし達も結婚しとく?』
いつもの居酒屋。なんでもない日。
お酒も入って、友香の結婚報告を聞いたあたしは気持ちも華やいでいて、ただなんとなくだった。
あたし達もそうなるのが当たり前でしょって。
「……今考えると、あたしって、最低だ……」
ずっと、凌のことを最低最悪な男だとこの一年間忘れようとしていた。
だけど、元を辿れば、最低なのはあたしの方だった。
それなのに、あたしを悪者にしない様にって、凌は最後まで優しかった。あたしのことを考えてくれていた。
あたしは、凌のなにも考えてこなかった。
ただ隣にいて、話を聞いてくれて。そんなの、凌じゃなくても良かったじゃないかって言われたら、それまでだ。いなくなっても、寂しいなんて思わなかった。
あたしの方こそ、凌のことを早く解放してあげなきゃいけなかったんだ。
飲み過ぎた。思考が怖いくらいに目まぐるしく回る。過去がどんどん蘇ってくる。忘れていた凌の優しさ、思いやり、あたしへの愛が、どんどん溢れ出てくる。
止められない。
あんなに愛してくれた凌のことを、あたしはなんとも思っていなかったなんて、信じられない。自分が怖くなる。
いや、なんとも思ってないわけない。
あたしは、凌のことが大好きだったじゃん。本当に、大好きだったんだよ。いつからか、その気持ちが当たり前のただの日常になってしまっていた。
一気に崩壊した涙腺は、大粒の涙を放出する。堰き止めていたわけじゃなかった。それなのに、いつからか溜まっていた悲しみも辛さも、喜びすらも、涙となって溢れ出てくる。
どうしようもない。
だけど、止められない。
拭っても拭っても拭いきれない涙に、嗚咽が混じり始めた頃、望くんの腕が伸びて来て、あたしを包み込んだ。
「……実智ちゃんって、なんでそんなにかっこいい男ばっかそばにいたんだよ」
あっという間に望くんの胸の中に抱きしめられて、止まることのない涙を望くんの肩で受け止めてもらう。
「その人はさ、実智ちゃんにこうやって想ってもらえて、泣いてもらえて、たぶん満足じゃないのかな? 何も知らないまま、恨まれたままでいるよりも、泣いてもらえたなんて知ったら、喜ぶんじゃないかな。冴島さんはそう思って、今更だけど、実智ちゃんに凌さんの本当の想いを伝えたんじゃないのかな」
最後は消えそうに呟く。
凌の本当の気持ちを寛人から聞いた後は、こんなには泣けなかった。あの時は驚きの方が上回ってしまって、友香や寛人の前では悲しみよりも、寛人の優しさに泣けた。
二人とは友達だから、凌とも繋がっていたから、どうしても、心からは泣けなかった気がする。
だから、自分の気持ちに対してこんなに素直に吐き出せたのは、これが初めてかもしれない。
「きっと、望くんが凌のことを何も知らないから、素直になれたのかもしれない。聞いてくれて、ありがとう」
「……で、実智ちゃんの彼氏はその凌って人だったってのはわかったけど」
望くんはため息をついて、ゆっくりあたしから離れる。
「そんな実智ちゃんのことをずっとそばで支え続けてくれていた人が、冴島さんだってことでしょ? 今の話聞いて、納得した」
眉を顰めて、不機嫌な顔をする望くん。あたしはボヤける視界にそばにあったティッシュボックスを抱えこんで鼻をかむ。
「敵わないじゃん、全然。俺の完敗かも」
「……え?」
望くんは元の位置に戻ってお酒を口にした。
「あー、美味い。冴島さんってかっこいいよね。仕事出来るし、上からの信頼超厚いし、後輩の面倒見いいし、めっちゃ筋トレしてるし」
「え!?」
「ん?」
「い、いや、なんでも」
望くんの最後の発言に一瞬寛人の肉体美を想像してしまった。なんてことだ、あたし。今それを考えるのは違うでしょ。
「俺、実智ちゃんの気持ち全然考えないで自分の気持ちばっか優先させてきたから、最低だなって。なんか、よく考えてみたら、俺の行動っていきなり家に上がり込むし、気持ち押し付けすぎだし、ただヤりたいだけのバカな男って思われても仕方ないって気が付いた」
ためいきをつきながら、望くんは箸を置いた。
「実智ちゃんの事好きなら、ちゃんと実智ちゃんの幸せを考えてあげるべきなのに。そんな余裕なかった。今まで、ごめん……」
テーブルの上で握られた望くんの拳が震えている。
「冴島さんに言われて気がついたよ。だから、もう好きとは言わない、ごめん……本当に」
無理やり笑う望くんの顔があまりにも苦しそうで、切なくて、あたしは何も言葉が出てこなかった。ただ、頷くことしかできなくて。
ーー好きとは言わないーー
散々あたしが望くんに言って来た言葉だ。
こんな風に返ってくるなんて、思ってなかった。
やっぱり、望くんと恋愛なんて無理だった。
自分の気持ちに気が付けたけど、この思いは伝えずにいた方が良いのかもしれない。
このまま、望くんと明日さよならしよう。
今ならまだ、間に合う。
たかが一週間だ。
望くんが来て、愛されて、好きと言われて。
こんな短い時間で気が付いた気持ちなんて、きっとまた一週間後には綺麗さっぱりなくなっているはず。
だから、あたしも好きとは言わない。
これで良かった。
楽しかったから。望くんが来てくれたこの一週間。
「あ、デザートに苺シャーベットあるから食べようか」
ご飯を食べ終えて立ちあがろうとするけど、くらりと回る頭に上手く立ち上がれずに床に両手を付いた。
思い返せば、あたし相当飲んだ気がする。
目の前がクラクラして、気持ちが悪くなってくる。お酒に頼りすぎたんだ。酒に飲まれたことないとか言っておいて、格好悪い。
「……ごめん、飲み過ぎたのかも。ちょっと、横になる」
そのまま、床に丸くなったあたしは、ため息を吐き出した後から、記憶がない。
半日会えなかっただけなのに。
さっき聞いた声に、会いたいと思って急いで帰ってきたのにな。
望くんがいることがあんなに煩わしく思っていたはずなのに。なんだか、変だ。
望くんにここにいて欲しかった。
トートバッグを床へ下ろして、ベッドに倒れ込んだ。
そう言えば、今日は、同期の子と会うって言ってたな。今更だけど、どんな子なんだろう。
職場が違うから、想像もできなくてため息が出てしまう。
よし、昨日は残り物のカレーで済ませちゃったし、今夜は何か作って待っててあげよう。
まだ、望くんに気持ちを打ち明けることを、年甲斐もなく恥ずかしいと思ってしまっている。だから、あたしが出来ることをとりあえずしてあげたい。
あ、寛人のとこで飲んだスパークリングの日本酒、どこで買ったのか教えてもらって買ってこようかな。
起き上がって、さっそく冷蔵庫の中身を確認してから外へと出た。
寛人にメッセージを送ると、すぐに返信が返ってくる。
お酒は寛人の職場のすぐ近くの酒屋さんにあるらしい。とりあえずそっちから回って、いつものスーパーに寄って帰ってくれば良いかな。
休日の電車はいつもより空いていて、気持ちもゆったりと揺れに合わせて外を眺めた。
寛人から送られて来ていた酒屋さんのマップを頼りに真っ直ぐに向かう。
目的のスパークリング日本酒を手にしたあたしは酒屋さんを出ようとして、その足を止めた。
ガラス扉の向こう側、道路を挟んで反対側で信号待ちをしている望くんの姿が目に入った。
隣には、長身で手足の長い華奢な黒髪ロングの女の子。
こちらに向かってくることはなく、人混みに紛れていった二人を見送ると、あたしはようやく店の外に出た。
あー、あの子かぁ。
記憶の隅に居るのは、友香とランチをした日。望くんと会った時にいた美人な女の子。睨まれたような気がしたのは、やっぱり本当だったのかもしれない。
あー、どうしよう。
あの子めちゃめちゃ美人だし、スタイル良いし、何よりあたしよりも断然若い。望くんにとって彼女にしない理由が見当たらないんだけど。
なんなら、あたしは同期の子と仲良くなって若い彼女を作れば良いって思っていたはずなのに。
だけど、自分の気持ちに気がついた今、どうしたらいいんだろうと悩む。
もし、デートが楽しくて、望くんがあの子と付き合うことにしたってなったら。それは、あたしが一番最初に望んでいた結果だ。あたしにとっても、望くんにとっても、それはベストな選択。
そうなれば、やっぱりもう一緒には住めない。望くんが帰って来てからの反応次第かもしれないな。
小さなため息をついて、スーパーへと向かった。
今日の特売品はなんだろう。店内を見渡していると、鮮魚コーナーでいつものおばさんが張り切って呼びかけている。
「今日はホッケが安いよー! 油ノリノリ! お酒が進む! 今晩のお供にぜひーー!」
その声に釣られるように主婦たちが集ってくる。
あたしも負けじと流れに乗って、まんまとおばさんの戦略に落ちてホッケをゲットした。
大根となめこ、煮物に足りない根菜を買い足して、レジへと向かった。
予定よりも買い物が多くなった両手のエコバッグに瓶のスパークリング日本酒。
ヤバい。
あたしこれ帰るまで何度か休憩しないと無理そうかも。
思わずため息をついて最初の休憩。スマホが鳴り出して、あたしは近くのベンチへと荷物を置いてポケットからスマホを取り出した。
「はいはい?」
ーーあ、実智? さっき慌てて帰ってったから忘れ物あったんだけど。
「え! なんだろ? 今度会う時でも大丈夫だよ」
ーー……いや、
楽観的なあたしとは違って、スマホ越しの寛人の声は相変わらず良い声してるけど明らかに困っている。
あたし、何忘れたんだろう?
思い当たるものがない。
ーー出来ればすぐ持ってって欲しいんだけど、実智のパンツ
「パ!!」
ンツと、続ける前に周りをキョロキョロと見ながら焦って口を継ぐんだ。
「ま、マジで? あたしそんなの忘れて来たの? 信じらんない」
何やってんの、あたし。
しかも新しい方はしっかり履いて来てるはずだから、使用済み……。無理。いくら友達でも恥ずかしすぎる。今までそんなことしたことなかったのに。
「ごめん、寛人。最悪だね、あたし、今すぐ取りに行かせていただきます」
ーーさすがに俺、これ持って出歩く自信ないから頼むわ。
苦笑いの寛人の反応に、一気に顔から火が噴き出てるように熱くなる。休憩を挟んでなんて考えずに、あたしは荷物を抱えて真っ直ぐにアパートへと帰った。
相変わらずそこに望くんの姿はなくて、落胆する気持ちのまま冷蔵庫へと食材を詰めていく。
お詫びだ。寛人にも煮物を作って持っていこう。
コトコトと買って来た根菜と鶏肉を煮る。
その間に、寛人へとメッセージを送った。
》今日は出掛けたりする? もう少ししたら行くけど、予定大丈夫?
》お詫びとか考えなくて大丈夫だよ? なんなら今日も実智と飲めたら嬉しいけど
》とりあえず、行く時また連絡します。
お詫びしようとしているのがバレている。ほんと、友香にも寛人にもあたしの行動はみんなバレバレだ。よく見てるよ、寛人も。
だからこそ、凌の時もあたしのことを支えてくれたんだ。
凌の気持ちも知っていたはずなのに。
そんなこと知らないでキツく当たったりしたのに、全部受け止めてくれたし、ほんと、寛人は私にとっていなくてはならない大事な存在だ。
もうぜんぶ曝け出しちゃってるからな。今更なにも隠すことなんてないし。洗いざらい話し聞いてもらってこようかな。
いや、あたしのことより、寛人の話も聞いてあげないと。あたしは十分すぎるくらいに甘え過ぎ!
煮物を完成させると、半分タッパーに入れて蓋をしっかり閉めた。
ガチャっと、玄関の鍵が開く音が聞こえて、振り返ると、望くんが入って来る。
その姿に、思わず嬉しさが込み上げて来てしまう。
「望くん、おかえりっ」
駆け寄っていくけど、望くんはニコリともしないで頷いただけ。
「えっと……」
あたしが困ってしまっていると、望くんの視線があたしの後ろへと流れる様に向いて止まった。
「……夕飯……?」
ポツリと呟く。
「あ、うん。今日はね、ホッケが安かったから後で焼くね、美味しいお酒も買って来たから一緒に飲みながら食べよう」
「……それは?」
あたしが持っていたタッパーに入った煮物。
「あ、これは寛人のとこにちょっと今から持っていく用で、これ置いて来たらすぐ帰ってくるから、ちょっと待ってて……」
慌てて紙袋に入れてパーカーを手に取ると、望くんがあたしの手を掴んだ。
「……望くん?」
俯く望くんの表情がよく見えない。
一瞬だけ強く掴まれた腕から、すぐに望くんは手を離した。
何も言わずに冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す望くんに「いってきます」と言ってアパートを出た。
望くん、どうしたんだろう。同期の子となにかあったのかな。帰って来たらちゃんと聞いてあげよう。とりあえず、あたしはパンツを取りに行かなければ。意気込んで歩き始めたあたしに、声がかかった。
「実智!」
「……え、寛人?」
振り返ると、車を横付けして手を振る寛人の姿。
「まさか、持って来てくれて……」
「ない!」
「……よね。あたし取りに行くって言ったし」
寛人に自分のパンツを持ち歩かせるのもなんだか嫌だ。
「乗って」
「あ、うん。でも……」
チラリとアパートを見上げる。
望くんの所へ早く帰って、話を聞いてあげたい。
「望、さっき帰って来たよな。大丈夫、飲みはまた別な日にしよう。シャーベットも持たせたいし、用が済んだらすぐにまた送るよ」
「あ、うん。ありがとう」
助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
寛人のマンションまで付くと、丁寧に袋に入れられたパンツと保冷剤の入った苺のシャーベットの袋を渡された。
「洗濯機の中入ってたから、洗ってある。紛れ込んでて笑っちゃった」
「あー、ははは。笑ってくれたならまだ救われるわ、あたしも」
申し訳なさでいっぱいだったけど、寛人の言葉になんだか安心した。
「……あれ? でも、シャーベットまだこんなにあったの?」
「ううん、これ、望にも食べさせてやって。昨日実智のこと借りたお詫び」
「お詫びなんてしなくていいって言って、寛人こそしてるじゃん」
「これは望へのお詫びだよ。実智にお詫びはしてないよ」
「まぁ、そうだね。あ、これは、あたしからのお詫びです」
「やっぱりお詫びきた」
良いのに、と言いながらも手を出す寛人の笑顔が、なんだか可愛く見えた。
「お、嬉しい。実智の味付け好きだよ、俺。今朝のスープも美味しかったし。絶対良い奥さんなれるよね」
「ほんと? えー、そう言ってもらえるとなんか嬉しいな」
「じゃあ、送るよ」
「うん、お願いします」
寛人はいつも嬉しいことを言ってくれる。
こんなんじゃ、やっぱり周りにいる女達が放っておくわけがない。
それでも、彼女を作らずにいるのは、やっぱりあの事がまだ忘れられないからなのかな。
アパートに着くまでは他愛無い話をして、でも、あたしは寛人の心のうちが知りたい気がして、聞いてみた。
「寛人、寛人が彼女を作らないのってさ、もしかして、まだあの時のこと……」
静かに車が停車して、言いかけたあたしを見る寛人の目が優しげで、切なくなった。
ハザードを付けた寛人は軽く口角を上げて笑うと、首を振った。
「そんな昔のこと、もうとっくに吹っ切れてるよ。俺がいつまで経っても前に進めないのは……実智には言えない、かな」
「……え、」
困った様に笑う寛人の表情に、あたしはそれ以上聞いてはいけない気がして、言葉に詰まる。
「大丈夫だよ。俺の吐き口は凌だから。実智が凌と会わなくなってから、あいつ俺の家に居座ってさ、ずっと仲良くやって来てたから。全部あいつに話聞いてもらってる。だから、俺のことよりも自分の心配だけしとけ」
無理に笑っている様で、寛人の寂しげな笑顔があたしの胸に痛む。
だけど、凌に聞いてもらえているなら、大丈夫なのかな。二人はずっと仲が良かったから、あたしと凌の恋愛は終わりを迎えてしまっても、あたしの知らないところで友情はつづいていたんだろう。
でも、あたしに言えないって、なんか、寂しいかも。
「……実智?」
「あ、うん。分かった……うん」
「また飲みに行こう。誘っても良い?」
遠慮がちに言う寛人の言葉に、あたしは「もちろん」と頷く。
「よかった。じゃあ、またな」
「うん、ありがとう。また」
車を降りてあたしは手を振って寛人を見送った。
なんだか、いつもの寛人と違う気がした。
ため息が湧き上がってくる。
「ただいま」とアパートに戻ると、魚の焼ける良い香りが部屋の中を漂う。
「あ、おかえり。勝手に魚焼いちゃってた」
キッチンのグリルの前で笑う望くんがいて、あたしは安心した。さっきみたいな暗い雰囲気は無くなった様に感じる。
「ありがとう、助かるよ」
あたしは手にしていたシャーベットを冷凍庫へと入れようとして袋から取り出すと、同時にパサっと何かが落ちた。
「実智ちゃん、なんか落とした……」
振り返って望くんが手にしているものを見て、あたしは慌ててすぐに取り返す。
「ごめん、ありがとう!」
手の中でなるべく見えない様に握りしめる。
勝手にドクドクと上昇する体温を冷ます様に、あたしは冷凍庫の冷気を浴びつつシャーベットを閉まった。
バスルームに駆け込んで、あたしはビニール袋に入っていたパンツを下着を入れている引き出しにしまう。
もうため息しか出ない。
部屋に戻ると、ホッケがお揃いの皿の上に乗せられていた。
「……あれ?」
こんなお皿うちにあったかな。
「今日買って来た。本当は実智ちゃんと一緒に選びたかったんだけど……勝手にごめん」
シュンと首を垂れる望くんが可愛くて、あたしは思わずその頭を撫でてあげた。
「ありがとう。今、大根おろすね」
すぐに冷蔵庫から大根を取り出して擦り始めたあたしの後ろから、望くんが抱きしめてくる。
「頭なでなでとか、ずるいよ……」
消えそうなくらいに切ない声で、望くんが言うから、あたしの手が止まって動けなくなる。
「実智ちゃんに会いたくて、声が聞きたくて、触れたくて、昨日の夜は寂しさで押しつぶされそうだった」
ますます望くんはあたしを強く抱きしめる。
肩に乗った頭。ふわふわの髪の毛があたしの頬をくすぐる。
「実智ちゃんがいない夜が寂しくて、不安で、もう帰ってこなかったらどうしようって悲しくなって……実智ちゃん、俺、実智ちゃんのそばにいたい。離れていってほしく無い。これからもずっと一緒にいたい……でも……それは無理だから」
「……え」
「無理なのは分かってた。冴島さんじゃ俺に勝ち目がないことも。でも、それでも俺は実智ちゃんのこと……」
手にしていた大根とおろし金を置いて、あたしは望くんの方を向いた。
すぐ目の前に望くんの切なくて泣きそうな程に下がった眉と瞳。やっぱり、望くんは寛人とあたしが友達以上の関係だと勘違いしてる。
「実智ちゃんに俺への気持ちがないのは分かってる……分かってるけど……」
見上げた望くんの潤んだ瞳。胸がギュッと締め付けられる。あたしのこの気持ち、素直になっても大丈夫かなと、不安でしかないこの想いを伝えたくなる。
「あたし……」
「一週間置いてくれてありがとう」
「……え」
「明日には出て行くから。だから今日の夕飯はやけ食いしようと思って!」
泣いていると思っていた望くんの表情が一気に明るくなって、下がる目尻と大きく上がる口角に、あたしは何も言えなくなった。
小さなテーブルの上に所狭しと置かれたのは、あたしの煮物とホッケの塩焼き以外に、刺身やサラダ、唐揚げなど、望くんが買って来てくれた美味しそうなお惣菜が綺麗に並んでいる。
「はい!」
「あ、ありがとう……」
笑顔で渡されたのは、お決まりのあたしの好きな銘柄のビール。
「いただきます!」
無駄に明るい様な気がする望くんに、あたしは圧倒されながらビールを飲む。
こんなに並べられても、なんだか今日は胸がギュッとなっていて、ビールだけしか喉を通らなそうだ。
望くん、明日には出ていっちゃうんだ。
そっか。
急に、あたしの胸の中はぽっかりと穴が空いた様に寂しさを感じ始める。
望くんに、ちゃんとこの気持ちを伝えないといけない。このまま明日さようならだと、あたしは後悔するのかもしれない。
だけど、望くんはまだまだ若いし、今日会ってた同期の子と、この先うまくいくかもしれない。
あたしがもし望くんに想いを伝えたとしても、憧れが実ったことに満足して終わりになる未来もあるかもしれない。
やっぱり、世代の同じ話の通じる同期の方にしますとか、簡単に乗り換えられたら、それこそ立ち直れなくなりそうだ。二度と恋愛なんてしたくなくなると思う。
どうしよう。やっぱり望くんとの恋愛はハードルが高い気がして来た。とりあえず、同期の子と今日はどうだったのか、聞いてみても良いかな。
「……あ、ほら、今日はどうだったの?」
「え? なにが?」
「同期の子と、デートだったんでしょ」
「え……、デートとか、そんなんじゃない」
あ、やってしまった。
せっかくにこやかだった望くんの顔から一気に笑顔が消えてしまった。眉間による皺がそれ以上に不快にさせてしまったことを感じる。
「でも、普通に楽しかったよ」
なんでもない様に煮物の蓮根を口にした望くんは、チラリとあたしを見た。
「実智ちゃんさ、冴島さんと別れる気は全然ないよね?」
真っ直ぐに、真剣な眼差しを向けられて、あたしはマグロのお刺身へと伸ばした箸をピタリと止めた。
あれ? なんかやっぱり、望くん勘違いしてる。
「望くん、あたし寛人とは付き合ってないよ?」
「だって……じゃあ、あれはなんだったんだよ」
悔しそうに顰めた顔をする望くんを、あたしはただ見つめるしかできない。
なにか、勘違いする様なことあったかな? いや、泊まって来ている時点で疑われる要素はあったのかもしれないけれど。そんなことは全然ない。
望くんの言っているあれとは、一体?
とにかく、寛人と付き合っているっていう誤解だけは解いておかないといけない気がする。
「あ、あのね、望くん、話すと長くなるんだけど、あたしと寛人の関係、聞いてくれる?」
あたしも真剣に、真っ直ぐに望くんの瞳を捉えて聞いた。
一瞬、ゆらりと望くんの瞳が戸惑う様に揺れたのを感じた。
だけど、一度伏せた瞳は、今度は揺らぐことなく真っ直ぐにあたしを捉え直して頷く。
正直に寛人のことも、凌のことも話そうって、心に決めて話すことにした。
途中、お酒の力も借りようと新たにビールを開ける。
スパークリング日本酒もあるよと、望くん以上に飲みながら、あたしは寛人と友達になった経緯から凌との別れまでを話し終えた。
「……十年、そんなに長く付き合っていたんだ、その、凌って人と」
「うん。あたしの中ではやっぱり思い返しても凌が一番だったな……」
最後は最悪な別れだったとしても、それまでが最高過ぎた。
優しいし、決してあたしに無理強いさせない、待ってと言えば待ってくれたし、あたしがこうだと言えば、そうだねと話を聞いてくれた。
本当に、最高過ぎる。と、言うか、あたしがわがまま過ぎたんだ。やりたい放題。自分のなる様にやってきて。
だから、凌は疲れちゃったんだな、きっと。
あたしに十年振り回されて。そりゃ、嫌になるよね。
あたし、凌に最後に言った言葉、今更思い出した。
『友香も結婚したし、あたし達も結婚しとく?』
いつもの居酒屋。なんでもない日。
お酒も入って、友香の結婚報告を聞いたあたしは気持ちも華やいでいて、ただなんとなくだった。
あたし達もそうなるのが当たり前でしょって。
「……今考えると、あたしって、最低だ……」
ずっと、凌のことを最低最悪な男だとこの一年間忘れようとしていた。
だけど、元を辿れば、最低なのはあたしの方だった。
それなのに、あたしを悪者にしない様にって、凌は最後まで優しかった。あたしのことを考えてくれていた。
あたしは、凌のなにも考えてこなかった。
ただ隣にいて、話を聞いてくれて。そんなの、凌じゃなくても良かったじゃないかって言われたら、それまでだ。いなくなっても、寂しいなんて思わなかった。
あたしの方こそ、凌のことを早く解放してあげなきゃいけなかったんだ。
飲み過ぎた。思考が怖いくらいに目まぐるしく回る。過去がどんどん蘇ってくる。忘れていた凌の優しさ、思いやり、あたしへの愛が、どんどん溢れ出てくる。
止められない。
あんなに愛してくれた凌のことを、あたしはなんとも思っていなかったなんて、信じられない。自分が怖くなる。
いや、なんとも思ってないわけない。
あたしは、凌のことが大好きだったじゃん。本当に、大好きだったんだよ。いつからか、その気持ちが当たり前のただの日常になってしまっていた。
一気に崩壊した涙腺は、大粒の涙を放出する。堰き止めていたわけじゃなかった。それなのに、いつからか溜まっていた悲しみも辛さも、喜びすらも、涙となって溢れ出てくる。
どうしようもない。
だけど、止められない。
拭っても拭っても拭いきれない涙に、嗚咽が混じり始めた頃、望くんの腕が伸びて来て、あたしを包み込んだ。
「……実智ちゃんって、なんでそんなにかっこいい男ばっかそばにいたんだよ」
あっという間に望くんの胸の中に抱きしめられて、止まることのない涙を望くんの肩で受け止めてもらう。
「その人はさ、実智ちゃんにこうやって想ってもらえて、泣いてもらえて、たぶん満足じゃないのかな? 何も知らないまま、恨まれたままでいるよりも、泣いてもらえたなんて知ったら、喜ぶんじゃないかな。冴島さんはそう思って、今更だけど、実智ちゃんに凌さんの本当の想いを伝えたんじゃないのかな」
最後は消えそうに呟く。
凌の本当の気持ちを寛人から聞いた後は、こんなには泣けなかった。あの時は驚きの方が上回ってしまって、友香や寛人の前では悲しみよりも、寛人の優しさに泣けた。
二人とは友達だから、凌とも繋がっていたから、どうしても、心からは泣けなかった気がする。
だから、自分の気持ちに対してこんなに素直に吐き出せたのは、これが初めてかもしれない。
「きっと、望くんが凌のことを何も知らないから、素直になれたのかもしれない。聞いてくれて、ありがとう」
「……で、実智ちゃんの彼氏はその凌って人だったってのはわかったけど」
望くんはため息をついて、ゆっくりあたしから離れる。
「そんな実智ちゃんのことをずっとそばで支え続けてくれていた人が、冴島さんだってことでしょ? 今の話聞いて、納得した」
眉を顰めて、不機嫌な顔をする望くん。あたしはボヤける視界にそばにあったティッシュボックスを抱えこんで鼻をかむ。
「敵わないじゃん、全然。俺の完敗かも」
「……え?」
望くんは元の位置に戻ってお酒を口にした。
「あー、美味い。冴島さんってかっこいいよね。仕事出来るし、上からの信頼超厚いし、後輩の面倒見いいし、めっちゃ筋トレしてるし」
「え!?」
「ん?」
「い、いや、なんでも」
望くんの最後の発言に一瞬寛人の肉体美を想像してしまった。なんてことだ、あたし。今それを考えるのは違うでしょ。
「俺、実智ちゃんの気持ち全然考えないで自分の気持ちばっか優先させてきたから、最低だなって。なんか、よく考えてみたら、俺の行動っていきなり家に上がり込むし、気持ち押し付けすぎだし、ただヤりたいだけのバカな男って思われても仕方ないって気が付いた」
ためいきをつきながら、望くんは箸を置いた。
「実智ちゃんの事好きなら、ちゃんと実智ちゃんの幸せを考えてあげるべきなのに。そんな余裕なかった。今まで、ごめん……」
テーブルの上で握られた望くんの拳が震えている。
「冴島さんに言われて気がついたよ。だから、もう好きとは言わない、ごめん……本当に」
無理やり笑う望くんの顔があまりにも苦しそうで、切なくて、あたしは何も言葉が出てこなかった。ただ、頷くことしかできなくて。
ーー好きとは言わないーー
散々あたしが望くんに言って来た言葉だ。
こんな風に返ってくるなんて、思ってなかった。
やっぱり、望くんと恋愛なんて無理だった。
自分の気持ちに気が付けたけど、この思いは伝えずにいた方が良いのかもしれない。
このまま、望くんと明日さよならしよう。
今ならまだ、間に合う。
たかが一週間だ。
望くんが来て、愛されて、好きと言われて。
こんな短い時間で気が付いた気持ちなんて、きっとまた一週間後には綺麗さっぱりなくなっているはず。
だから、あたしも好きとは言わない。
これで良かった。
楽しかったから。望くんが来てくれたこの一週間。
「あ、デザートに苺シャーベットあるから食べようか」
ご飯を食べ終えて立ちあがろうとするけど、くらりと回る頭に上手く立ち上がれずに床に両手を付いた。
思い返せば、あたし相当飲んだ気がする。
目の前がクラクラして、気持ちが悪くなってくる。お酒に頼りすぎたんだ。酒に飲まれたことないとか言っておいて、格好悪い。
「……ごめん、飲み過ぎたのかも。ちょっと、横になる」
そのまま、床に丸くなったあたしは、ため息を吐き出した後から、記憶がない。