🌊 海の未来 🌊 ~新編集版~
 3月のアンカレッジは寒い。
 最高気温がマイナスになる日も多く、到着した日も凍えるような冷たい風が吹きつけていた。
 それは多難な前途を予感させるような風で、これから始まる交渉の厳しさを教えられているようだった。
 アラスカ湾北部の河口近くの海で行われるサーモン漁は5月解禁なのでその前に契約しておかなければならないのだが、限られた時間で成果を出すのは至難の業を超えているとしか思えなかった。

 到着した翌日、アポイントを入れていた『アラスカ魚愛(ぎょあい)水産』へ直行した。
 現地で最大規模の水産会社であり、過去にはかなりの取引があったが、最近はほとんどゼロに近い状態が続いている。
 本来なら社長に直談判(じかだんぱん)をしたいところだが、平社員の身分ではそうもいかず、担当者と話をするしかなかった。
 
「大日本魚食さんですか、久しぶりですね」

 幸夢が名刺を渡して自己紹介すると、担当者が大げさに両手を広げた。
 
「ご無沙汰しております。ところで、今年のサーモンの漁獲量はどのくらいを予測されていますか」

 彼はそれには答えず、自社の特徴を得意気に説明し始めた。
 
「ご存じだと思いますが、うちはサーモンの鮮度を保つために船上凍結をしています。更に、陸上でもマイナス35度以下になる急速凍結を15時間以上行っています。アニサキスなどの寄生虫対策のためです」

「承知しています。徹底されていて、素晴らしいと思っています」

 事前に調べて知っていたので誉め言葉で返したが、「品質を重視しているので当然ですけどね」と抑揚(よくよう)のない声が返ってきた。
 しかしそんなことは気にせず「それで、漁獲量なんですけど」と再度話を振ると、「悪くないと思いますよ。自主規制の効果で資源量が増えていますから」と最新の状況に触れた。
 
「では、弊社に少しまわしていただくことは可能でしょうか?」

 しかし、期待した返事は返ってこなかった。

「う~ん、どうですかね」と首を傾げてから、「日本の水産会社はノルウェーやチリにご執心だからね」と嫌味な口調になった。しかしすぐに表情が戻って、「アラスカのサーモンは最高だと思いますよ。特にオススメはなんと言っても塩焼きですね。アラスカの海水塩を添加しているから焼いた時に身がふっくらして滅茶苦茶うまいんですよ。焼き上がりの香りがいいし、身離れがよくて甘みもあって絶品だと思いますよ」と自慢げに言った。
 
「そうだと思います。それで弊社としてもお取引を拡大させていただきたいと思いまして」

 必死になって次のステップへ誘導しようとしたが、価格を聞いて愕然(がくぜん)とした。
 与えられた予算を大きく超えていたのだ。
〈買い負け〉という言葉が脳裏を過り、唖然として担当者を見つめるしかなかった。
 それでも関係を閉ざしてはいけないと思い、「上層部と相談して再度お願いに上がります」と含みを持たせることを忘れなかった。 すると、彼は意外なことを口にした。
 
「社長に挨拶だけでもしていきますか?」

 突然のことに驚いて声が喉に詰まったが、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。
〈是非に〉と頼み込んで社長室に連れて行ってもらった。
 
 紳士だった。
 真っ黒に日焼けした厳つい漁師のような顔を想像して室内に入ったが、柔らかな笑みをたたえた小柄な男性が出迎えてくれて、緊張が解けた。
 それだけでなく、短い時間だったが、貴重な話を伺うことができた。
 社長と担当者に何度も礼を言って会社をあとにした。
 
 それで気持ちが前向きになったので、翌日、やる気満々で次の水産会社へ向かった。
 しかし、交渉がまとまることはなかった。
 価格がまったく合わないのだ。
 それは他の会社でも同じだった。
 5社に対してアポイントを取っていたが、どことも契約を交わすことは出来なかった。
 4日間の出張は徒労に終わった。

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