🌊 海の未来 🌊 ~新編集版~
「家庭で魚を食べる機会が減っています」

 挨拶の時にはニコニコしていた差波木社長の表情が少し曇ったように見えた。

「共働きが多くなった影響でしょうか? それとも」

 母の言葉に頷いた彼は、「確かに、それもあると思います。出来合いの総菜を買う機会が増えているようですが、その総菜の多くが肉料理なのです。しかし、それだけではなく」と言って顔をしかめた。「魚を(さば)ける女性が少なくなっているのです」

「そうですね。魚の内臓を取って、三枚に下ろすのを面倒がる女性が増えていると聞いたことがあります」

「そうなんです。母から娘へと引き継がれていった家庭の味が、特に魚料理が減っているのです。日本人の健康長寿の源は魚だと思うのですが、それを食べなくなったら大きな影響が出ると思います。というのも、EPA、DHAという健康に良い脂肪酸は人間の体内では合成できないからです。摂取するためには青魚をしっかり食べなければならないのですが、このまま魚離れが進んでいくと心臓病などの循環器疾患が増えるんじゃないかと心配しているんです」

 悩ましげな表情を浮かべた彼だったが、ふっと我に返ったようになって、「あっ、すみません。せっかくお越しいただいたのに、愚痴のようになってしまって」と神妙な面持ちになった。
 それでもすぐに柔らかな表情になって、「核家族化が進行して魚の捌き方を習う機会が減っているのは残念ですが、それを嘆いていても仕方がないのでなんとかしなければと思っています。だから飲食コーナーを設けて魚料理に接する機会を増やしたいのです」と自説を披露した。
 すると母は〈承知しています〉というように笑みを浮かべて頷いてから、「一つご提案があります」と言って事前に考えていたアイディアを披露した。

「手の込んだ難しい料理ではなく、切り身魚の料理をお出しすることから始めてはどうでしょうか」

「切り身魚ですか」

「そうです。鮮魚売場で売っている切り身魚を調理してお出しするのです。そして、そのレシピを印刷したチラシをお渡しするのです。そうすれば」

「飲食コーナーで食べた料理を家でも再現できる」

 彼が〈なるほど〉というように頷いた。

「焼き魚だと短時間でできますし、上手に塩を振るコツを掴めば、本当においしくいただけますから」

 すると、〈確かに〉というふうに手を打った彼は、「20分から30分前に塩を振っておけば、臭みが消えて旨味が出てきますからね」と経験に基づいた言葉を返した。

 その後も2人は夢中になってアイディアを出し合った。
 身振り手振りが大きくなり、笑い声が何度も起り、2人以外は誰もいないかのように熱中していた。
 
 それでも話が一段落すると、彼が真顔になって母と正対し、〈飲食コーナーをお願いしたい〉と切り出した。
 すると母も真顔になり、「是非やらしてください。よろしくお願いいたします」と深く頭を下げた。
 
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