🌊 海の未来 🌊 ~それは魚の未来、そして人類の未来~ 【新編集版】
「谷和原さん、あなたは漁獲量規制に賛成なのですか? それとも、反対なのですか?」
「えっ、急にそんなこと言われても……」
質問されるとは思っていなかったので動揺を隠すためにお猪口の日本酒をゆっくりと空けたが、黙っているわけにもいかず、「んん、どっちと訊かれましても、それは、なんというか……」と口を濁した。
そして視線を外してお猪口に酒を注いだが、粋締は追及を止めなかった。
彼の目から酔いは消えていた。
「今、漁獲規制をしないと大変なことになりますよ。乱獲の結果、値の張る大きな魚が減り、安値で取引される未成長の魚が増えました。だから獲っても獲っても金にならないんです。金にならないから更に未成長の魚を獲る。成長する前に獲ってしまうから大きな魚は更に減っていきます。この悪循環がいつまで経っても止まらない」
厳しい目で睨まれた谷和原は上目がちに粋締を見て、〈どうしようもないでしょう〉と首を振ってからささやかに反論した。
「おっしゃることは理解できます。しかし漁業連盟が規制に反対している以上、行政としても強硬に推し進めることはできません。それに」
「水産族議員の圧力ですか」
「いや、そんなことは……」
歯切れの悪さに少し苛立ったようだったが、粋締は自制するように表情を戻して「谷和原さん」と声を強めた。
「はい」
「本当のことを言ってください」
「本当のことって」
「谷和原さんの本音です」
「私の……本音……」
「あなたは事務次官まで上り詰めた人です。官僚のトップであるあなたが問題認識を持っていないはずがない、そう思いますが違いますか?」
しかし谷和原は頷かなかった。
いや、頷くことはできなかった。
「問題意識だけでは事務次官は務まりません。というより、問題意識が足を引っ張ることもあるのです」
すると、それまで黙っていた豪田が口を開いた。
「前大臣とのことは知っています。谷和原さんが意見具申をするや否や『役人は黙っとれ!』と一喝されたことを」
「ご存知でしたか……」
目を瞑って掌を額に置くと当時のことが蘇ってきてたまらなり、それを抑えておくことができなくなった。
「『役人は調整と根回しだけしていればいいんだ』というのが前大臣の口癖でした。そして、『二度と政治家に意見具申をするな。わしの指示したことだけやればいいんだ。いいな、わかったな』と釘を刺されました。とてもきつい言い方でした」
「そんなことがあったんですか……」
粋締が信じられないというように首を振ったので、きちんと理解してもらうために事務次官という立場に言及した。
「でも反論はしませんでした。私が嫌われたら漁業水産省全体に悪影響が及ぶからです。そんなことは絶対避けなければなりません。私が我慢すれば済むことですから」
しかし、言った瞬間、当時の悔しさが胃液と共に逆流してきて、胸の内に収めることができなくなった。
「もちろん忸怩たる思いがなかったわけではありません。なんでこんな酷いことを言われなくてはいけないのかと思いましたし、冷たくあしらわれる日が続くと、自分の存在感に疑問を持つようになりました。そして政治家と官僚という逆転できない力関係の中で、どうにもできないもどかしさにもがき苦しむようになりました。すると政治家への転身が頭を過るようになりました。前大臣の選挙区から出馬して、彼を蹴落としてやろうと思ったのです。しかし強固な地盤を持つ彼に勝てるわけはありません。恨み辛みをぶつけて彼をこき下ろしても、誰もそんなことに関心は示さないでしょう。冷静になったら誰でもわかりますよね。でも当時私は正常な心理状態ではありませんでした。バカみたいなことを考えるくらい精神的に追い詰められていました」
その時の無念さを思い出すといたたまれなくなって、お猪口を満たす酒を呷った。
「眠れない夜が続くようになりました。そして、毎晩のように夢を見るようになりました。前大臣に『クビだ!』と怒鳴られる夢を見るのです。そしてその度にうなされて目が覚めるのです。そんな日が続き、睡眠不足で気力がどんどん落ちていきました。そのうちどうでもよくなってきました。任期が終わるまで我慢すればいいのだと思うようになりました。そう思いだすと、自分でも嫌になるくらいどんどん卑屈になっていきました。日和見というか、保身に走るようになりました。そうしないと身も心も持たなかったのです」
肩が小刻みに震えるのを見て取ったのか、豪田が思いやりに満ちた目で慰めの言葉をかけてきた。
「どれだけ辛い思いをされたか……。漁業水産省のエースとまで言われた谷和原さんがこんなひどい目に遭って、人柄が変わってしまうくらい追い詰められて、本当に言葉もありません」
豪田は何度も首を振ったが、すぐに断ち切るような表情になって谷和原を見つめた。
「谷和原さん、もう一度やり直しませんか? 私が力になりますから、あの頃の谷和原さんに戻っていただけませんか? 谷和原さんが正しいことをしている限り、あなたを非難したり攻撃をする何者かが現れた時には必ず守る壁になりますから」
豪田が手を取ってきっぱりと言い切った。
しかし頷かなかった。
「そこまで言っていただいて、お気持ちはとても嬉しいのですが」と手を振り解いた。
「慣例からいえば、私の任期は残り半年を切っています。それに、そのあとのこともあります。力を持った政治家に嫌われると、退職金や退官後の人生に大きな影響が及んでくるのです」
2人の息子はイギリスとアメリカの有名私立大学に留学していた。
末娘は医学部進学を目指す高校3年生だった。
子供たちの将来は安定した収入に掛かっていた。
「もう攻める気力は残っていません。守ることで精一杯なのです」
豪田から視線を外し、お猪口に手を伸ばして、すするように酒を飲んだ。
しかし、粋締の声がそれを止めた。
「谷和原さん、私にも家族がいます。守るべき家族がいます。そして、私も漁業連盟という組織の中にいます。腕一本で稼いでいる漁師といえども組織に嫌われたら大変なことになります。だから谷和原さんの気持ちはよくわかります。でもね、やらなきゃいけないことは例え抵抗を受けたとしてもやらなきゃいけないのです」
そこで大きな声で名前を呼ばれた。
「谷和原さん、私だって所属している漁業連盟の支部からよく思われていません。というか反発を受けています。漁業のあるべき姿を訴えれば訴えるほど、その反発は強くなっています。いや、嫌がらせを受けているといっても言い過ぎではありません。でもね、何度も言うようですが、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないのです。魚と海を守るためには言わなきゃいけないのです。それも危機に瀕している今こそ声を大にして言わなきゃいけないんです」
すると、豪田が血走った目で話を引き取った。
「谷和原さん、私もプレッシャーを受けています。前大臣を始め水産族の重鎮から有形無形のプレッシャーを受けています。『豪田を首にしろ』と露骨に言う人までいます。どうしてだと思いますか? それは、私が女だからです。そのことが気に入らないのです。『男に命令するな』と言われたこともあります。国会の中でも男尊女卑は今だに残っているのです。でもね、私は負けませんよ。誰がなんと言おうと負けません。漁業水産大臣としての使命を果たすまでは負けるわけにはいかないのです。例え解任されても、その後要職に付けなくなっても、そんなことは構いません。そんなことよりも自分の生き方に後悔したくないのです。あの時なぜもっと頑張らなかったのかと後悔したくないのです。年老いてから昔のことを思い出して胃液が逆流するような思いをしたくないのです」
そこで豪田は盃を口にした。
穏やかな表情になるための切っ掛けを作るように。
「私たちには使命があります。私には大臣としての使命が、そして、谷和原さんには事務次官としての使命があります。何が使命かはおわかりですよね。谷和原さん、自分に与えられた使命を果たしませんか。将来後悔しないためにも嘘偽りのない本音で仕事をしませんか。私と一緒にやりましょう、谷和原さん」
「えっ、急にそんなこと言われても……」
質問されるとは思っていなかったので動揺を隠すためにお猪口の日本酒をゆっくりと空けたが、黙っているわけにもいかず、「んん、どっちと訊かれましても、それは、なんというか……」と口を濁した。
そして視線を外してお猪口に酒を注いだが、粋締は追及を止めなかった。
彼の目から酔いは消えていた。
「今、漁獲規制をしないと大変なことになりますよ。乱獲の結果、値の張る大きな魚が減り、安値で取引される未成長の魚が増えました。だから獲っても獲っても金にならないんです。金にならないから更に未成長の魚を獲る。成長する前に獲ってしまうから大きな魚は更に減っていきます。この悪循環がいつまで経っても止まらない」
厳しい目で睨まれた谷和原は上目がちに粋締を見て、〈どうしようもないでしょう〉と首を振ってからささやかに反論した。
「おっしゃることは理解できます。しかし漁業連盟が規制に反対している以上、行政としても強硬に推し進めることはできません。それに」
「水産族議員の圧力ですか」
「いや、そんなことは……」
歯切れの悪さに少し苛立ったようだったが、粋締は自制するように表情を戻して「谷和原さん」と声を強めた。
「はい」
「本当のことを言ってください」
「本当のことって」
「谷和原さんの本音です」
「私の……本音……」
「あなたは事務次官まで上り詰めた人です。官僚のトップであるあなたが問題認識を持っていないはずがない、そう思いますが違いますか?」
しかし谷和原は頷かなかった。
いや、頷くことはできなかった。
「問題意識だけでは事務次官は務まりません。というより、問題意識が足を引っ張ることもあるのです」
すると、それまで黙っていた豪田が口を開いた。
「前大臣とのことは知っています。谷和原さんが意見具申をするや否や『役人は黙っとれ!』と一喝されたことを」
「ご存知でしたか……」
目を瞑って掌を額に置くと当時のことが蘇ってきてたまらなり、それを抑えておくことができなくなった。
「『役人は調整と根回しだけしていればいいんだ』というのが前大臣の口癖でした。そして、『二度と政治家に意見具申をするな。わしの指示したことだけやればいいんだ。いいな、わかったな』と釘を刺されました。とてもきつい言い方でした」
「そんなことがあったんですか……」
粋締が信じられないというように首を振ったので、きちんと理解してもらうために事務次官という立場に言及した。
「でも反論はしませんでした。私が嫌われたら漁業水産省全体に悪影響が及ぶからです。そんなことは絶対避けなければなりません。私が我慢すれば済むことですから」
しかし、言った瞬間、当時の悔しさが胃液と共に逆流してきて、胸の内に収めることができなくなった。
「もちろん忸怩たる思いがなかったわけではありません。なんでこんな酷いことを言われなくてはいけないのかと思いましたし、冷たくあしらわれる日が続くと、自分の存在感に疑問を持つようになりました。そして政治家と官僚という逆転できない力関係の中で、どうにもできないもどかしさにもがき苦しむようになりました。すると政治家への転身が頭を過るようになりました。前大臣の選挙区から出馬して、彼を蹴落としてやろうと思ったのです。しかし強固な地盤を持つ彼に勝てるわけはありません。恨み辛みをぶつけて彼をこき下ろしても、誰もそんなことに関心は示さないでしょう。冷静になったら誰でもわかりますよね。でも当時私は正常な心理状態ではありませんでした。バカみたいなことを考えるくらい精神的に追い詰められていました」
その時の無念さを思い出すといたたまれなくなって、お猪口を満たす酒を呷った。
「眠れない夜が続くようになりました。そして、毎晩のように夢を見るようになりました。前大臣に『クビだ!』と怒鳴られる夢を見るのです。そしてその度にうなされて目が覚めるのです。そんな日が続き、睡眠不足で気力がどんどん落ちていきました。そのうちどうでもよくなってきました。任期が終わるまで我慢すればいいのだと思うようになりました。そう思いだすと、自分でも嫌になるくらいどんどん卑屈になっていきました。日和見というか、保身に走るようになりました。そうしないと身も心も持たなかったのです」
肩が小刻みに震えるのを見て取ったのか、豪田が思いやりに満ちた目で慰めの言葉をかけてきた。
「どれだけ辛い思いをされたか……。漁業水産省のエースとまで言われた谷和原さんがこんなひどい目に遭って、人柄が変わってしまうくらい追い詰められて、本当に言葉もありません」
豪田は何度も首を振ったが、すぐに断ち切るような表情になって谷和原を見つめた。
「谷和原さん、もう一度やり直しませんか? 私が力になりますから、あの頃の谷和原さんに戻っていただけませんか? 谷和原さんが正しいことをしている限り、あなたを非難したり攻撃をする何者かが現れた時には必ず守る壁になりますから」
豪田が手を取ってきっぱりと言い切った。
しかし頷かなかった。
「そこまで言っていただいて、お気持ちはとても嬉しいのですが」と手を振り解いた。
「慣例からいえば、私の任期は残り半年を切っています。それに、そのあとのこともあります。力を持った政治家に嫌われると、退職金や退官後の人生に大きな影響が及んでくるのです」
2人の息子はイギリスとアメリカの有名私立大学に留学していた。
末娘は医学部進学を目指す高校3年生だった。
子供たちの将来は安定した収入に掛かっていた。
「もう攻める気力は残っていません。守ることで精一杯なのです」
豪田から視線を外し、お猪口に手を伸ばして、すするように酒を飲んだ。
しかし、粋締の声がそれを止めた。
「谷和原さん、私にも家族がいます。守るべき家族がいます。そして、私も漁業連盟という組織の中にいます。腕一本で稼いでいる漁師といえども組織に嫌われたら大変なことになります。だから谷和原さんの気持ちはよくわかります。でもね、やらなきゃいけないことは例え抵抗を受けたとしてもやらなきゃいけないのです」
そこで大きな声で名前を呼ばれた。
「谷和原さん、私だって所属している漁業連盟の支部からよく思われていません。というか反発を受けています。漁業のあるべき姿を訴えれば訴えるほど、その反発は強くなっています。いや、嫌がらせを受けているといっても言い過ぎではありません。でもね、何度も言うようですが、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないのです。魚と海を守るためには言わなきゃいけないのです。それも危機に瀕している今こそ声を大にして言わなきゃいけないんです」
すると、豪田が血走った目で話を引き取った。
「谷和原さん、私もプレッシャーを受けています。前大臣を始め水産族の重鎮から有形無形のプレッシャーを受けています。『豪田を首にしろ』と露骨に言う人までいます。どうしてだと思いますか? それは、私が女だからです。そのことが気に入らないのです。『男に命令するな』と言われたこともあります。国会の中でも男尊女卑は今だに残っているのです。でもね、私は負けませんよ。誰がなんと言おうと負けません。漁業水産大臣としての使命を果たすまでは負けるわけにはいかないのです。例え解任されても、その後要職に付けなくなっても、そんなことは構いません。そんなことよりも自分の生き方に後悔したくないのです。あの時なぜもっと頑張らなかったのかと後悔したくないのです。年老いてから昔のことを思い出して胃液が逆流するような思いをしたくないのです」
そこで豪田は盃を口にした。
穏やかな表情になるための切っ掛けを作るように。
「私たちには使命があります。私には大臣としての使命が、そして、谷和原さんには事務次官としての使命があります。何が使命かはおわかりですよね。谷和原さん、自分に与えられた使命を果たしませんか。将来後悔しないためにも嘘偽りのない本音で仕事をしませんか。私と一緒にやりましょう、谷和原さん」