月に歌う

 無意識に口角が上がり、笑顔になってしまう。
 着用しているコートのポケットに手を突っ込んで、選びに選び抜いて購入した、装飾のない真っ白なレターセットを取り出す。

 私の気持ちは、偏見や困惑に染まってはいないと、見てわかるようにこのレターセットに決めたのだ。

 「あの!!すみません!!ちょっといいですか?」

 きっと、補聴器をつけているだろうと予想していたので、大きすぎない声を出して、そして、そして私は。私は。

 彼のぶら下げていたコンビニ袋を摘まむと、引っ張った。
 手に触れるのは、さすがに躊躇われて、せっかくの筋書きを自分から台無しにした。
 でも、まだ、大丈夫。
 本番は、これからだ。
 ほら、彼は、振り返った。

 まるであの日、助けてもらった日とは、反対のシチュエーション。

 改めて、私は彼の手をつかむと、手のひらを見せてください、と手話で説明をする。
 邪魔だな、と、レターセットを再びポケットに戻して、ハラハラとしながら返事を待つ。

 彼は、口をきいてくれたけれど、言葉が濁っていて正しくは聞き取ることが出来ない。
 長い期間、耳が聞こえない生活をして来たのだろう。

 でも、そんなの、私はクリアしてみせる。
 あなたの声を、理解出来るようになってみせる。



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