ショパンの指先
「洵、お願いこっちを見て。好きなの。初めてこんなに人を好きになったの。お願い、私を突き放さないで。どんな形でもいいから洵の側にいさせて」

「出て行け。二度と来るな」

 洵は冷淡な声で告げた。もう駄目だと思った。どんなことを言っても、洵には届かない。私は結局、洵にとって必要のない存在だったのだ。

 私は大きな紙袋に画材道具を入れて、出て行く準備をした。頭の中がからっぽで、ふらふらした。今、頭を揺らしたら、箱に石ころを入れて揺らした時のようなカランカランという軽い音がするかもしれないと、この状況にはひどく似つかわしくないことを思った。現実逃避をしているかのようだった。

 私が泣きながら作業をしていても、洵は私の方を見ようとはしなかった。口を真一文字に結び、不機嫌そうに遠くを見ている。

「今までありがとう」

 私はそう告げると、床に合鍵を置いた。洵は結局最後まで、私の顔を見ようとはしなかった。
 洵の前を通り過ぎ、玄関へと向かった。何一つ、別れの言葉さえ掛けてはくれなかった。それもそうか。私達は付き合っていたわけではないのだから。私が一方的に、洵のことを好きだったのだから。

 玄関を出て、扉を閉めて。エレベーターの降下ボタンを押して。私は振り返って洵の部屋の扉を見た。扉は物音一つ立てず、無機質な冷たい壁と同化している。

 エレベーターの扉が開いた。私は乗り込まずに、じっとエレベーターの中を見つめていた。やがて、誰も乗らないエレベーターは、扉を閉めて下がっていく。

 ここで待っていれば、洵が追いかけてきてくれるのではないかと思った。慌てた顔をして、息を弾ませて「杏樹、ごめん!」と言って部屋から出てきてくれるのではないかと。

そう思ってずっと待っていたのに、洵はついぞ現れなかった。
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