ショパンの指先
杏樹が合い鍵を床に置く音がした。その小さな音は、心臓を鋭利な刃物で突き刺すような威力だった。

杏樹の顔が見られなかった。見れば理性が吹き飛んで、抱きしめてキスをしてそのまま押し倒してしまうと自分でも分かっていたからだ。これでいい、この方法しかない。必死で自分に言い聞かす。溢れ出てくる本能を身体の奥に閉じ込めて、本能のままに動いたら、ただのサルだ、馬鹿だ、と脳内で言葉を反復させる。

突き放しているのは他でもない俺自身なのに、狂おしいくらい切なかった。この方法が最善の策。何度も自分に言い聞かせて、納得させて、衝動を押しとどめる。

杏樹が家から出て行った。

終わってしまったのだと身体から力が抜けた。これで良かったはずなのに、溢れ出るのは後悔の気持ちしかない。これ以上一緒にいれば、もう離れることができなくなる。日毎に増していく、杏樹を想う気持ちに飲み込まれて、今まで積み上げてきた一切のものを失ってしまう。

遠子さんとの約束を破ったら、せっかく掴んだショパンコンクールに行けなくなる。だからこれでいい。

バレなければそれでいいとも思えなかった。どんなに遠子さんが、勘が鋭いとしても、証拠を掴ませないように徹底させて、何もしていないふりを装えばいいと開き直ることはできなかった。ピアノを弾ける今の状態をキープしたまま、杏樹と過ごせたら、きっと恍惚とした毎日が送れるのだろう。

でもそれは堕落だ。破壊的行為だ。そんな偽りの恋愛の先に、幸せが待っているとは思えない。日々快楽と共に失っていく大切なものに目を背けて生きていくことはできない。大きな爆弾を背負い込みながら、杏樹と笑い合って生きていく自信がなかった。大切にしたいと思うからこそ、杏樹を不幸にはさせたくなかった。
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