ショパンの指先
堕ちていくのは居心地がいいものだ。考えることを止めて、世間から目を背けて。それはとても自由で、楽な生活だ。

一度、とことん堕ちたことがあるからこそ、もう二度とあの世界には足を踏み入れたくない。今の生活だって、人に自慢できるようなものじゃない。身体の関係はないとはいえ、お金を援助してもらっているということはひものようなものだ。

それでも俺は、覚悟を持ってこの生活をしている。恥じてはいない。これがピアノを続けるための最善の策だと思ったからだ。ピアノのためなら何を捨てても構わない。そう思ったから、この生活を続けてきた。

俺にとって、何よりもピアノが一番で、ピアノが生きる目的だ。ピアノのない人生は、喜びも悲しみも薄っぺらなものとなる。そんな世界は、地獄でしかない。

――五年前、俺は全てを失った。俺は一度死んだと同然だった。五年前の、ショパンコンクールオーディション予選日に。


物心ついた時から、俺はピアノを弾いていた。周りからは神童と言われ、俺自身まんざらでもなかった。数あるコンクールを総なめして、家にはトロフィーや賞状が自慢気にリビングに飾られていた。

母は誰よりも熱心に俺の練習に付き合い、俺の才能を信じ込んでいた。より良い環境を与えるために、有名なピアノの講師を俺につけさせたりもした。母は自分の時間を全て削り、俺のために、俺にピアノを弾かせるためだけに生きているように見えた。

遊びたいと思っても、母が許してくれない。突き指するといけないからと言われ、球技をさせてもらえず、俺は何度も母に反抗した。最初は大人に褒められて得意気になっていたけれど、だんだんピアノを弾くことが嫌になってきた。コンクール前は、更に母の熱心さに拍車がかかるので、コンクールなんて大嫌いになった。

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