ショパンの指先
 そういう生活を求めているわけじゃない。もっとこう……。なんというか、自分でも何がしたいのか分からないけれど、こう……地に足ついた生活というか。

具体的に何をしたいとかは想像すらできないのだけれど、なにか今までとは違った生活をしたかった。でも、それには覚悟がいる。今まで楽な方向にばかり流れてきた私には、頑張るための活力が欲しかった。

 ……活力。

 私にとって癒しであり、元気が出るのは洵のピアノの演奏を聴くことだ。洵の演奏を聴けば、なにか方向性が定まるかもしれない。働こうという気が起きるかもしれない。

 ああ、でもそうだ。私は洵に見捨てられたのだった。もう俺に近付くなと言われたのだった……。

 あの日のことを思い出すと、今でも胸が痛かった。チクリと針が刺さるような痛みではなく、ズンと重い石を乗せられたような圧迫感のある痛みだった。

 ……会いたい。

 何度も湧き上がる衝動を押し殺して苦しくなった。煙草のニコチンが切れた時のような、ソワソワして居ても立ってもいられなくなる中毒的な衝動だ。会いたくて、会いたくて仕方がない。切なくて苦しくて悲しくなる。

 どうして心から好きになった人とは、結ばれないのだろう。他のどうでもいい人には好かれるのに。もうこれ以上好きになる人は現れないだろうという確信めいた予感があった。だから余計に辛くなる。洵じゃなきゃ駄目なのに。洵が側にいれば、それだけで良かったのに……。

 私は突然「そうだ!」と思いついて、急いで外に出る準備をした。アマービレに行こうと思ったのだ。客としてアマービレに行けば、洵の演奏が聴ける。俺に近付くな、もう二度と来るなと言われたけれど、アマービレにも来るなとは言われてない。
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