ショパンの指先
私はお金を払って店に行くんだから、洵にどうこう言われるような筋合いはないじゃないかと、自分に都合のいい台詞を並べ上げた。

 そうと決まったら私の行動力は早かった。気分が浮き立った。洵に会える! ただの客の一人でもいい。ファンの一人でもいい。洵と繋がっていたい。喋れなくても、触れ合えなくても、ただ洵の演奏を聴くだけでもいい。それだけでいいから。それ以上はもう、望まないから。

 店のドアの前で私の足が止まった。私より後から来た人たちは、じっと動かない私を不審に思いながら、私の横を通り抜けて店に入っていく。そうして私は三組の客に先を越された。入る勇気が出てこなかった。思い立ってからここまで来るのは早かったのに、肝心のあと一歩が踏み出せない。洵に会ったら、どんな顔をすればいいのだろう。洵はどんな顔をするのだろう。迷惑そうな顔をされたら……。

そう思うと怖くて堪らないのだ。

「入らないの?」

 突然後ろから話し掛けられて、私は驚いた。そして振り向いて、声を掛けてきた人物を見て更に驚いた。心臓が縮みあがった。

「あっ……」

 言葉が上手く出てこない。私の真後ろにいた人物は、魅惑的な微笑を携えて、大人の色気を身体に纏っていた。洵が「遠子さん」と呼んでいた女性だった。

「あなた前にもアマービレに来ていたわよね」

 遠子さんは、にこやかに微笑みながら、店のドアを開けた。

「ええ、まあ」
「洵に会いに来たの?」

 サラっと放った言葉が、重く胸に響いた。遠子さんは、この一言を私と目を合わさずに言った。どういう意図で言っているのか分からず、遠子さんの心境も読み取ることができず、私は戸惑った。

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