ショパンの指先
「会いにというか、演奏を聴きに……」

 嘘は言っていない。洵って誰ですか? なんてとぼけても、きっとこの人は嘘を見破るだろう。そして一度嘘を言えば、巧妙に何らかの形で攻撃してくるはずだ。この女性は、骨の髄から女だ。そう感じる。

「そうなの。でも残念だわ、洵はピアノを弾けなくなったの」
「そんな! まさか怪我をしたとか!?」

 遠子さんは、とても悲しそうに首を振った。

「理由は分からないの。精神的なものかもしれない。洵は前にもピアノが弾けなくなった時期があるから」

 私の知らない洵の過去。洵にそんな時期があったなんて。遠子さんは、洵のことを私以上に知っている。

「洵のことが心配で、ここ最近毎日アマービレに来ているの。洵も弾こうと試みたりはするのだけどね。駄目みたい。指に力が入らないって。すごく落ち込んでいるの」

 どうしてだか遠子さんの言葉が惚気に聞こえた。私の前では落ちこむ姿を見せてくれる洵を献身的に支えているのだと自慢されているようでもあった。

「そんな状態だから、洵の演奏は聴けないかもしれないけれど……。どうする? 入る?」

 私は一呼吸置いてから「入ります」と力強く言った。ここで帰るわけにはいかない。女としての意地もあるし、なにより洵のことが心配だった。私に会って、洵の何かが変わるとは思えなかったけれど、遠くからでも、伝わらなくても応援したかったのだ。

 遠子さんの後ろに続いて店の中に入ると、カウンター席の内側でグラスを拭いていた優馬が驚いた顔をして私を見た。そのままいつも通りカウンター席に向かおうとすると、遠子さんに止められた。

「テーブル席で一緒に飲まない? ご馳走するわよ」


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