ショパンの指先
「もうすぐ出てくるんじゃない? ピアノを弾こうとはするのだけどね、やっぱり毎回駄目みたいで、遠子さんと一緒に浴びるようにお酒を飲んでいるわよ」

 胸がズキリと痛んだ。遠子さんはそうやって洵を支えているのだ。洵の側に居続けられる。遠子さんの背中を見ながら、羨ましいと思ってしまった。

 それから優馬と他愛もない話をしていると、どこからともなくふらっと洵が出てきて、いつの間にかピアノの椅子に座っていた。

 洵はいつも人目を引くオーラを纏っていて、洵が入ってくると空気が一瞬変わるのだけれど、今日は全く気が付かなかった。客の誰もが洵が檀上に上がり、ピアノの椅子に座っていることに気が付かなかったと思う。それくらい、洵の纏う雰囲気は変わっていた。

 固唾を飲んで見守る中、洵は私の存在に気付いていないようで、ピアノの椅子に座りながら、ぼんやりと鍵盤を見つめていた。そのアンニュイな横顔は、惹き込まれるような不思議な色気があった。輝きを失っていても、洵はやっぱり美しい。

 洵はため息を一つ零して、手を重たそうに持ち上げて鍵盤に指を乗せた。弾けなくなったというのは本当なのだろうか。私は鼓動がドクドクしてくるのを感じた。

洵、弾くのよ。弾いて。

祈るような心持ちで洵を見守る。洵は目を閉じ、神経の全てを指先に集中させるように動かそうとして……止まった。

どうして弾けないのか。私は目の前の光景が信じられなかった。洵は悔しそうな顔をして舌打ちをしている。どうしたの? 何があったの? 洵。

洵は大きなため息を吐いて、立ち上がった。ピアノを弾くのを諦めたようだった。そして店内を見渡して、ある一点で止まった。
時間が止まったように、私たちは見つめ続けた。
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