ショパンの指先
「俺から逃げようとしていただろ。家に行ってもいないし、仕事は無断でキャンセルするし。聞いたぞ、杏樹。お前、妊娠しているって嘘ついて金巻き上げていたらしいなぁ」

「お金なんて取ってない!」

 私は大声で否定した。洵が聞いているのに、誤解されるようなことを言ってほしくなかった。

「巻き上げているだろ、俺から。お前の生活費の面倒は誰が見ていると思っているんだ? あのマンションも、誰が月々の賃料払っていると思っているんだよ、え?」

 私は青ざめて、何も言葉を返すことができなかった。腕を振り払って逃げ出したくても、有村が私の腕を握る力がどんどん強くなっていく。

「杏樹、この男誰だ?」

 洵は有村を睨みつけて言った。すると有村は見下すように顎を上げ、洵を舐めるような目付きで眺め見た。

「お前が、杏樹お気に入りのピアニストか。なるほど、確かにいい男だ」

「嫌だ、やめて」

 有村が人を褒めるような発言をした後は、決まって大変なことになる。絶対に勝てると思った時じゃないと有村は褒めない。それは後に残酷な言葉で言いくるめる前菜のような言葉なのだ。

「君は杏樹がどんな仕事をしているのか知っているのかな?」

 有村は艶めかしく優しい口調で言った。普段の有村を知っているから、その口調は鳥肌が立つほど気持ちが悪かった。

「仕事?」

 洵は眉を寄せて聞き返した。ゾッとした。恐怖でおかしくなりそうだった。

「やめて! 有村お願い!」
「おいおい、何を止めることがある。彼は杏樹の仕事を聞きたがっているようだ。教えてあげればいい」
「あんなの仕事じゃない! 私はもう止める! もう二度とやらない!」

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