ショパンの指先
腕を掴まれたまま、私は座り込み嗚咽した。最初は簡単にお金が稼げるからラッキーくらいに思っていた。こんなことになるとは思わなかった。有村がこんなに執念深く恐ろしい男だとは思わなかった。

「……ふざけんなよ」

 洵が下を向きながらボソリと呟いた。

「てめぇ杏樹になんてことさせていたんだよ!」

 洵は怒りにまかせて、拳で有村の頬を殴った。不意のことでまったく防御できなかった有村は後ろに吹き飛んだ。椅子やテーブルに背中ごとぶつかり、大きな音に店内は騒然となった。

「おい洵、やめろ!」

 優馬が低い男の声を出して洵を制止しようとしたけれど、洵は倒れている有村に再び殴りかかった。人を殴る鈍い音が何度も店内に響いた。

「止めて! 止めて洵!」

 私は泣きながら叫んだ。洵の拳が赤く滲んでいた。

有村が殴られるのが嫌なんじゃない。これ以上殴ったら洵の指が壊れてしまうかもしれない。警察沙汰になったら、洵が捕まってしまう。そうなったら洵はピアノを弾けなくなる。洵がピアノを弾けなくなる!

「止めてお願いっ!」

 私の叫びは洵には届かなかった。けれど、優馬や店の男性スタッフたちが洵を抱きかかえるように止めて、有村から引き剥がした。

 洵の目は血走り、誰かが抑えていないとすぐにまた殴りかかっていきそうだった。有村の顔は腫れあがり、唇からは血が出ていた。有村はフラフラと起き上がって、抑えつけられている洵に向かって言った。

「ふざけんなはこっちの台詞だ! こんなことしてどうなるか分かっているんだろうな! おい誰か警察を呼べ! こいつを刑務所にぶち込んでやる!」

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