ショパンの指先
「なんで杏樹が謝るんだ」

 洵はいつものように優しさを隠してぶっきらぼうに言った。

「汚い女だって、洵に知られちゃった」
「そんなこと、二度と言うな」

 洵は途端に不機嫌になった。抑えつけていた従業員の手を「もう大丈夫だから」と言って放してもらい、洵は黙ったまま私の手を掴んだ。

「洵?」
「出るぞ」

 わけが分からず洵に手を引っ張られて出口に向かって歩き出した。すると、後ろから「洵!」と遠子さんが呼び止める声がした。私と洵は立ち止まり、振り返った。

「洵、どこに行くの?」

 遠子さんの目は怒っているようでもあり、怯えているようでもあった。洵が自分の元から離れようとするのを恐れているように見えた。

「これから杏樹を抱きにいく」

 洵の言葉に、遠子さんと私は一瞬絶句した。驚き、何も言えずに見開いた目で洵を見ている私に対して、遠子さんは青ざめて唇をわなわなと震わせていた。

「そんなことして、どうなるか分かっているの?」
「分かっている」

 洵は冷静に落ち着いた声で言った。そして遠子さんをじっと見つめて、少しだけ泣きそうな顔を一瞬見せた。

「ごめん……じゃなかった。……ありがとう、遠子さん」

 その言葉に遠子さんは氷ついた。洵の言葉は、愛情に満ちていた。洵は遠子さんのことを特別に思っていたということが感じられた。それは、恋とか愛とかとは違うのかもしれない。それでも二人の間には、二人にしか分からない絆があって、それはとても温かいものだったのかもしれない。

「行こう」
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