ショパンの指先
有村が用意した部屋は、大きなリビングが二つもあり、ちょっとした料理なども作れそうなカウンターキッチン内蔵の部屋だった。

亀井さんもこの部屋には少し驚いたらしく、さっと部屋を一瞥すると、意味ありげに鼻で笑った。

「有村はどうやら君に惚れているらしい」
「どうしたの? 急にそんなこと言い出すなんて」
「この部屋に、この仕事。君にぴったりだ」
「違うわ。私のためじゃない。亀井さんのためよ」
「君は分かっていない」

亀井さんは身体を密着させ、私の頬に指先を這わせた。

「君に魅かれない男などいない」

そして亀井さんは、私の首筋にキスを落とした。

亀井さんは私をベッドルームへと連れて行き、私を押し倒した。

私のための仕事……。

亀井さんの体の重みを感じながら、私は亀井さんの言葉を頭の中で反復していた。

亀井さんの手が、生まれたままの姿となった私の肌に絡みつく。

これが私のための仕事……。

私の天職だって言いたいの?

私は有村に『杏樹は社会人に向かない』と言われたことを思い出した。


――入社一年目の春。

絵のモデルを頼むと有村から言われて、私は有村のアトリエへ入った。

アトリエといっても、事務所の一室と変わらない。

有村は当時から雑誌に取り上げられるほど有名なイラストレーターで、彼の絵はジャンルを問わない。

テンペラや油彩、時には墨汁を使ったり、コピックやパソコンのペンタブレットを同じ絵に使用したりと、何にも縛られない自由な作風で世間を賑わせていた。
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