ショパンの指先
 店の出入り口でスタッフが深々とお辞儀しながら接客している姿が見えた。ホストの上客女のような堂々とした佇まいで店に入ってきたのは、遠子さんだった。

 目が合ったので一応会釈するも、遠子さんはあからさまに無視をしてテーブル席へ行ってしまった。

 一瞬、頭にくるも、そのような態度にはもう慣れた。遠子さんも時々一人でアマービレに飲みにくる。いつも一人なので友達いないのかしらと思うけれど、私だって人のこと言えないので深くは考えないようにしている。

 演者不在のピアノを肴に、ゆっくり一人で飲みたい気分の時もあるだろう。楽しかったはずの思い出が、治らない古傷のように痛む思い出になっても、かさぶたを剥すように小さな痛みを自分に与えながら、洵のことを思い出したい時もある。

 同じ男を愛した女にしか分からない感覚。洵がいなくなった後、あれだけ大きな喧嘩をしたのでしばらくは犬猿の仲だったけれど、いつしか私達の間には共犯者のような絆が生まれていた。

 それは私と遠子さんと、空気が抜群に読める優馬しか分からない独特の関係。

 遠子さんに平手打ちされた後、一週間ほど腫れが引かなくて、痛むたびに憎たらしく思っていたけれど、洵がいなくなった寂しさを真に分かり合えるのは遠子さんだけだと気が付いた。

 お互い言葉は交わさないけれど、共通の想いを抱いているような気がする。無視はされるが、遠子さんの目から憎しみのようなものは感じられない。まあ、憎くはなくても、私のことは嫌っているかもしれないけれど。

 今日の遠子さんの様子は、どこかおかしかった。演者不在のピアノを見つめてはため息を吐き、食事もほとんど手をつけず上の空だ。そして二時間程経った頃、料理を半分以上残して席を立った。
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