ショパンの指先
「俺が何度も杏樹を突き放して傷付けた報いが来たのかな。待つよ。杏樹が俺の隣で胸を張って笑顔になれるまで、いつまでも」
「待たないで。そんな約束したくない。洵だって待ってほしくないから、約束しなかったのでしょう?」
「……そうだな」
「いつか、どこかで出会ったら、二人で飲みましょう。私たち、きっといい友達になれると思うの」
「友達……」

 洵は友達という言葉に、不服そうだった。もしも、どこかで出会ったら、私は洵を友達としては見られないと思う。洵は何歳になっても、私にとっては最高に魅力的な男で、きっと抱かれたいと思ってしまう。でもきっとその頃には、洵には家庭があって奥さんや子供がいて、そしてピアニストとして大成功を収めているだろう。それでいいのだ。

 洵はこれから沢山恋をして、時には女を泣かせるのもいいだろう。洵の放つ色気は、女をいくらでも引き寄せるだろう。女を芸の肥やしにすればいい。そして、抱いた女の数だけ、ピアノに哀愁と色気が加わるのだ。

 私も洵のピアノの奥深さの一因となれただろうか。洵はこんな所で小さく収まるような男じゃない。世界を股にかけ、飛躍するピアニストになる。だから共に支え合い、歩いていけない私の存在は、邪魔なだけだ。

「出会えて良かった」

 私は手を差し出した。友達のしるしだ。

「俺も……。杏樹を好きになって良かった」

 洵と私は固く握手をした。大きな手に力が入って、痛いくらいだった。私は泣きながら笑った。洵も、無理やり顔に力を入れて微笑んでいた。

「なあ、杏樹。考え直す気はない?」

 この状況で、再び問う洵に、ぷっと吹き出してしまった。

「考え直す気はないわ。一度決めたことは覆さない性格なの」
「だよな」

 私達は握手をしながら笑い合った。そして、洵はポーランドへと旅立って行った。

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