ショパンの指先
 洵と笑顔で別れた数日後、私はアマービレへ行った。カウンターにはいつものように優馬がカクテルを作っていて、檀上にある漆黒のピアノは、演者不在のままひっそりと佇んでいた。アマービレのスタッフ達も皆、私の顔を覚えたらしく私が来店すると心地いい笑顔で接客してくれる。いつものようにカウンター席へと向かった私は、見慣れぬ人物がそこに座っていたので、はたと足を止めた。

 見慣れぬ人物とはいっても、面識のない人ではない。アマービレでよく見かける人物だ。ならばどうして驚いたのかというと、彼女はいつもカウンター席には座らないからだ。カウンター席で見慣れぬ人物、遠子さんはいつも一人テーブル席に座っていた。

「あら杏樹、なんでここに」

 優馬が私の存在に気付き声を掛けた。するとカウンター席に座っていた遠子さんが勢いよく顔を上げ振り向いた。遠子さんがまるで幽霊でも見るような目で私を凝視している。

「杏樹は洵と一緒にポーランドに行ったのではなかったの?」

 優馬が聞く。どうして知っているのだろうと一瞬思ったけれど、優馬と洵はあの夜私と会うまでに顔を合わせているのだ。その時、洵が優馬に杏樹を迎えに来たとでも言っていたのかもしれない。私は乾いた笑みを見せて、視線を外しながら答えた。

「断ったの」
「どうして」
「その前に、一杯飲んでもいい? 喉が乾いちゃった」
「え、ええ。ちょっと待っていて。いつものでいい?」
「お願い」

 私は止まっていた足を動かして、カウンター席に近付いた。いまだに驚いた顔で凝視している遠子さんに「隣、座ってもいいですか?」と聞くと、遠子さんはハッと我に返って私から視線を逸らし「好きな所に座ったら」と冷めた様子で言い放った。
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