ショパンの指先
 その返事に私は少しムッとして、椅子を一つ分空けて座った。微妙な距離感が、私たちの関係を表現しているかのようだった。

 優馬は手際よくカクテルを作って、カウンターの上に乗せ、上目使いで私を見た。私の言葉が待ちきれないといわんばかりの目だった。

 優馬と遠子さんが、なぜ私が洵に付いていかなかったのか早く聞きたがっているとは分かっていても、私は自分のペースでゆっくりとカクテルを飲んだ。楽しい話ではないので、私の方にも心の準備が必要だったからだ。

「私が電話で店に呼び出した日、洵と会ったのでしょう?」

 私から言いだすのを待ちきれないらしく、優馬が聞いた。

「会ったわ」
「洵は一緒に付いて来いって言わなかったの?」
「言われたわ」
「じゃあ、なんでまだ日本にいるのよ」
「だから、断ったって言ったじゃない」
「どうして」

 また話は振り出しに戻った。どうして。この問いを正確に答えることは難しい。私は洵に相応しい女だと思わなかった、なんて殊勝なことを言ったら、あんたらしくないって一笑に付されるだろうし、洵のためを思って身を引いたというわけでもない。

あまりにも洵がいい男になりすぎていて、なんだか気後れしてしまったというのもある。洵の隣が居心地のいい場所ではなくなっていた。

それは洵が変わったからというだけではない。きっと私も洵がいなくなった数か月間で変わったんだ。

盲目の中でも突っ走るような勇気が持てなかった。勇気という言葉を使うと、それはいいことのように聞こえるけれど、闇の中を裸足で駆け抜けるのは、賢いことではない。無知だったからこそ為せる業だ。子供だった。
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