ショパンの指先
「ええ。長いことセックスレスだったのだけど。愛人と別れたのかしら」

「良かったですね。愛している人との間に子供ができて」

「複雑よ。どうして私には天罰が下らないのだろうって。こんなにあっさりできて。神様は何を見ているのかしら。こんな最低な女に天使を授けるなんて」

「神様はよく見ているから、遠子さんに子供を授けてくれたのではないでしょうか。もう、寂しくならないようにって」

 遠子さんは私を驚いたように見つめた。

「あなたって変わっている。洵の惚れた相手が、どうしてあなたなのか分からなかったけど、少しだけ分かったような気がするわ」

「私はいまだに、どうして洵が私を好きになったのか分からないです」

 遠子さんはふふっと笑い、「実は私、意地悪だから隠していたことがあるのだけど」と切り出した。

「アマービレはもう夫の管轄じゃないの。妊娠したからっていうのもあるけど、もう大きな顔できないからお店に行ってなかったのよ。だからもう、私にあなたを辞めさせる権限はないの。あなたが洵と会おうと何しようと、私は手出しできないのよ」

「え?」

「それじゃあ、私帰るわ。もう日も落ちてきたし。久しぶりに沢山お喋りできて、なかなか楽しかったわ。じゃあね」

 そう言って遠子さんは立ち上がり、ひらひらと手を振って行ってしまった。遠子さんは私を許してくれたのだろうか。洵と会うなと言っていた約束を自分から反故するなんて。後に残された私は、洵と会うなという制限がなくなってしまったことに戸惑いを覚えていた。それがあるから、自分にも周りにも言い訳できていたのに。

 私はただ、小さくなっていく遠子さんの背中を見続けることしかできなかった。
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