ショパンの指先
洵を見てしまったら、ここがどこかとか全て忘れて駆け寄ってしまうのではないか。

それとも、好きが溢れすぎて胸が苦しくなって、演奏中だというのに会場から走って逃げだしてしまうのではないか。まだ洵の姿を見ていないのに、パンフレットに載っている洵の写真を見ただけで目頭が熱くなる。

 私はまだこんなにも洵が好きだったのかと、自分の気持ちに愕然とした。洵の姿を見てしまったら、私は後悔するかもしれない。洵についていかなかったことを。もう洵は一年前の洵じゃない。私のことは忘れてしまったかもしれない。顔を見ればさすがに思い出してくれるとは思うけれど、洵にとって私はもう特別な存在ではないだろう。

 洵は一人でも立派に成功を収めた。私の存在は必要ない、むしろ邪魔だった。だから、洵についていかなくて正解だった。

私は洵を遠くから見つめて応援するだけの存在であるのが丁度いい。だから、どこかで何かを期待してしまう自分の気持ちを押し止めた。

洵が私に気付くなんて奇跡だ。そんな奇跡、あってはいけない。

私と洵は、この距離感が丁度いい。ステージ上と、後ろの方の座席。

きっとこれが私たちのハッピーエンド。


 会場内の照明が落とされ、ざわざわしていた話し声がすっと消えた。始まる。そう思うと、緊張が一気にピークに達した。胸元を押さえ、ゆっくりと深呼吸をする。

 垂れ幕が上がっていくと、会場内の視線がステージ上に集中した。目を開けているのも辛い。でも、見たいと思う欲求が怖さを上回る。

 大きなステージの中央には、漆黒に輝くグランドピアノだけが置いてあった。照明がグランドピアノ一点に集中し、ピアノは堂々とした威厳に満ち溢れていた。

 眩暈がする。アマービレのグランドピアノを思い出す。そこで洵が演奏していた姿が、くっきりと目に浮かんだ。あの頃の気持ちも一緒に思い出し、思わず口を押さえ、涙を堪えた。
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