ショパンの指先
 ピアニストがまたお前と呼んだので、私は思いっきり睨みつけてやった。すると、それに気付いたピアニストが、言いかけた言葉を飲み込んで、少しトーンダウンして再び口を開いた。

「……杏樹だって俺のことあんたって呼んだだろう」

 自分で言ったにも関わらず、下の名前で呼ばれて少しドキリとした。

 杏樹……。
 うん、呼び捨てでも悪くない。

 私はすっかり上機嫌になった。

「じゃあ洵って呼ぼう」
「なんで俺の名前を知っている!?」
「バーテンダーが言っていたから」
「優馬のことか。あいつ、何勝手に人の名前教えている」

 洵は独り言を呟くように毒づいた。

 そうか、あのバーテンダーは優馬っていうのか。なつきとか、ゆう、とかだったら女でも通用する名前だが、ゆうま、なんて誰が聞いても男だと思う名前だ。中身とのギャップが激しくて、なんだか可笑しかった。

「一人でニヤついて、気持ち悪い女だな。それに、ついて来るなよ。ストーカーか!」

洵に毒づかれても、さほど腹が立たなかった。杏樹と呼ばれて嬉しかった気持ちが持続していたからだ。

「まだついて来んのかよ。警察呼ぶぞ」

 洵は呆れたように言葉を吐いた。

 洵の言葉はきついけれど、本当に怒っている様子は感じられなかった。

 嫌がっているけれど、本当に嫌なわけではないように見える。

 だって、本気で嫌なら、さっき通った交番に駆け込むなり、走って巻いたりすればいいことだ。

 それなのに、数メートルおきに立ち止まって振り向いて、私に毒つく。まるで私の歩調に合わせてくれているかのようだ。
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