ショパンの指先
そこには、煩わしいもの、私たちを不快にさせるものなんて一つもない。

世界中から人々が消え去って、私たち二人だけになっている。

私は幸せな気分に浸りながら、深いまどろみの中に落ちていった。


どのくらい寝ていたのだろうか。

私は永遠に鳴り響くような携帯の着信音で目が覚めた。

「はい」

寝起きの声を隠しもせずに電話に出ると「おはよう杏樹、ようやく起きたか」と電話の相手が喋った。

杏樹と呼ばれて、昨日、洵に杏樹と呼ばれる前までは感じなかった不快感が胸に渦巻いた。私を呼び捨てにしていいのは洵だけだ。でも、そんなこと言えるはずがない。

電話の相手は有村だった。

当然のように私の名前を呼び捨てにする有村に唾を吐きたくなった。私の名前が汚された気分だ。

中学校の頃、好きな先輩と握手した後「もう手を洗わない」なんて興奮しながら言っている子に、悪ガキ少年が不意打ちで握手をして、その子が泣きそうになりながら怒っている姿をふいに思い出した。

別にたいしたことじゃないだろうと思って見ていたけれど、きっとあの子も今の私と同じ気分なのかもしれない。名前も忘れてしまったあの子に激しく同情する。

「急だが仕事が入った。今日の20時いけるか?」

「今日?」

私は時計を探した。

いつもはベッド横のサイドテーブルにあるのに、時計が消えていたのだ。私は苛々しながら、携帯を肩と頬に挟んで時計を探す。

「何をしている?」


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